境界の花

 過ぎた季節を思うほど、過ぎたことを思うわけでもなかったが、少しずつ、少しずつ、涼しくなってくる季節には、いつもいささかの不定愁訴を感じていたのだが、その年にはそんな悲観も、また楽観もなかった。実は、悲観も楽観もないところにしか、楽観はないのだろうと、ずっと後になってあの地層の空を思い返しているとそう考えるのだが、それを書いているさなかの、時の終わりの現代の僕にも、やっぱり悲観はないし、楽観もないようだ。

 くだを巻いて、おどけてふざけて、それでも結局、生き通した。しかもそれは裏腹にどこまでも繊細、否、内側に向かう敏感な感応性の裏返しで、あの空の下の境界の彼方にあった、べっこう飴にもクンニリングスにも代え難い― ―を、或いは<それ>を、言い換えればan sichならぬDas Esを、ただ、素朴な思いで共有させたかったのだ。或いはそれは、結局は「弁明」というもので、論証によって境地に至った人は一人もいず、あらゆる境地という境地の山また山には、やっぱりそれぞれに狭き門があって、そこに入るためには必ず裏口から入らなければならないという経験の欠如だった。


―――—


 小さな小さな古墳には、茶褐色に錆付いた格子がかかっていた。その傍らの道路を行くときの、あの、誰かと歩いていると誰もが社会性の意識が立ち上がるゆえに指摘しない、あの牛糞の匂いが、どうにも鼻腔を喜ばせる香りであった。


 秋風の午後の下旬には、赤い彼岸花が良く似合った。Wikipediaで検索すると、それはかつて救荒植物として、つまり飢饉の時の食物として、毒を抜いて食べていたということが書かれていた。

 高架道路のすぐ向こうに、彼女は立っていた。すぐに、いつもと違うことに気づいた。


「あ、今日は画材を持っていないですね」

「持つものが多いと、持たれることも多いですから」

「それはわかる気がします。でも、そう言うということは、多分、帰ったらお描きになるんでしょう?」

「どうですかね」


 やっぱり、何かを描いて、それで、どこかへ行くのだろうと思った。九月下旬に入ったばかりの、田んぼの中に突き出した祠に伸びる草道の、その入り口の彼岸花が、衆生の悲しみを抜き取ると同時に、どこかでその「悲」の復讐をしたがっているようにも見えたのだ。


 彼女は、僕が向いて気づくと、下を向いていたその顔を、目から先に顔をこちらに向けて、はっきりと話し始めた。


「進み続ける筆の、彩りにも、区切りがあるものです。青い季節が過ぎて、赤い境界の彼方には、燈火が必要になります。……寂しいともっと寂しくなるじゃないですか、言葉で……、言葉で……、そうすると、杉木立のどこかからの鳥の声、草地の向こうで流れる水の音、木に触ったりする磁力が、わからなくなりませんか?……本当は、ずっと一緒にいたいんだけど、そういうことでもないのかもしれない。でも、そのときには、言わなくても、いや、わからなくてもわかりますから……。」


 僕は、この午後の顔を朝の風情で山に向けて、呆けて眺めていた。あの山際を。


「僕は、わからないことを掴んでいる気がしますが、そうじゃないんですか?」

「止まった世界の有機連関ではなく……。」


 そのうちに、風の運んできた、大きな雲から千切れた雲が、その日の影を作る太陽を隠した。同時に僕たちの影もぼやけることになった。農業のためか、何のためかに作られたそのアスファルトの道路と祠と山の囲いは、その瞬間には目尻が下がるような不気味な暗さを帯び、それによってかえって境界の花の赤は、暗くあるが故の艶やかさに映えていた。ふいにそれを凝視すると、もう花弁の全体が開いている局面というよりは、枯れ行く黒い紅に向かって凝縮していた。

 僕は次第に、来年この花が咲く頃には……、等々というようなことを考え出していた。彼女が再び口を開いた。


「内省の鏡はどこにあるんでしょうね。顔……、よくわからないんです。星を覗いたら光が見えますけど……」


 僕はわからないフリをした。わかるということは嘘ということだと思ったからだ。そこで、どうしようもなく、動いてみることにした。

 突然僕は、花を飛び越え、祠の方へと突進した。真顔で、無言だったが、内側が、つまりそれは世界が、ということであったが、その一切が、爽快であった。その瞬間体全身でくるっと振り返ると、ただ彼女だけが、一切の清新から取り残されたように……、涙を流し始めていた――。

 その瞬間、一切は暗がりになり、次に、黄色く茂る田んぼと、その田中の道と、山と、送電線の鉄塔と、遠くに見える農協の建物と、彼女と、そして雲と、天高く烏の飛ぶ青とに、<それ>は散開し始めた。ふいに気づいて目をやると、祠の側から見た彼岸花は、既に時の終わりの濃密さを示していた。——


(紫がかった「またね」という声を聴いた気もする。またはその時には聴いていなかったかもしれないものが、今になって漸く再生されたのかもしれなかった。……しかし既に、この神経のありふれた相対的な自我は、瞼の奥を高速で駆け抜ける批判のまどろみに沈んでいた。)

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地層の空 てると @aichi_the_east

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