2章 友
第二章 友
【40.黒い瞳】
この部屋で初めての朝を迎えた俺を、陽光が眩しく歓迎した。
ジャケットを着け、早朝の散歩にでかけた。
松風通りでは松葉の気を纏った日差しが、俺の頬を摩ってくれた。
駅前の喫茶店で、半玉のグレープフルーツがついたモーニングセットを注文し、スマホのマップを拡げた。興味を惹くスポットがあちこちにある。自動車免許だけでなく、バイクの免許も取得すれば、そこへも気軽に行ける。駐輪場には、百㏄のバイクまでなら置いてもいいと聞いたし。
運転免許を合宿最短コースでとることにした。
過密スケジュールの実技教習と学科授業に慣れた頃、仲間ができた。
どこから来た、取得後は何をする、そんな話題が尽きたとき、噂話に花が咲いた。
ペアのブルージーンズ、ホワイトネックセーター、ブラウンのレザージャケット。
その二人が、キスをしているところを俺もみたことがある。
話によると、その男はバイク免許だけを取りに来ていた。
そんな彼との縁は、一本橋テストの待合席ではじまった。そのテストは、幅三十㎝、長さ十五mの平均台を七秒以上かけ徐行運転するバランス能力の試験だった。
彼は途中で橋から脱輪した。
この場合、普通、受験者は一本橋より先までバイクを進ませそこでぐるりと回って、残念そうな顔で帰ってくる。
しかし彼は、落ちた場所で、前輪のブレーキをかけたままエンジンを噴かせ後輪だけを回転させた。車体は方向を反転させるとき、タイヤは焦げ、路面に跡を残した。
数人の見学者からオ~ッ、という歓声が沸き上がった。
彼は待機席に戻るとき、睨む教官にへつらいもしなかった。
彼は、俺の隣にドカッ、と座った。
「お見事でした」と、俺は声をかけた。
上弦の月よろしく、唇の両端を引き上げ、真っ白な歯を見せ、彼は「君の歳よりもうちょっと若い時分やったな。バイクを無免許で乗り回していたのは……。蛇行運転ばかりしたせいか、真っ直ぐ走るのは苦手や。はっはっ……。ところで君は学生か?」といった。
「この四月から大学生です」と、俺は答えた。
「何処から?」
「埼玉県からきました」
「家は?」
「芦屋です」
「阪神沿線か?」
「駅そばのマンションです」
「歩きでもOKやな。わしの店が、隣の深江駅近くに四月八日に開店するんや」
「何屋さんですか?」
「串焼き屋」
「屋号は?」
「にわよし。漢字で数字の二と八と四と四」
「未成年なのでお酒は飲めませんが、必ず行きます」と、俺は約束した。
俺は、マスターのダークブラックの瞳に惹かれた。
強い欲が、その濃い黒を形成しているかのように思えたからだ。
孤児になって約二年の間、中山さん、金先生、鯛釣和尚、光石和尚に政数副住職、陽さん、里見さん、俺が惹かれた人たちは皆、澄んだ目をしていた。
中山さんと里見さんは五十歳台前半。マスターは三十歳台前半。二人が父親ならマスターは歳の離れたお兄ちゃんといった感じがする。
この真っ黒な瞳に、世界はどう映っているのだろうか。
彼とはよく話す仲になり、いろんなことを訊いた。
「トシ君、仰山努力したら仰山の結果が出るよな。わしは商売人やさかいにお金の根っこは何か、ちゅうことを考え抜く努力をいつもしとる。努力の度合いはシビアに数字に換算して検証せなあかん。それがお金や。お客さんが今欲しがっているものやこと、この先欲しがるものやことを感知し、それに応えるためにどうしたろうか、といった努力を怠ったらあかん。お客さんの欲望を掘り当て、商品をつくり、買ってもらう。商品は味だけやなく、雰囲気もや。商売とはただそれだけのことや。それとな、このことを知っておいた方がええな。臨界点の話もしておこか。固体が液体に、液体が気体に変わる、温度と圧力の上限みたいなものやな。要するに……、いいたいことは、変身や。わしの場合なら年収二千万円を超えたところが、その臨界点やったわ。それ以前のわしを、別人に思える自分に変わってたんや。要するに……、次元が変わるちゅうことや。トシ君なら、高校生から医大生に変身した訳やな。そして、医大生が医師免許とって医者に変身。その先が肝心やな。変身が複数起き続ける人生にせなあかんで。世の中は俗っぽいものや。民主主義を熟成させるのは政治やない。払ってくれる人、つまりお客さんに合わせる商売的な努力が、庶民を大事にする気風を生むのや。医者こそ、この庶民を大事にする気風がないとな。そう思わんか。そやから、庶民の文化動向を敏感に察知するセンスを、磨くことも怠ったらあかん。伝統文化の文化やなくて、ものの見方、考え方の方の文化や。『アニメ』も今の日本を形成した文化のうちの一つだといえんのやで」と、俺の問いに対し、独特な解釈で回答してくれた。
【41.魚屋道】
今日、久し振りに彼に会う。
二八四四(にわよし)の開店日だ。
彼女さんが俺をカウンター席に案内してくれた。
枕木の古材とジャズが印象的な店だ。
挨拶を交わし終えると、彼、つまり、ここのマスターが、隣に座っている二人の男性を俺に紹介した。深江駅前にある空手道場の館長と指導員だそうだ。
「こちらの先生は有名な方やで。お弟子さんはトシ君の一つ歳上になるかな?」
「もうすぐ二十歳になります」透き抜けるような笑顔で彼は答えた。
「トシ君は神戸に越してきたばかり。仲ようしたって」マスターは、俺の肩を揉みながらそういうと仕事に戻った。
「今度の日曜、魚屋道を歩いて有馬温泉へ行くけど、一緒にどうですか?」と、俺のひとつ歳上だという彼が、子どものような目をしていった。
俺はその目が気に入り、誘いを快諾した。
神戸市東灘区に深江という街がある。
俺が住む部屋の最寄り駅は阪神芦屋。その西隣が、高架化工事中の阪神深江駅だ。駅の真下を海から山へ、南北に抜けるこの通りが「魚屋道」だ。昔、深江浜で捕れた魚を有馬の温泉旅館へ、急ぎ届ける足跡が残した道だそうだ。
先日交わした有田豊さんとの約束で、今日は有馬の湯へ二人旅。
小柄で丸顔、分厚い唇と両眉毛が八の字の有田豊さんが道場看板前で待っていた。
「おはよう、トシ君」
「おはようございます、有田さん。今日はよろしくお願いします」
「有田さんではなくて豊君って呼んで」と豊さんがいった。
「じゃあ、そう呼ばせてもらいます」
「昼には有馬に着く。公共の湯があり食堂もある。他に質問は?」と豊君が訊いた。
俺はボディーバッグのベルトをグッと握り「水とタオルと現金は中にあります」と回答した。
「この道は稲荷筋とも呼ばれている。ここが森稲荷神社。この境内で木の葉の揺れを相手に稽古をしている。坂道は走るけど大丈夫?」と訊かれた。
首を縦に振るしかない。
豊君は車道を駆け上って行った。
俺も続いた。
十秒で胸が苦しくなり、二十秒で膝が笑った。
急勾配を走らされるとは。
でも、意地がある。 選手会で鍛えた俺だ。自然と気合いの声が出てしまった。
女子たちが、引く感顕わに、こっちを見た。
同世代異性がなぜかこの道には沢山いる。
しかも、キラキラした女子大生たちじゃないか。
なぜか力が湧き、膝と胸の痛みが感じなくなる。
靡く黒髪と白と原色に包まれた彼女たちの右を、駆け上がる俺は加速していく。
豊君と俺は、語らずとも互いの心中を察し、にやっとした。
魚は車で有馬へ運ばれる今、魚屋道は獣道に毛の生えたぐらいの道すじだった。
山のなかを駆け抜ける豊君の様子が下り坂では不規則に弾むラグビーボールのようだった。
【42.猪親子】
俺も二つ目の峠を越えた頃、足を最適な踏み処を勝手に探すようになった。
恍惚感さえ覚えた。
「トシ君、はよう木に登って」と豊君が叫んだ。木登りする豊君の向こうに大きな岩が動いてみえる。
岩ではない。それは巨大なイノシシだった。身の危険を感じた。
頭頂でペンキ缶がひっくり返ったかのように、全身が真っ青になった。
何度も足を滑らせながら、必死に二メートル位の高さまで登った。
豊君は、焦る俺を見ながら爆笑した。
イノシシは鼻を鳴らして威嚇している。
俺はしっかりと木にしがみつき、猪親子を睨み返す。
笑い続けている豊君に嫌悪の感情を覚えた。逆襲してやる。
「豊君、アメリカに熊と闘った空手家がいたよね。稽古の成果をここで試したら?」
職業空手家の豊君。どんな言い訳をするのか、楽しみだった。
「まだ伝えていなかったかな、自分は動物愛護家やったこと……」
関西の「のり」とはこのことか。
子イノシシが、俺の木に体躯を激突させた。
そして親イノシシに何かをせがんだ。
「こいつら落としてください。あとは僕が縄張りのけじめをつけます」と、俺にはそう聞き取れたと豊君に伝えた。
すると豊君は「自分にも聞こえたわ。自分が詫び入れるわ。イノシシさん、関東からのよそ者が挨拶なしで縄張りに入ったこと許したってください。わしからきつうにいって聞かせておきますから。トシ君そこで土下座しい」
俺は、枝の上に正座し頭を下げた。
猪親子が何やら協議をしている。
それからはボケと突っ込みをやり取りしながらイノシシが去るのを待った。
幼い頃、友だち意味なく遊んだときの幸福感を思い出した。
あの年齢は、幸福の意味を考えなくていい、本当に幸福な時期だったと思った。
「トシ君。そろそろ行こうか」豊君が木を降りだした。
猪親子は、いなかった。
それから俺たちは、「下り」で跳ねて、「上り」で歩を刻みながら語りあった。
有馬の金泉に浸かりながら、十七歳で孤児になってからの出来事を豊君に話した。
銀泉で、豊君が空手との縁を語ってくれた。
七歳の時、父親の思いつきで近所の寸止め空手道場に入門。
十歳の時、フルコンタクト空手道場に移籍。
中学時代は道場には通わず、一人で空手稽古を続けた。
高校では三つの道場に週二回ずつ六日通い詰めた。優勝した試合で決めた前蹴りが評価され、スカウトされる形で内弟子指導員になった。
この頃、少年部生徒たちを育てる喜びを自覚しだしている。
試合で勝つことよりも、修行で達人になることを望んでいる、とのことだった。
帰路は、有馬温泉発阪神芦屋行き、のバスに乗った。
終点の停留所が、俺の家すぐにあったと、はじめて知った。
「今日は二八四四に行こうや。引っ越し祝いで奢るから」と豊君が俺を誘った。
二時間後の再会を約束した。
芦屋川沿いを歩くことにした。
桜のはなびらがピンクの絨毯よろしく、桜並木に敷かれていた。
柔らかで朗らかな刺激が足裏から心まで届けられた。
その心では、対立するかのような興奮と緊張が起きていた。
ここで、新たな生活が始まる。
【43.大梁】
傘をつけた裸電球の薄あかり、踏むと伝わる木の弾性、サックスジャズBGM。
尾ひれのような皺が、目じりからこめかみに拡げたマスターがいった。
「若者たちよ、気が合うようでよかったわ。豊君は二十歳になるっていってたな」
「十二日が誕生日でした。これからは堂々と飲ませてもらいます」
「よっしゃ。カヨちゃん、豊君の酒代、無料にしたってな」と、マスターがいった。
やおら振り返ったカヨちゃんが、右の親指と人差し指で輪を作った。
「トシ君は未成年やったな。残念やけどソフトドリンクで」とマスターがいった。
そして、豊君に何やら話かけた。
俺は、店を見渡した。
西川口の二三舟、神戸では二八四四。俺の物語は、やきとり屋ではじまる。
でも、二三舟と二八四四ではタイプがまるで逆。
二三舟は、カウンターに面した焼台前に中山さんが立ち、独特の落ち着きを醸す。
主役はマスターだ。
ここはまるで逆だ。
二八四四は、濃い目の古材をダウンライトで調光し、間仕切りされたボックス席それぞれが小劇場だ。この箱のなかでは客が主役だ。
店の雰囲気の差。
俺の生活は、全く異なる展開になりそうだ。
二人から、家庭訪問がどうのこうのと聞こえてくる。
店の中央に配された大黒柱に太い梁。
いずれも古民家で使われていた年代物だ。
和みがある。
六克寺禅道場にも大きな梁があった。
光石和尚が恋しい。
早速、行ってみよう。
そうだ、豊君を誘おう。
「ほな、楽しんで」といい、マスターは仕事に戻った。
「豊君、坐禅に興味ある?」
「武道と禅はセットのようなものやから、立禅、立ってやる禅は稽古しているで」
「武蔵が熊本の霊巌洞で禅を組み五輪書を著したでしょ。豊君は宮本武蔵のことは好き?」
「大好きさ。吉川英治の小説は自分のバイブルやで」と豊君がいった。
「それなら行こうよ。イノシシを紹介してもらったお礼で、坐禅会を紹介するよ」
「いつ?」と豊君が訊いた。
「明日の夜七時から九時まで」
「一般部稽古指導があるから……、でも、館長の許可と後輩の都合訊いてみるわ。せやから、あとで返事してもええか?」
「いいよ、行けるなら、俺のバイクに乗せてあげる。百㏄のスクーター買ったから」
「明日、午後三時頃までには回答するわ」
「ところで、さっき家庭訪問がどうのこうのと、マスターと話していたでしょ?」
「ああ。自分、子どもが好きみたいや。少年部に空手を教えているとき、ほんまに充実感があってな、もっと力になりたい思うてな。それで、子ども全員の家庭訪問をしている最中なんや。館長がそのことをマスターの前で褒めてくれはってな。マスターは、興味あるみたいやねん。なんか気づいたことあったか?と訊かれたわけや」
「その気づき、俺にも聞かせてよ」と、俺は頼んだ。
「ちょっと真面目な話やで」と前置きし、豊君がこんな内容の話をした。
先ずは、それぞれの家庭に独特の雰囲気がある。空気の匂いも重さも質感もカラーも異なる。子に対する親の意識に高低がある。愛情は秤にかけて数値にできないけど、皆同じという訳ではない。
豊君は、ジョッキを飲み干し、話を続けた。
「でも一つだけ、共通する事柄があったで。それは、親子はそっくりな面を持ってはる。顔かたち以外の話やで。しぐさや口癖からはじまって、オーラちゅうか柄ちゅうか色ちゅうか中身ちゅうか。つまり、子どもは、親のいろんな技を稽古してしまっているちゅうことや。ある意味、師匠と弟子の関係や、親子は」
「豊君は自分の親そっくりに育ったと言えるの?」
「わしの歳になるとそっくりそのままとはいかんな。親以外からも影響を受けたからな。数人いる尊敬する先生や恩人、それと空手の師範、憧れの先輩、あと映画やドラマ、本のなかではまった人物たちを自分に取り込もうとしてきたからな」と豊君が答えた。
「親だけではなく、そんな人たちを稽古した結果が今の豊君だと言う訳?」
「そやな。この身体がいいのもわるいのも映しとってきたちゅう訳や」と、しみじみといった。
カヨちゃんに、コーラと豊君の生ビールを頼んだ。
「子どもだけでない。大人も何かを、意識と無意識の両方で稽古しとる」と豊君がいった。
「ある人がこんなことをいっていたよ。人類はスマホを稽古しているからスマホみたいになるとね」
「あたりや。映して現像する写真と同じや。稽古は心の撮影や。それでな、この心映しの仕組みを教育に生かせやしないかと考えている訳や」と豊君がいった。
「稽古教育か」と俺がいうと「そや、稽古教育や。そのネーミング頂くわ」と豊君が嬉しそうにいった。
乾杯、とジョッキとグラスを合わせた響きが「いいじゃん」と聞こえた。
翌日、豊君から都合がついたとメールが届いた。
この濃い色の上がり框。
下足入れに靴を揃え、廊下の手前に据え置かれた記帳台で、参禅者リストに自署し、豊君にペンを渡した。
豊君に、ここでのいろはを小声で伝えながら廊下を進んだ。
一礼し本堂に入った。
線香と経の響きを幾々年も吸い込んだ、二八四四の倍はあろう梁に目が行く。
ここは、金先生の紹介だった。
金先生との出会いは、村松さんの手配だった。
たくさんの人につなげてもらい、此処まで来た。
そして今日、友をここにつなげる。
結跏趺坐、姿勢と呼吸、それに目線。
豊君に講釈した。
豊君が「ありがとな」とささやく。
坐禅会がはじまる定刻まで、あと二十分はある。
据え置かれた二十八個の座布は既に満席で、後から来た背広姿の参禅者はお堂隅に積まれた直系十㎝強の角材を手に取り、空きスペースで、それに尻を載せ、足を組む。衣服の擦れる音が沈黙を奪い、壁では影が左右に動く。
和尚はあの日、「心の数」が生命体の次元を決めるという話をした。
その時、生命体首座は、人から「AIサイボーグ」に移行するだろう、俺の予測が確信に変わった。
AIは、「記憶の組合せ」を強化学習し、無限に「記憶の組合せ」を創る。
また、誕生させた「記憶の組合せ」を全て把握し、常時、意識下に置ける。
人間には不可能だ。無意識レベルで行われた「記憶の組合せ」は、自覚に及ばないことの方が多い。意識下の「記憶の組合せ」でさえ、忘れてしまうこともある。
だから、人間よりAIの方が確実に「心の数」を増やす。
あっ、この引き寄せられる感じ。
ゆっくりと瞼を上げた。
月のような光石和尚がそこにいる。
和尚が足を組む。
俺は、和尚に心を開く。
そして、心に和尚を映す。
生の執着を忘れる。
肺は、空気を抜いた浮袋になり、身体中のガスが排出される。
禅定だ。
この、中今に在る充溢。
自由自在な感覚。
「記憶の組合せ」の波形を、言葉に変換する機能が作動しはじめる。
「記憶の部屋」が「記憶の組合せ」に集散する様まで、今日は俯瞰できる。
【44.快覚】
「記憶の部屋」同士を引き寄せるには磁力が要る。
その磁力の正体が「言霊」なのかも知れない?
こんな感じで禅定中には、閃きが起きる。
閃きは、脳に快感を味あわせる。
だから、坐禅は止められない。
じっと坐る禅を組む姿を見て、忍耐強いですね、と言われることがあるが、それは見当違いだ。
快感を味わおうとして坐っているだけだ。
閃いたことを妄想じゃないかと、俺自身が疑うこともあった。
でも、今はこう考える。
妄想が真相であったり、真相を妄想だと勘違いしいたり、閃きが真相だったり、妄想がやはり妄想に過ぎなかったり。
みえたこと、感じたこと、想えたこと、素直に信じてみることにしている。
そして、真摯に問う人には、信じたことを隠さず話す。
光石和尚が講話をはじめた。
「プラマイゼロに精算させる、普遍的な自然摂理があります。大自然の一部である生きものは、自然摂理に反して生きることはできません。『色』を形成しているのは『空』です。形成には引き合う力、引き離す力が必要で、それは、磁力です。あらゆるものが形成に加わるとき、それぞれに帯びていた電位が入り乱れます。そしてプラマイゼロに落ち着いたとき調和したことになります。ここからが肝心です。調和は破壊され、新たな創造がはじまります。そして更に調和する。このサイクルで大自然は進化向上しています」
やはり、光石和尚の「記憶野」を俺の「記憶の倉庫」が映している。
だから、思考がリンクしていたのだ。
今日の閃きは、形成に必要な磁力、正体は「言霊」かも?ということだった。
時間を知らせる鐘が響く。
合掌し結跏趺坐を解く。
垂直に硬直した背が心地良く痛む。
左を向くと、豊君はまだ続けていた。
するまま、任せることにした。
参禅者が立つ。服がこすれる音、床の軋む音。
豊君がこっちをみる。
「トシ君、不思議な体験やったわ」
「場所を変えてその不思議な体験を聞かせてよ」と、俺はいった。
豊君は、足の指をそり返しては丸める動作を、幾度も繰り返し、立ち上がった。
痺れた両足を、一歩一歩交互に慎重に、歩きだす。
玄関から、俺の名が聞こえた。
あれは、政数副住職の声だ。
「偶然、トシ君の名をみて、待っていました」と、記帳台を指していった。
「友人の豊君です。ここの坐禅を体験してもらいました」と、政数副住職に豊君を紹介した。
「いい顔していますね。お仕事は何を」と、政数副住職が訊いた。
「空手道場の指導員です」
「何処で?」
「阪神深江です」
「深江ですか。焼肉の『かご屋』を知っていますか?」
「よく行きます」豊君が答えた。
「トシ君、前回別れるとき約束した、『かご屋』のこと憶えていますか?三人でどうです?」と、政数副住職が俺たちを誘った。
豊君が頷いた。
ラインで調整しましょう、と政数副住職が二次元コードを提示した。
【45.『かご屋』】
午後五時四十五分。約束の十五分前だ。
俺はかご屋玄関横の炭炉に近づき暖をとった。
今日は寒い。
ゴールデンウイークが過ぎるまで薄着は禁物だよ、と春の装いを早めに楽しむ母をよく諭していた父と、この時期よく風邪で寝込んだ母の面影が浮かんだ。
四角い棒状のおがくず備長炭が、ガサっと音をたて崩れ落ちる。
スマホが揺れた。
豊君から短い文章が届いた。
「スミマセン。急な事情で行けません」
店から約三十メートル、浜側にある阪神電鉄線路の繋目と車輪が軋む音が、切なく響く。
「ライン見ましたよ。今日は二人で」と、振り向く俺に政数副住職が暖簾をめくりながらそういった。
店内は、左手の座敷に八掛けの座卓が五列。
右手奥厨房前に、四人掛けのテーブルが六卓。
壁には、びっしり貼られた有名人の色紙。
座卓に設えたステンレス製の窪みに、大きめの耐熱皮手袋をはめたスタッフが、炎上がる七厘を置き、「こちらへどうぞ」といった。
俺と政数副住職は、座卓奥にある窪みを挟み対座した。
手前には、ほぼ同時にカップルが案内された。座卓に相席するのも関西らしくて妙に嬉しく感じた。
「タンを二人前。特上カルビ、ミスジ、カイノミを一人前ずつ塩で。ハラミは二人前をタレで。テチャンは味噌タレで三人前。僕は生ビール。トシ君はウーロン茶かな?」
俺は、店員さんへ向き頷く。
「キムチとサンチュを、こっちとあっちに」と、ゼスチャーを交え政数副住職が注文する。
塩胡椒がかかったキャベツと、直径十センチの器に注がれたつけタレが届く。
「フルーティーで格別」といい、キャベツにタレをつけ、政数副住職が頬張った。
俺もキャベツの窪みでタレを掬い、口に入れた。間違いない。
幾つもの大きな換気扇が、カルビの焦げた脂を街へ吐き出す。
ハラミを網に乗せる頃、やっと政数副住職がトングを置く。
「ここからゆっくり。話しながら食べましょう。トシ君からどうぞ」といった。
では、と俺はこんな内容の話をした。
心の病の根源には宿業があると考えている。宿業を解消する方法があれば心の病で苦しむ人たちを楽にできると考える。自転車に譬えてみる。精神科の医師になることが前輪。後輪は、見えない「心」を、「記憶の倉庫」といった構図に見える化し、構図を用いて、宿業ができてしまった訳と、宿業が心の病を発生させる仕組みを分かり易く説明し、宿業解消法の研究開発。最後の話は、先日の坐禅会で閃いた「言霊」についてだ。
政数副住職が生ビールを飲み干し、近くを通った店員にジョッキを渡した。
「宿業解消法の創造か。救済の意欲ですね。素晴らしい。トシ君のいう宿業とは、解消せず屯っていしまっている、新価値とは逆性質の『記憶の組合せ』、ということですかね?」と、政数副住職が訊く。
俺が頷く。
「宿業解消は、赦しと懺悔が鍵でしょうね」と、政数副住職がいう。
「今時点でつかんだ宿業解消法は、感覚的に想定した居所の宿業を、忌み嫌うのではなく、愛でる気持ちで見つめる方法です」と、俺はいった。
ぷるんと揺れるほど脂づきがいいテチャンが、炎にまみれる。
「トシ君の説からすると、『言霊』が『記憶の組合せ』を起こすから、愛でるという思いが加わった『言霊』が、『記憶の組合せ』を改編させた、と推論できますね」と、政数副住職が論旨をまとめる。
「そうです。思いも『言霊』になり得ます。観察者の意思が加わることで『記憶の組合せ』が改編されます。この説は、不確定性原理の根拠になると私は思います」と、俺がいう。
政数副住職が目を輝かせた。
「もう一つ、質問いいですか?」
「はい」と、俺は政数副住職の目を見た。
「宇宙の進化向上に適う『記憶の組合せ』は、解消しなくてもいいのでは?」
「勿論です。価値ある新しい『記憶の組合せ』の創造を、大自然は人類に要求していますから。大自然には、大自然の増幅を担保する『もと』が必要で、それが、創出された新価値だと考えています」と、俺は答えた。
「顕現には、『もと』が必要ということですね」
「陰陽が均衡し存在が適う訳ですから」と、俺がいう。
「どんなかたちで顕現するのでしょうか?」と、政数副住職が訊く。
「新星の誕生です。新しい波形の誕生とも。顕現後、アンテナの役割を担った新星は、摂理の波形を発信し続けます」と俺はいった。
「星が発信体か……。鉱物それぞれに波形があるから、星が波形を持つとは理に適う。摂理の波形か……。宇宙創成の一翼を担っているのが人類ですか。新価値が宇宙の増幅を担保している、ということですね?」と、政数副住職が訊く。
「はい、そうです。また、『記憶の倉庫』を用いると、前世も、遺伝も、縁も説明できるはずです」と、俺がいうと、政数副住職が満面に笑みを見せた。
そして、振り向き、ワカメスープを二つ注文した。
「さあ、締めのわかめスープを頂いたら出ましょう」と政数副住職がいった。
外には行列ができているみたいだ。
「先日、トシさんの住まいが芦屋川沿いにあると聞きましたが?」
「教会の裏にあります」と俺は答えた。
「では芦屋川まで一緒に歩きましょう。私は阪急芦屋駅から電車に乗ります」
山側に少し歩き右折すると、そこは、芦屋川へと通じる道路だ。
その逆方向に、豊君の道場がある。
【46.サイコロの赦し】
「大嫌いな人が、トシ君にとっての最高級の師だということ知っていますか?」
「えっ。厳しくてもそこには愛情がこもっていて、好感をもって向き合える人が師ではないかと……」と、疑問を抱くトーンになった。
「それは一般論。一定の範疇を超えた次元で思索すれば、殺したいほど気に障る人が、最高級の師の役割を果たしに目の前に現れている、と分かります」と、政数副住職がいった。
「一定の範疇とは?」
「常識だと信じられている範囲、一般的な現象世界、相対的な価値判断が基準の領域」
「超常的次元での思索ですか?」
「そう。同じ波長を持つ両者が共振に至る原理によって、人は出会うと考えます」
「そうか」
「出会った二人は同じ波長の持ち主です」と、政数副住職がいった。
「人は鏡、その理由の根拠ですね」
「その通り」
「隠れた自分の宿業を知らしめる対象だから、最高級の師、という訳か」
「トシ君の『記憶の倉庫』理論的には、よく使う『記憶の部屋』は表層にあり、表層にある『記憶の部屋』の作用で言動が現れるの訳ですね?」と政数副住職が読点で長めの間を置きなが確認するように訊いた。
「はい」
「性格の良い人は、良い『記憶の部屋』を常用していることになりますよね?」
俺が頷く。
「すると、性格の悪い人は、悪い『記憶の部屋』を常用していると考えられます。この二人が出会う。しかもよく絡む関係なら、間違いなく波長が共振しているはずです。このことを、サイコロを譬えに解説できます。表が一なら裏は六。表が二なら裏は五。表が三なら裏は四。表が四なら裏は三。表が五なら裏は二。表が六なら裏は一。つまり、互いの最表層が一と六なら、性格的に相反し、ぶつかりますが、俯瞰すると同じサイコロ。同じ1から6のならびが異なるだけ」
「いい譬えですね」と、頷く。
「これ、使ってくださいね。『サイコロの赦し』とか銘打ってね。赦してもらいたいなら、全てを赦す。恨んだ人、恨んだこと、その全てを、です。赦さないで赦してもらおうなんて都合よすぎますよね、といった筋の話にすれば、人格更新の課題にもなりますしね」
心が躍りだした。
「トシ君、今度私の仕事場に遊びに来ませんか?大学には医学部もありまして、トシ君と着眼のセンスが近い精神科医がいまして、紹介できますよ」
「是非、お会いしたいです」
俺は高揚していた。
「了解」と、政数副住職が笑顔でいう。
川の土手、やっや勾配を登る間、政数副住職は黙っていた。
芦屋川がみえた。
政数副住職がやおら振り向き、「死の恐怖から解き放たれる。この次元が目安です。トシ君ワールドの『記憶の倉庫』的には、死の恐怖感を生む『記憶の部屋』が解散する、という表現でしょうか?」
「…」俺は死の譬えにいささか驚いていた。
「トシ君、トシ君自身が解脱解縛につとめて、クリアな『記憶の倉庫』を体現することが、この説を立証する前提になるかも……。なぜかというと、『記憶の倉庫』説は、一定の範疇を超えているからです。言葉だけでの理解は、限定された人にしかできないと思います。だから、トシ君のクリアな『記憶の倉庫』を相手に晒すのです。相手は、トシ君の『記憶の倉庫』を知覚することはできませんが、心での映しとりは必ず起こります。譬えるなら、心理学者ロジャーズが表現した『自己一致』、『純粋性』。透明の『記憶の倉庫』をクライエントに晒すことで、淀みからの解脱や解縛の機縁を提供する感じですね。人に備わる自然治癒の機能を刺激する仕組みです」といって、右肘は顎の高さ、手首は頭頂の高さ、手のひらをぱっと開き、三秒ほど、銅像のように動かず、俺の瞳に焦点を合わせた。
凄みを感じた。
「ではここで。紹介の件はラインで」と、政数副住職が目力を抜いた。
それでも、俺の緊張は抜け切れなかった。
「ご、ご馳走様でした。ありがとうございました」
やっとのこと言葉を口にした。
政数副住職が北へ、歩いていく。
俺は、深々と頭を下げた。
芦屋川の橋で、政数副住職の背中が小さくなるまで見送った。
里見さんにこのことを伝えたい気持ちになった。
家に帰って電話しよう、と欄干に置いていた手を押した。
後ろで、あっ、という詰まった声がした。
女性の進路を、俺の急な動きが邪魔したようだ。
「すみません」
「大丈夫です」と、赤くなったふっくらした頬の女性がいった。
細身で、紺ジャケットとブルージーンズを着け、髪をポニーテールに結んでいた。
「本当に大丈夫ですか?」
その女性は「大丈夫です」といった。
彼女が、駅へと歩いていく。
俺は、思い出そうとしていた。
会ったことがある人だった。
【47.共振=縁】
橋から芦屋川東岸に沿う歩道を北進し、教会横の通路を東へ抜ける。
そこにあるマンションが俺の住まい。
階段を昇り、玄関の鍵を開ける。
ライトのスイッチを入れる。
持ち替えた鍵を下駄箱の上に置く。
皮靴の掃除は、いつもこのタイミングでやる。
外を磨き、内にはエフィルを噴射させておく。
風呂の栓をはめて自動スイッチをタッチする。
栓を忘れてないか、と「女性の声」が訊いてくる。
俺は「しましたよ」と答える。
部屋は、左にキッチン、教会がみえるベランダ、右にナラ材の机が置かれている。
革製ブラッシュホルダーに収まった、里見さんがくれた万年筆。金色の線が輝く。
親子三人の写真を油絵に描き換えてもらっている。
そろそろ届くころだ。
吊るすのは、万年筆の斜め上がいいだろう。
スマホの連絡先をスクロールする。
里見さん、をタッチ。
四度目のベルで里見さんが出た。
「トシさん久しぶりだね。さっき、ヨドバシカメラのエスカレーターでトシさんの顔が浮かび、思い出していたよ。生活は落ち着いた?」
「どうやらペースをつかめたようです。里見さんの方こそ、お元気ですか?」
「おかげさまだよ。トシさん、何か話があるね?」
「ええ……。自分の影を、同波長の人が知らされに目の前に顕れる、そんな共振原理を、さっき聞かされました。それで、里見さんに話したくて電話しました」
「どんな話だったの?」
「政数副住職は、死ぬほど大嫌いな人が、実はその人にとって最高級な師、だそうです。そこで、振り返ってみました。すると、小学四年生のときの担任が大嫌いだったことが思い出されました。けちょんけちょんに蔑んだ言葉を使う人でした。人前で私も叱られたことがあり、あれからずっと憎しみの感情が消えていないことに気づきました。政数副住職の説を検証してみようと、記憶を遡ってみました。すると、友人をけちょんけちょんにした場面が浮かんできたのです。自分に起きた憎しみは憶えていたのに、相手に与えてしまった憎しみについては忘れていたのです。顔が赤くなりました。反省し、自己分析すると、マウントをとりたがってしまう私が、友人の前にいたし、今もいるんです、この私の中に……。多分ですよ、過去世で上位体験をしたか、上位であることを強く望んだかの記憶がそうさせるのかな、と……」と、自己開示した。
数秒間、重苦しいい沈黙が流れる。
「トシさんとの出会い、その共振だな。私も話していいかな?」
「聞きたいです」
「実は、三年前、私には人生の改行があった。カレー屋は改行あとの私。以前は、道場を営んでした。開設から大盛況だった。最盛期は、百六十名の生徒を一人で教えていた。武術を教えるだけでなく、『人生』を教えていた。人生を拓く気が起きたことを、子どもは目の輝きで私に知らせてくれた。きれいな目なんだよ。そんなときの子どもの目は。子どもの親たちが感謝してくれた。いい感じだったよ。ところが、インド旅で気づきを得た後、道場の流れを自分で変えてしまった。子どもたちに『悟り』を伝えたくて、瞑想法を取り入れたんだ」
「あの瞑想法ですよね」
「トシさんにはイメージ力がある。でも、イメージが不得手な子もいた」
「……」
「体得した子は奇跡的な成果を出した。不得手な子は辞めた。『悟り』の押し付けにだった」
「……」
「良かれと思ってやった。そこに嘘偽りはない。でも、執着があったんだ。相手が望んでいることに思いを馳せる気配りを逸していた。気づかないで歳月が過ぎた。偏りのつけが、家庭の流れにも顕れた。悩んで、悩んで、どうしようもない気持ちの日々が続いた。そんなとき、ある人が、元凶は私のわがまま、執着だと指摘してくれた。私は、決断するしかなかった。家族は唯一だからね。こだわりの巣窟になってしまっていた道場を閉めることにしたんだ。やり続けながら改善できるほど、軟弱な執着ではなかったからね。形から入る、ではなく、形から出る、かな……。そして、再出発のため、妻と我が子たちを話し合った。そして、カレー屋を、家族で営むことになったんだ。私自身を分解するなら、『悟り』の押しつけ執着は、私の劣等感の対立構造の産物かな」と、反省文を、ぽつぽつ読むような語りで里見さんはいった。
俺の目からは、なぜか、涙が溢れ出ていた。
【48.精神科医】
政数副住職が、勤務先には歩いて通える、といっていた。
確かに、第二キャンパスの駐車場から、南西方向に六克寺本堂の丸瓦と仏塔の最上層がみえる。その先には淡路氏も。
庶務課窓口で、理学部の光石政数准教授の部屋を尋ねた。
「トシ君かしら?」と、背後で通る声がした。
俺は振り向く。
真っ赤な唇が動く。
「私が案内します」と、彼女が職員に告げる。
次は、俺に「私についてきて」という。
壁が古いモノトーン色のキャンパスに、ワンピースの真紅が映えてみえた。
校舎二つ分を歩くと、彼女が左折した。
中庭にモルタル製の半円ベンチが幾つかあり、一番奥の金網近くのそこで、政数副住職が手を振っていた。
俺も手を振る。
「私が精神科医の榊原慶子」と、その女性は、彼に手を振りつつ、そういった。
「岩元政寿です」と、俺が返す。
先に自己紹介を済ましてしまおう、という感じだった。
スチールのお盆に不揃いのカップが三つ。
「ようこそ、トシ君。淹れたてですよ。インドネシア産のマンデリン豆」
「お昼にカレーだったでしょ?」と、慶子さんが訊く。
「なぜ分かる?」と、政数副住職。
「この前、カレーにはこれが一番、そういってたじゃない」と、慶子さんが返し「彼から『記憶の倉庫』の話は聞いたわ。早速だけど、これから幾つか質問するわね。私の質問が『記憶の倉庫』の入って行く過程、『記憶の倉庫』で『記憶の部屋』たちが『記憶の組合せ』を形成する過程、そして『記憶の組合せ』が、トシ君の表層脳で処理さ伝達可能な水準の言語に構成されるまで、起きていることをできるだけゆっくり動画にしてみて。その画像をスキャンしてみるから」
「トシさん、彼女の言葉に驚いたかも知れないけれど、信じてやってみてほしい」と、政数副住職がいう。
「以前にもスキャンされた経験がありますから、大丈夫です」と、俺は微笑んだ。
そう、頭の中の走馬灯を里見さんはスキャンしたから。
「トシ君、来世の望みは?」と慶子さんが訊いた。
俺は目を閉じ、六十四個のピラミッドを金一色に変換させた。
自然体モードになった。
俺は、質問を「記憶の倉庫」へ放った。
「記憶の倉庫」内に大輪の花火が一瞬灯る。
それは、質問に対する反応。
幾多の「記憶の部屋」が発した電位だ。
LPレコードにかすかに残るノイズ音に似た音をたて幾多の「記憶の部屋」が「錬金」される。
この仕組みのことは、まだ誰にも話したことがない。
しかし、スキャンできる人には説明不要。
要望通り、強烈にイメージした。
「両親兄弟姉妹がいて、優しい両祖父母からは頭を撫でてもらえる環境です」と、俺が言語化した。
「後悔していることは?」
「好意を抱いてくれる人を躱してしまったことです」
「トシ君、これから先に起きることもみてもらいましょう」と、政数副住職。
「でも、一個だけよ」と、慶子さん。
「はい、お願いします」と、俺がいうと「じゃあ」といって、慶子さんがおでこを俺のおでこに寄せた。
「目を閉じて」
ルージュの甘い香りが、俺の鼻を抜ける。
あの微細振動が全身に浸潤する。
慶子さんのおでこが、俺から離れたとき、少し眩暈がした。
「過去世の実のお姉さんが、トシ君を支えに来るわ。少し前に会っているはず。その方と結ばれるわ。そして、男女の双子を授かるの」と、慶子さんが笑顔でいった。
「焼肉をごちそうになったあの夜、政数副住職を別れたあと、芦屋橋で女性とぶつかりかけて。どこかで会った気がするけど思い出せないままで……」
「その人よ」と、慶子さんは足を組み、コーヒーを飲むと、俺を見つめた。
「トシ君、『記憶の倉庫』理論を普及したいのなら、方法は一つ。それは、トシ君がほんものになることね。僧侶さんを前にして申し訳ないけど、坐禅をして悟ったとかいう人がいるわよね。でもね、その人たちのそれは、殆ど偏在的な自覚に過ぎないわ。しんにゅうへんの方の遍在的な悟りには程遠い、ただの妄想なの」
慶子さんは、政数副住職をみて「あなたは批判対象から外れていると信じてる」と笑った。
政数副住職も笑った。
「ある宗派では高僧。武芸の達人。大成功者。殆どが利己スケールに過ぎないの。トシ君の想いは利他よ。利他の本質は、そこに自欲がゼロ。トシ君の『記憶の倉庫』理論普及の目的は、人々の宿業解消を実現することよね。遍く全ての救済。それを果たせるのはほんものだけ。つまり、本質から微塵も逸脱していない無欲無私水準での聖人でないとできないのよトシ君の『記憶の倉庫』で譬えると、無数ある『記憶の部屋』どれ一つとってみても淀みゼロ、という感じかしら」と、いい終え、慶子さんが、やっと俺を圧していた目力を緩めてくれた。
「頂点が中央に向いた幾つものピラミッドをスキャンしたわ。素敵じゃない、心を立体的に解説できそう」と、慶子さんは微笑んだ。
政数副住職が「今日はこの位にしましょうか。これからも、遠慮せずに連絡ください」と、いった。
「来世の望みは叶うわ。だけど、トシ君の来世は、この星ではないかな……。それと、後悔は既に解決済みね。こうやって出会いを大切にしているじゃない」と、慶子さんがいった。
【49.命名】
数粒のカルダモンを包丁の柄で叩く。
黒い実を取りだす。
その黒い実は、刻んでカレーに使う。
殻と三百六十㏄のアルカリイオン水を火にかける。
駅前の喫茶店で、豆のブレンドについてのアドバイスを求めたところ、まずは、水から、ということでこのカルダモンの殻の使い方を教わった。
粉を三杯、紙フイルターに均しベランダに出る。
手すりに両掌を置く。
山へ向けた首を左方向に動かす。
ベランダでは、山から海まで、この一動作で望むことができる。
ベランダをあとにし、火を止める。
湯を垂らす。
三十秒蒸らす。
このあと、何しろ均等に円を描く垂らしを続ける。
茶褐色の蒸ケーキのように膨らむ粉豆。
このときの姿と芳香、魅力セットだ。
昨夜、慶子さんが口にした「遍く全てを救済」。
里見さんに伝えると、こういった。
「女医先生の求める水準を目指すのなら、神ならどうするかな、といつも考えることかな。神の意志に親炙する『清の行』だ。それと、宿業を見極める『濁の行』が課題かな。それと宿業を改名してみてはどうだろう。トシさん独自のワールドで思考を深めた方がいいような気がする」
俺は、政数副住職から頂いた錨のロゴ入りのノートにこう記した。
「『清の行』、毎朝坐禅瞑想。六十四方向ピラミッドイメージ法を深める」
一行空ける。
「『濁の行』、宿業を一日一個探す」
ペンを置き、コーヒーを啜る。
カルダモンの殻が渋みを加えた。
三行空ける。
「『形状案』業束、業塊、業巣、潜伏塊」
一行空ける。
「『本質案』嫌悪業、自尊業、固執業」
う~ん、これじゃあ難しい。
的を射た分かり易さがないと。
聞けば興味と連想が湧くような名前。
確かに、里見さんがいっていたように宿業では語句解釈が様々だし。
単刀直入に表現してみよう。
ペンを執る。
「解散できないままの『記憶の組合せ』、未解散の負の『記憶の組合せ』」
負の結果を生むから適当かも知れないが、長すぎるか。
「未精算の『記憶の組合せ』」
プラマイゼロに回帰できずにいる、という感じがしていい。
ノートの余白に、「宿業=未精算の『記憶の組合せ』」と大書した。
【50.ブレンド】
魚崎駅前通りを山側に右折する。
俺は一旦バイクを停め、スマホのマップを開く。
あの角を左だ。
スロットルを廻す。
左折する。
光輝材入りのホワイトペンキで塗装された壁。
マルゴジック書きの「南米焙煎所」の看板が、目に飛び込ぶ。
店横の路地、白壁にバイクを寄せた。
換気扇から吐き出される焙煎香。
ヘルメッドのなかに流入する。
この香りがたまらない。
カルダモンをくれた、駅前カフェのマスターの師匠がここにいる。
本気で学ぶ気なら、と彼が紹介してくれたのだった。
挨拶を済ませた俺は、ブレンドの妙技を教えてもらいたい、受講料を払う、と伝えた。
「妙技とは嬉しいじゃないの、うちで豆や器具を買ってくれるお客様には、無料でレクチャーしているから気を使わないで」といい、魚住さんが微笑む。
壁の写真でも、クルーザーヨットを背に魚住さんが微笑んでいる。
「好みは?」と魚住さんが訊く。
「味のことですか?」と、俺が訊き返す。
「そう。苦味、酸味、コク、香りのどれかを際立たせたい的な?」
「互いを引き立て合う、オーケストラのような味を……」と、俺がいう。
「調和する妙味……、理想のブレンドづくり、お手伝いするよ」
「先生、よろしくお願いします」と、俺がいう。
「先生じゃなく魚住さんって呼んで」
「私はイワモトマサトシです。トシって呼んでください」
「豆の粗挽き、中挽き、細挽きの差から覚えてもらおうかな。先ずはブラジル、コロンビア、マンデリンの三種を、三つの挽き方で味わって報告に来て。木曜は海に出るからここは定休日」と、親指だけをたて例の写真を指した。
俺は、三種の豆を百gずつ焙煎してもらった。
小型業務用の電動ミルのスタイルに惹かれ、それを購入した。
バイクの足置きにそれが入った段ボール箱を乗せ、両膝で挟む。
俺は慎重にバイクを走らせた。
深江駅前交差点で信号待ちになった。
この魚屋道を、豊君と一緒に歩いた。
あの日、猪親子との遭遇、木の上で交わした会話が浮かび、ひとり笑った。
そうしていたら、なんと、豊君が出てくるではないか。
咄嗟に俺は彼を呼んだ。
「豊君」
豊君は俺をみつけ、こちらに走ってくる。
「会食の数時間前に交通事故で両親が急逝したんや。葬儀や相続、五歳になる二卵性双生児の妹弟のこともあって、バタバタしてたんや。やっとどうにか落ち着いてきたわ。『かご屋』の件、すまなかった。あの教授先生にも謝らんとな。そや、あとで『二八四四』で会いへんか?」
俺は、ミルの入った足元の箱を叩き、「これを置いて一時間後に」といった。
暖簾をくぐると、豊君と話していたマスターが「トシ君いらっしゃい」といった。
豊君が振り向き、隣の席にあったセカンドバックを持ち上げる。
俺はコーラを註文する。
豊君が「今日はわしの奢りやさかい」といい、串焼きコースを二人前注文した。
オールドジャズが流れていた。
少し暗めの照明だと感じた。
「教授先生に詫びんとあかんな」
「理解してくれるはずだよ。伝えておくから。それより豊君は大丈夫?」
「正直落ち込む暇なかったしな。妹弟を育てなあかんから、頑張らんと」
「豊君が育てるの?」
「そや。道場生徒保護者さん数名が協力を申し出てくれたんや。今日は、保護者さんの家にお泊りや」
俺は十七歳で孤児になった。
五歳はどう感じているのだろうか?
悲しむ暇もなく妹弟の養育を覚悟しなくてはならない気持ちもわからない。
だから、豊君を励ます言葉が見当たらない。
「それでや。悠長に修行するのは先延ばしにしたんや。わしが所属している協会には、タイトルとると、道場経営できる制度があってな。それで、生計立てることにするんや。それでなトシ君、トシ君が大学入試で使った、ていってたあのイメージ法の話を聞かせてくれへんか?」
イメージ法を駆使することによって変性状態は起こり、その状態を持続できるようになる。つまり、高性能のまま、長時間稼働が可能になる、とかいつまんだ。
「競技で勝つテクニックと極意は違う。試合で勝つためにどうしたらいいかなんて考えたことなかったわ。トシ君はどう思う?」と、豊君が訊く。
「審判好みの試合運び、スタミナと力で圧倒、この戦法はどうかな。でも、この二つを除いたら、相手を倒す技と極意が通じない、ということはないと思うよ」
「競技を軽視していたのは、思い込みだったかもしれへんな」と、豊君がいった。
「弓道をはじめてわかったことがある。型通りに弓を引き、放つと矢は当たる。こんな風にシンプルに考えると、こだわりはなくなるかも」
「トシ君、頼むわ。思い込みを捨てるさかいに、イメージ法を教えてくれへんか?」
「うん、協力するよ」と、俺は何か手伝いたくて、そう答えた。
「毎週火曜日、妹弟はお泊り。指導稽古もない。道場は使える。館長の許可がでたら、この時間でどやろ?」
豊君の目は真剣だった。
俺は目を見たまま、頷いた。
【51.誓約】
今から、豊君との生計をかけた特訓がはじまる。
ニスが重ね塗られた床板。
壁全面の鏡に現空間が映り、ここは永遠の空間と化す。
深江の街を白夜に変えた、鉄道高架工事の照明。
投光器の灯りが窓をも煌めかせる。
豊君が俺に笑顔を向ける。
その豊君の背にも俺がいる。
鏡の奥の奥、そして何しろずっと果ての果てへと、向き合った二人が無数にいる。
里見さんが俺にしてくれた通りに、俺は豊君に恩送りしていく。
受験合格で人生を更改した俺。
夢実現に近づく手応え、自信をくれた、里見さんのイメージ法。
豊君は妹と弟を養うために、空手との関係性を、修行から稼業に替える。
選手権者には、開館エリアの割り当て、開設資金の貸与がある。
つまり、優勝して道場経営者になるということだ。
豊君が希望する更改が起きる、と俺にはそんな予感がある。
だからこそ、念のために、スタート前にこれだけはしておきたい。
それは、誓約。
なぜかって。
それは、どちらか調子が悪い時、意見のみか仲までわかれぬ同意の締結。
「豊君と俺で、四本の柱立て、というテーマを共有したい」
「四本の柱立てか、ええな」
「二本の柱は、イメージ法と型。これは俺の担当」
「あと二本か……。一本は戦略で、もう一本は競技に耐え得る基礎体力」と、豊君がいった。
「それいいね」と、俺がいう。
道場隅に木製ベンチが設えてある。
その座板は、外せる作りで、道場生はその中に荷物を入れ稽古する。
俺は、さっき取って来ておいた蓋板を、豊君との間に置いた。
A3紙を蓋板上に敷く。
ヘッダーに、「四本の柱」と大書する。
その下に、四本の柱の画を描き、各柱に、戦略、競技体力、イメージ法、型、と書き入れた。
「豊君、お願いがある」
水性サインペンのキャップを閉じた俺は、豊君の目を見た。
「イメージ法を素直に受け入れてほしい。疑問を持つと、時間の浪費になるから。素直の極に至ると、俺がみている、六十四方向ピラミッドが、豊君にもみえてくる。実は、もう既に映っていて、豊君のなかにも、今、六十四方向ピラミッドがあるんだ。映っているのにみえないのはみる練習をしていないからだけなんだ。疑念を持つとみようとすること自体、嘘になるでしょ。だから、信じて取り組んでほしいんだ……」
「わかったわ」
「みることが適い、みなれるほどまで馴染めたら、『記憶の倉庫』に意識的アクセスも適う。俺ができたんだから、きっと、豊君にもできるはずだよ……」
「……」
「そうなれば、通常の何倍もの速さで上達し、何倍もの強さを手に入れられる」
豊君は、目を見開いた。
そして、黙って頷いてくれた。
「じゃあ、はじめよう。豊君、この道場の空間を一つの『記憶の部屋』に置き換えて。鏡に映っている、あの鏡に映った道場空間も一つの『記憶の部屋』になるようね。無限に連なる道場空間と同じように、『記憶の部屋』も無数あるんだ。考えてみて。この『記憶の部屋』には、あのサンドバックや収納庫といった形あるものと今日の稽古内容といった形ないものまで記憶されるんだ。そんな『記憶の部屋』のあつまりが『記憶の倉庫』だよ。『記憶の倉庫』には、ビッグバーンの仕組みの『記憶の部屋』、胃や腸をはたらかせる『記憶の部屋』もある。突きに纏わるもの、蹴りで想起するエピソードも……」と俺がいうと、豊君は大きく頷いた。
「表層配列に、勝利に適する『記憶の部屋』の連なりをつくるんだ。すると、豊君のなかに、エネルギーが試合での勝利にだけ注がれる仕組みができあがるんだ」
「わかった、やってみせるわ。どうしたらええ?」と、豊君がいう。
「根っこから理解する必要がある。先ずは大自然の性質から話すね。目を閉じて人の誕生をイメージして。全ては『空』からはじまるよね。『記憶の組合せ』を『言霊』だと捉えて。『言霊』によって『空』は『色』になる」と、俺は説明した。
「『言霊』とは?」と豊君が訊く。
「建前と本音の言葉があるよね。本音に諸条件が兼備されるとき『言霊』になる。思考は現実化する、というよね。でも、それは『言霊』水準の言語思考があるときの場合だけ。水準に至らしめなく邪魔するのは、未精算の『記憶の組合せ』なんだ。つまり、自分を邪魔するのは自分なんだよ。だから、未精算の『記憶の組合せ』を精算することが適えば、『言霊』化は邪魔されない。でも、精算はとてもむずかしいから、未精算の『記憶の組合せ』にエネルギーを横取りされない対策もある」と、俺は理解が叶うことを願いながらいった。
【52.心の構造】
深江駅を通過する特急電車の車輪が、鉄路の接続の微妙な段差を叩く音。
その響きが、鼓膜と琴線を心地良く弾かせていく。
窓から駅の方を望む。
ここを見上げる中年夫婦がいて、目が合う。
鏡に映った豊君の顔に目を移すと、ハッとした。
精悍さが、まるで別人のものに変わっていた。
陽さんが、俺の後ろに見守る俺の両親がいる、と教えてくれた。
ふと、そのことが思い出された。
俺には陽さんのような霊をみる能力はない。
しかし、豊君を彼の両親が見守り、支えていると感じた。
豊君は勝てる。
「じゃあはじめるね。丹田の奥へ一つの雑念、言い換えると一つの『色』が、吸い込まれていく。すると、一つの『空』が丹田から表へ吐きだされる。つまり、入れ替わる。この『空』、認識された時点で既に『色』だけどね。だから『色の赤ちゃん』と呼ぶね。それ、豊君の想い通り育てあげることができる。『色の赤ちゃん』は『粒』だ。雑念を輩出する限り、代替えとして『粒』が丹田から噴き出し続ける。この『粒』は豊君の分身。つまり、豊君の『薫り』を帯びて産まれた『色の赤ちゃん』だと捉えるんだ」
「トシ君、『色の赤ちゃん』という言葉は、これから自分の理想通りに学習づけできるという意味にとっていかな?」
「うん、心理学でいう学習づけでいい」
「トシ君、分かったわ。その先続けてくれるかな」
「では、続けるよ。三段置換合流法の合流対象を湧現させる。一段目は、百八十㎝先に。次は二段目は、今迄最高に豊君が感動した自然風景のなかに湧現させる。今浮かんだ景色、その場所で試してみて。三段目は、ブラックホールの前に合流対象を湧現させる。段々畑に流れる水のように、一段目を満たし、溢れ、二段目を満たし、溢れ、三段目を満たし、溢れ、とブラックホールに吸い込まれていく。その『粒』が、『空』の領域を経て、豊君の丹田から噴き出るんだ。循環だよ。循環するイメージをつくるんだ。この循環イメージが習熟できれば、合流対象三者の顔を思い浮かべるだけで、流れが途切れなくなる仕組みなんだ。勝利に適した心身状態が継続される。いかなる場面でも」
「トシ君、一段目から二段目、二段目から三段目、と移動する感覚がつかみにくいわ。なんか、いいヒントないか?」
「どれか一つの『粒』に乗り込むんだ。極小飛行機とみなしたその『粒』に乗って、ワープして空間を透き抜ける感じで。時間的な制約もないんだ」
「これか。できたわ」といった豊君には、勢いが漲る。
「少し、一人で反復稽古しもええか?」と、豊君が訊く。
「勿論」と、俺はいった。
そして、窓に近づき、さっきの夫婦を探したけど、もうそこにはいなかった。
「トシ君、勘が冴えよるときの感覚、意識的につくれるようで、このイメージ法、ほんまにええわ」
「じゃあ次に進むね。次は心を構造化する。構造をつかまなければ、操作できないから」
「確かにそうやな。みてもない心をコントロールするなんて、できへんわな」
「豊君、はじめるね。ピラミッドをイメージする。ピラミットの石一つが『記憶の部屋』。ピラミットの建設をはじめるね。三段置換合流法で循環する『粒』は増量し続ける。循環路を溢れ、漏れ出る感じ。譬えるなら、大雨で土手が決壊した感じ。この『粒』たちを建材に、ピラミッド型の『記憶の倉庫』を構築するよ。底辺から積み上げるのではなく頭頂から底辺へ、石を一個、四個、九個、十六個、二十五個、と積み増していく工法でね」
「要するにピラミッドの形をした集合住宅を、とがったところから作ればいいんやな」
「そうだよ。そのピラミッド型の集合住宅。それが、豊君が可視化した心だよ」
「確かに、みてることになるわ」
「丹田を起点に前方、後方。左方、右方。上方、下方」
「できたわ。無限に拡張するサイコロの六面の底が遠のいていくわ」
「そのサイコロの中央点が、豊君の丹田」
「そやな」
「残り二つ、内外のピラミッドづくり。内は、頂点が下向きのピラミッド。『記憶の部屋』、つまり石の数はどんどん多くなるのに、ピラミッドの体積はどんどん小さくなる。この矛盾した感覚、つかめたらしめたもの。できるかな?」
「体積は小さあなるけど、石の数は増える……。できたで、変な感じする起こってるわ」
「外の頂点は上向き。石の数は無限に増え続け、石の体積と共にピラミッドの体積もどんどんと大きくなり続ける。あっという間に、宇宙を凌駕する」
「これは変性、感じるな……」
「そうでしょ……。最後に、八方向ピラミッドの全石、つまり全『記憶の部屋』の管理法を、三つ、教えるね。一つ目は、『記憶の部屋』の扉を、ノックし、開ける。そして、そこの灯りにスイッチを入れる。全ての『記憶の部屋』をみるのが一つ目。二つ目は、全『記憶の部屋』とオンラインでつながる。全ての『記憶の部屋』との意思疎通が二つ目。三つ目は、全『記憶の部屋』にルンバをかけるんだ。全ての『記憶の部屋』の『未精算の記憶の組合せ』を精算する。これで、三つ、管理法。更に進むね。八方向ピラミッドを、丹田のみならず、八起点から作るんだ。八起点は、正中線上の、頭頂、額、喉、胸、鳩尾、腹、丹田、股下」
豊君の一人稽古が、はじまった。
半時間程が過ぎた頃だった。
「できたで。六十四方向にピラミッド、心の構図」と、豊君がいった。
「じゃあ、その全ての『記憶の部屋』で、湧現した超ミニサイズの豊君が技を反復するイメージをしてみて。すると、イメージに引っ張られる感じがするはず。でも、静止していてね。回転数はマックス。でも、ブレーキで動かせない感じ……。木の葉から一滴の水が、ぽとっと離れる感じを合図に、ブレーキがぱっと外れる……」
豊君が、スムーズに動く。
「それだ、豊君。できたね」
「力入れんでも始動しよったわ。これなら、相手は読めんやろな」
「読めないよ、多分。豊君、仕上げに入るね。全『記憶の部屋』を俯瞰して。じっくり、観察して……。超ミニサイズの豊君が、湧現しない所を、みつけられるでしょ。そこに、未精算の『記憶の組合せ』があるんだ」
「探してみるわ」
「そう、非湧現のところをね」
「みつけたわ。どうしたらええの、トシ君」
「観察者の意思をそこに向ける。その意思を構成している『記憶の部屋』たちが、非湧現のところと関連している、未精算の『記憶の組合せ』に加味される。それで改編が起きる。譬えるなら観察者の意思が強力洗剤、未精算の『記憶の組合せ』が頑固な汚れ。頑固な汚れが強力洗剤で溶けるって感じかな」と、俺はいう。
「じゃあ、そのあとは」と、豊君が訊く。
「水で洗い流す。光熱で溶かす。息吹で掃う。試し効果的なイメージを使えばいい。うまくいけば、未精算の『記憶の組合せ』は、元の『記憶の部屋』に解散される。屯っていた不良少年たちが、各々の家に帰る感じかな」と、俺は答える。
「わかってきたで、トシ君」といった豊君が、俺をみる。
「全ての『記憶の部屋』に、三つの攻撃パターンを超高速で反復イメージしておき、機会を待つ。そして、『先』を合図にブレーキを外せばいい」
【53.芦屋】
洒落ている。
この街は、あかぬけている。
週一度、俺は両親の写真を胸ポケットに入れ、芦屋の名所や名店を訪れることにしている。
今日は、「G線上のアリア」はフレンチレストラン。
部屋から浜側へ、十二分ほど歩いたきた。
芝生の庭園、とんがり屋根、フレンチスタイル。
この建物に、カミーノ巡礼のスタート地、北フランスを思い出す。
広めのカウンター席に案内したウエイターに、ラムチョップを註文してしまう。
数席離れて食事する初老が「おかわり」、と空いたボルドー型のワイングラスを軽く浮かせている。
初老の皿に、肉が剥がされた骨が残る。
あの人もか……。
ここのラムチョップは美味かった。食後の濃いコーヒーが後味をさらう。
ほぼ同時に立ち上がった。
その初老と目が合い、彼も俺もなぜか微笑む。
そして、そうあるように二人は一緒に歩いていた。
芦屋川沿いの遊歩道を山側へと……。
「埼玉から越して来たばかりの大学生、岩元政寿です」と、俺が先に自己紹介をした。
彼は、「山の向こう」と、アーチ形に手を動かし「奥池の畔で住んでいます。村元です。どうぞ宜しく」と、俺に握手を求める。
俺が応じる。
村元さんの手は柔らかくて温かかった。
「『G線上のアリア』の姉妹店『オルガン』で、妻が友人たちと食事をしている。そこまで歩き、雑談に加わり、妻が運転する車で家に帰る」と、微笑んだ。
「オルガン」は芦有道路につながる坂道にあり、阪神沿岸の夜景が望める洒落たバーレストランだそうだ。
「妻は酒を飲めないが、月に一度はガールズトークを楽しんでいる」
今度は俺が話をする番だ。
「趣味はオリジナルブレンドコーヒーづくりと、週末恒例の芦屋探索です」
「街探索が趣味なのか。じゃあ奥池探索に来ないか?」と、俺を誘う。
「嬉しいです」と俺が返す。
約束の日だ。
鏡に映る俺は結構決まっていた。
入学式以来、二度目のスーツだ。
キリマンジャロをベースにしたブレンド粉末を、ステン筒に詰め、土産にした。
奥池停車場にバスが到着する時刻を、ラインで知らせる。
有馬温泉からの帰り、乗ったバスの路線を今日は逆進する。
イノシシから逃げた木の上で、豊君と遊んだ会話は、まるで漫才だった。
到着を知らせる車内アナウンス。
俺は村元さんを探そうと、窓の外を望んだ。
村元さんが俺をみつけたようだ。
手を振っている。
「凍結した坂でもギアモードをロックにして慎重にアクセル操作したら大丈夫」と、円形のモード切り替えキーを指し、愛車の自慢をする村元さん。
免許は?と訊かれ、合宿で取得した、その時、深江の「二八四四」のマスターと出会い、その縁で豊君という親友ができた、と余計なことまで話した。
村元さんは、とても嬉しそうに、首を縦に振りながら俺の話を聞く。
「湿気を避ける風上、デッキから眺める景色に朝陽を取り込みたかったからこの方角、この場所を選んだ」と、ハンドルを右に切りながら村元さんがいう。
自然に溶け込む、ログハウスが平屋建てだ。
デッキで、白く細い女性が立ち上がり手を振る。
村元さんの奥さんだ。
車に駆け寄り、俺を笑顔で迎えた。
「ようこそいらしてくれました。村元の妻です。コーヒーを煎れるわ」と、跳ねるように階段を上り、デッキに設えた一尺はあろう真四角の無垢テーブルで、アルコールランプに火を入れた。
村元さんは、左掌を俺の背に添え、右手はそこを指した。
鮮やかな年輪柄の無垢テーブルに近づくと、浅煎りのモカ豆の香りがした。
テーブルに手をつき、サイホンをのぞき込み、湯気を吸い込む。
やはり、モカシダオ。
俺は、オリジナルブレンドの豆、と説明し、ステンレス筒を奥さんに差し上げた。
「まあ、嬉しい」と、奥さんは蓋を開けた。「キリマンジャロのいい香り」
その後、アイスはマンデリンに限るなどといったコーヒー談議で打解けた。
「南米焙煎所をご存知かしら?」と奥さんが訊いた。
「知っています。というよりも魚住さんは私のコーヒーの師匠です」と、答えた。
「魚住が師匠か。彼は高校ヨット部の仲間だよ。そろそろクルーズの誘いがあるはずだ」と村元さんはいって、家族の話をはじめた。
「娘の碧(あおい)は琉球大学医学部五年生。学生生活を満喫したいからと沖縄を選んだ。私の仕事は訪問内科の勤務医。先祖代々の医者家系。妻は麻酔科の医師。出勤も退勤も二人で一緒。同じ病院で働いている」
「コーヒーどうぞ」と、奥さん。
「私は、阪神医科大学医学部一年生です。精神科医を目指しています」
「まあ」と、奥さんが両掌を広げ「私たちもそこの系列なのよ。奇遇ね」
「そうか、医学生か。精神科を目指している理由は?」と、村元さんが訊く。
俺は、生命体首座がAIサイボーグに更改するだろう持論と、時代の急激な変化で想定されるストレス疾患の増加に対し、オリジナルの「記憶の倉庫」理論に基づく治療法を確立し医療に貢献したい夢がある、と答えた。
「着想だけでなく具体的なビジョンまで……。よくそこまで」と村元さん。
「西川口の中山さん、空手の金先生、昇龍寺の光石老師と政数副住職、丹波篠山の鯛釣和尚、蕨の陽さん、さいたま新都心の里見さん、精神科医の慶子さんと出会い、その方々から頂いたヒントのおかげで、具体化できたと思います」と、述べた。
奥さんがカップにコーヒーを足す。
「実は、幼い息子を亡くしている」と、村元さんが低めの声でいった。
目の奥に悲哀が滲む。
「手のひらに、こうやって指を置くと、ぎゅっと握るのが息子の習慣で、仕事から帰って息子の寝顔だけでは物足りず、つい指を置くと、寝ながら指を握り返してくれた。本当に可愛かった」と、村元さんはいいながら、人差し指を宙に置いた。
「息子が原因不明で倒れ救急要請した時、私は手術にとりかかっていた。手術後、駆け付けると、穏やかな顔で寝ている息子がいた。妻が泣いていたが、私は信じられなかった。だから、何度も息子の掌に人差し指を置いてみた。握り返してはくれなかった。家に戻った。息子の亡骸。子ども用学習机とピカピカのランドセルを背負った椅子。それを前にして私は泣き崩れた。立ち直れるかも?と仕事に向かった。ダメだった。半年後、妻が私を『オルガン』に誘った。そこで涙を湛えた目で『休もうよ』と私の手を握った。休暇をとり、小さな位牌と一緒に、四国八十八カ所お遍路の旅に出た。出発の日、妻と娘がフェリー乗り場に私と息子を送った。お遍路終盤のある日、私の悲惨な無念さを慮り、息子が天国に行きそびれている気がした。それぞれのスケジュールがあり、この世に来て戻っていくのが真理ではないかと思えた。やっと、その時息子を送る気持ちになれた」
村元さんの涙を湛えた目。
俺の大粒の涙が、腿に零れ落ちた。
奥池が、涙を湛えた瞳に見える。
【54.弓と竹刀と出刃包丁で武術極意】
毎週火曜の夜、恒例の特訓は、十二回目を迎えた。
道場それぞれに、独特の匂い、というものがある。
この頃、ここの匂いが気にならない。
俺も「ここの人」になったようだ。
親友、豊君は凄まじい進化をした。
豊君を交わした二つの約束を果たし終えた、と俺は自負している。
自然体になるイメージ、プラス、いついかなる場面でも途切れない、自然体維持法の授与。
二つの約束を果たせば、豊君は間違いなく優勝する、と確信をもってやってきた。
根拠がある。
別格の水準だからだ。
別格の水準に達していたフルコンタクト空手の選手を一人だけ知っている。
数十年前に全日本を二連覇し翌年の世界大会を制し引退したその選手の水準は、普通の勝者とは、示すメモリの高さがまるで異なった。
メモリとは、勝ちに必要なことだけにエネルギーが注がれる度合いのことだ。
約束成就のため、豊君には三つの特訓を課した。
一つ目。
基本力の次元を高めるため、弓の基本をそっくりそのまま空手組手に置換することにした。
定位置に立ったまま、且つ、止まった的を相手にする弓術の基本は、見事に洗練されている。
反面、空手は自ら移動し、移動する相手に当て、また当てられないため臨機応変に移動する。
スポーツ化という時流に後押しされ、試合に勝つための攻略だけが洗練された。
空手からは、そうして自然法則に沿う基本は失われ、複数の基本らしきものが生まれた。真の基本が欠けた空手だから、真の基本を身につければ別格になりやすい。
弓道八節という弓道の基本枠を、空手に置き換えることにした。
構えの足向きと幅、足裏何処に床との代表接点を置くか、左右各々でミリ単位の調整をした。
更に左膝の位置を固定した。
両足の前後を対角線に結ぶ交点から前足の先端へ九㎝寄せた垂直上に丹田を置く。そこなら左膝を全く動かさずに右足を蹴り出せる。ゼロポジションと呼んだ。
ノーモーションで前足底での内腿蹴り、くるぶしでの腓骨蹴りを「足のジャブ」にした。
床上七十一㎝を丹田が水平に移動する。
加えて、構えを固形化した。左ひじと左手首の高さ、間隔、置き位置を決めた。右手も同様に定めた。
仕上げで中身をいじった。正中線に空洞の煙突をイメージし自動呼吸継続機能を修得した。
何しろ、毎回同じ型で射る弓道のように、常に同じ型で打つために、どの方向にどんな速度で移動してもぶれない構えを練り上げた。
肩甲骨と股関節の可動域は脱力によって拡張し、更に手足延伸の要領も体得した。
イメージ法の精度を高め、「先」を継続してとれるようセンサーをセットした。
前心と前身。
残心と残身。
臨場感あるイメージが技の先にも後にも見え続けるよう訓練した。
「記憶の倉庫」内の全ての「記憶の部屋」に組手勝利の協力要請を言霊で喚起した。
引く重さが三十㎏を超える強弓を岩手から取り寄せた。百射を毎日課した。
弦が内腕に当たり紫色に変色し、血がにじむ状態が続いた。
弓を握るとき、産みたての卵を掴む感じで、と指示した。
指に隙間をつくらないこと、手は天から吊られてそこに浮いているかのようなイメージで脱力してと重ねて指示した。
数日後、弓の握り手が気の満ちで不動の域に達した。
弓返りし弦が内腕に当たることはなくなった。
腕の延伸まで気の増幅で成せるに至った。
その成果は、左順突、つまり左ジャブで相手を崩す能力を得たことだ。
左手と右足の無挙動攻撃を、いついかなる場面でも放つ豊君は、まるでサイボーグだった。
二つ目。
眼力の次元を高めるため、剣道有段者に竹刀で打ち込んでもらった。大学で剣道三段の友人を誘った。高校時代、個人県体ベスト四の実力者だ。
豊君は軍手と前腕サポーターだけをつける。
竹刀を捌き損ねると「面」で脳震盪、「胴」で嘔吐感を味わった。その痛みが功を奏した。潜在的な心眼が顕現したのだ。
確実に「先」を取りだした。
「先」とは、相手の意志決定時に脳内で発光するシナプスを感じみる読心の技だ。
確かに、先ほどまで居たはずのところに竹刀が振り下ろされるが、そこにもう豊君はいなかった。こんな不思議なことが続き、剣道三段の友人がお手上げした。
三つ目。
胆力の次元を高めるため、死の恐怖と向き合ってもらった。
俺が出刃包丁で突くことにした。
ノーモーション、尚且つ近距離で突く。
豊君は足さばきでその動線からそれるだけでいい。
しかし、竹刀に対し完璧なまでに「先」をとる豊君でも切れる刃物を前に腰が引けた。
交わし切れないときは、先端の突起部が胸に穴を開け幾度か出血した。
豊君に、自分の手を短刀に置き換えるイメージをさせた。
「打てるものなら打ってみろ」と発声までさせた。
すると、引けていた腰が前に出た。
越えた。
いくらやっても躱す豊君。
俺は自由に行くよ、と宣言し、突いたあと即、刃を振り上げ、下ろした。
刃が豊君の指をざっくり切った。
血が床に広がった。
もう、ここまでで充分だ。
急所なら死ぬ。
生死の境を認識できただろうから。
指を洗い、拭き、傷口を揃えてテープを貼った。
夜間救急で縫うのはあとにした。
今日最後の指示を俺は口にした。
「今迄に経験した無数の技の『記憶の部屋』を喚起し、全領域あちらこちらでその『記憶の部屋』が点滅している感じにする。すると、豊君の圧が高まるよ。相対した場合、圧が高い方が低い方から気を吸い取るから、相手の重心は浮く。高低の関係を保ってね」
豊君の重心がグッと下がってみえた。今聞いた言葉で即、変性したのだった。
【55.縁上の君】
「すみません……、お邪魔します」と、廊下から女性の声。
その横に、芦屋橋で出会った女性がいる。
「もう少しで終わりますから、そこのベンチにかけてお待ちください」と、俺は道場内のベンチを指した。
顔を見合わせ二人は、靴を下駄箱に入れ、道場に上がった。
俺は「自然体維持のチエックをしたいから、本気の組手を、五本程みせてもらえるかな?」と、訊く。
豊君は「わかった」と。
そこで、今日の特訓は終了した。
本山ハルカ、と年上の女性が名乗り、「芦屋体育館でのヨガセッションがあり、以前から興味があった空手の型を学んでみたくて、彼女を誘って見学に来ました。摂津女子大で家政科の講師をしています」といい、横の女性が「菅原道子です。花徳女子大の文学部一年生です」と続けた。
俺たちの自己紹介が済むと、豊君はリーフレットを二人に渡し「空手の型は、基本に則った攻防単技を、移動しながら、姿勢を崩さず正確に使いこなしていくシナリオですから、基本、移動動作、約束組手を反復稽古する一般クラスをお薦めします」と説明した。
「その前に、明日の少年クラスに息子を見学に連れてきます」と、パンフレッドの時間割を指し、ハルカさんがいった。
豊君が、少年クラスの指導について話す。
道子さんが立ち上がる。
サンドバックにパンチをする。
びくともしないサンドバックの前で、拳を摩り「想像以上に硬いんですね」と眉間を寄せて道子さんがいう。
「痛いですか?」と俺が訊く。
「少し」と道子さんが答える。
「何週間前の日曜の夜、芦屋橋でお会いしましたよね?」
「日曜夜の芦屋橋?するとヨガの帰りか。あっ、思いだした」
「あの時は、驚かしてすみませんでした」と、謝った。
「謝るほどのことではないですから」と、道子さんが微笑む。「ところで、お若いのに先生ですか?」
「違います。メンタル面のパーソナルトレーナーって感じ……」と、俺がいう。
「マインドフルネスみたいな?」と、俺に顔を近づけ訊く道子さん。
目があったまま「それそれ」といった俺は、胸の高鳴りを自覚した。
「道子ちゃん、帰ろうか」
「はい」
「明日の四時前に息子と来ます」と、ハルカさん。
道子さんは、俺の目を見て微笑んでくれた。
胸が高鳴り続けている。
【56.お鯵ギャグ】
馴染んできた。
芦屋での生活に。
俺の日常をまとめておく。
朝は、芦屋川沿いを散歩し、自家製オリジナルブレンドを嗜む。
大学では、授業と弓道。
月曜の夜は、六克寺の坐禅会に参禅。
火曜の夜は、豊君の特訓。
水、木、金、土、家で自習する。
日曜日は、芦屋散策。
そのうち一度は、芦屋奥池の村元邸で過ごすのが定例だ。
今日は、村元邸に来ている。
「高校ヨット部時代の親友三名で海に出るが、トシさんも一緒にどうかな?トシさんのコーヒー師匠は了承済みだし、東京から参加する妻沼(めぬま)も大歓迎だといっている」と、村元さんが俺を誘う。
俺は「行きます」と即答した。
約束の朝、マンデリン豆のアイスコーヒーを用意した。
迎えのデリカに乗る。
西宮ヨットハーバーに着く。
魚住さんとヨットが目に入る。
コーヒーの師匠である魚住さんは、ヨットの師匠にもなるのか。
俺は、ドキドキしてヨットに足を置いた。
地面とは違い、足元が揺れている。
でも、すぐに馴染む。
ヨットは、風上に向かって四十五度より鋭角に進む。帆の表裏の空気圧の差が推進力をつくり出す仕組みのようだ。
帆の転換操作と舵を切るタイミングは、風と心が相談し決める。
こんな魚住さんの言葉を受けながら、俺は必至で身体を動かした。
そして、ヨットの魅力に嵌った。
醍醐味はやはり、潮の飛沫と水面に反射する光に包まれる、ヨットからはみだす場所、つまり、水面を敷布よろしく体をスーッとそこに寝かせ、船体のバランスをとるシーンだ。
俺の体は、航海に貢献し、ヨットの一部になる。
この融合感がたまらない。
俺のすぐ横で、魚が跳ねる。
妻沼さんが「鯵だ」と叫ぶ。
魚住さんが「お鯵ギャグだな、恒例の」と、ツッコミをいれる。
みんなが笑う。
気づくと。二時間が過ぎていた。
復路を進む。
帆を下ろす。
港のなかは、エンジンを使う。
浮き桟橋には、クーラ―ボックスとバスケットを足元に置き、村元さんの奥さんが手を振っている。
映画のようだった。
エンジンが止まる。
惰性で桟橋にピタッと横づけする魚住さんが、かっこいい。
「奥さん、今年もサーモンサンドですか?」と、魚住さんが訊く。
「恒例好きの皆さんですもの」と、奥さんが笑いながらいう。
奥さんと妻沼さんは、互いの家族の話をする。
俺は、ランチのセッテイングを手伝う。
身長八メートルのヨットの船室は、隠れ家だ。
冷暖房機、シンク、トイレ、ベッド。
バルサミコ酢香るサーモンとスイートバジルのサンドイッチ。
絶妙な味わいだった。
缶ビールのプルタブがたてる軽快な往復音が、談笑に合いの手を打つ。
サンドイッチを平らげる頃、奥さんが「日暮れ頃迎えに来るわね」という。
「車まで送ってくるよ」と、村元さんが出ていく。
吊るさったグラスを引き抜き、妻沼さんのグラスにワインを注ぐ魚住さん。
俺を向き語りかける。
「村元に頼まれたことがある。何でもいい、ためになりそうな話を、トシさんにしてくれ、と。頼まれた、と打ち明けないで二人が話しだしたら、説教だと勘違いされるかもと思い、前もって……」と、ワインを一口含み、少し間をおき喉を鳴らす。
「村元は幼い息子を亡くしたでしょ。トシさんを息子さんに重ねているのかもね。息子にしてやれなかったことを、と思ってのことじゃないかな」
村元さんが戻って来た。村元さんと目を見合わせた魚住さんが、俺に向く。
「私は悪徳弁護士だった。勿論、そうなろうとしてなった訳じゃない。周りの評価と高額報酬を得る快感に溺れてしまい、そうなった。平成五年大震災があった。寝ていた身体が宙に浮いた。それほど強烈な縦揺だった。次の瞬間、大きな破壊音。もしかしてベランダのガラスが割れたのでは、と隣の部屋に駆け込みガラス傍の布団に覆いかぶさった。そこには妻と長女が寝ていたからね。ところが、妻が赤ちゃんに覆いかぶさっていた。三段重ねで数分を過ごした。破壊音は、食器が割れた音だった。玄関横の部屋の窓柵を避難用にと外し、余震に備えた。それでも出勤した。事務所では対策会議があった。帰宅が遅くなった。生後半年の娘を抱いて妻が泣いていた。翌朝、玄関を出たときにその転機が訪れた。『生き方を変えないと』という声が聞こえた。誰もいないのに。不思議なほどあっさり辞める覚悟がついた。それから、妻と共通の趣味だったコーヒーの商売をはじめた。今は静かに生きている。悪でも善でもなく。でも、これは小人の生き方だ。この頃やっと分かってきた。ご褒美をその都度もらう生き方。小人の生き方」と、いうと魚住さんは、ワインを口に含み、少しずつそれで喉を潤していた。
村元さんが、魚住さんのグラスにワインを注いだ。
皆が、それを見た。
魚住さんが続ける。
「逆の生き方があると思う。社会に価値を注ぎ続ける生き方。求めぬ褒美は天が代理し注ぐ感じ。天と協働する生き方みたいな……」といい終え、魚住さんがお茶目に笑った。
そして、俺の肩を摩った。
「じゃあ次は……」と、妻沼さんがいい、左手の甲を左腿の下にすべり込ませた。
右手にも同じ動きをさせる。
背を丸め、上半身を前後にゆっくり揺らしはじめた。
「父が開宗した、新興宗教に関する話をします。母が、私を妊娠したことが分かった日のことでした。電話が鳴ったとき母は、喜ぶ父の顔を浮かべ受話器を取りました。ところが、電話の声は父の仕事仲間でした。父が感電事故に遭ったことを伝える電話でした。危篤状態が一週間続いたそうです。母は覚悟を決めたそうです。おなかには子どもがいるから、泣いてはいられない、生きていかなくては、と。泣くのを止めたとき、父が目を開けたそうです。奇跡だといわれたそうです。父は、危篤中にみたこと、そしてそこで啓示されたことを、母に伝えたそうです。母は、そうしてください、といったそうです。私は母に抱かれながら、襖を外した二部屋に集まった、たくさんの人を前にして話す、そんな父の姿を見て育ちました。水曜日の夜と日曜日の朝、物心つく頃から私は集会の雑用係りでした。十歳の頃、信者たちの寄付で、大きな集会所ができました。電気工事業を社員に譲り、父は宗祖になりました。宗祖になった父は、信者から感謝され続ける、息子の私が言うのも変ですが、素晴らしい人です。信者さんの子どもでもあり、私の幼馴染でもある友人がいました。生駒、といいます。生駒は、十四歳のときには、宗祖の言葉をほぼ理解できました。彼は宗教的天才だ、と私も認めました。ところが、私が大学で東京にいた頃、宗祖は時代の変化に合わせた道を選択し、内容を薄めました。大衆化した訳です。生駒は、悟りの境地を目指す修行を放棄することになる、と私に電話で言い残し、教団から去りました。生駒が悟った『濃い口』を、私は今でも理解できていないかもしれません。ですが、今は『薄口』が好まれる時代でしょうか、私ぐらいが丁度いいみたいで、会員の輪は拡がり続けています。その生駒が『ステーキ&バー シャウデン』という店を、阪神芦屋駅すぐ近くで営んでいます。トシさんの夢とその具体策を村元から聞きました。トシさんの気づきは『濃い口』です。だから、生駒に会った方が、私よりトシさんのためになると思いまして、あとで紹介します。連絡は入れておきました。一緒に行きましょう。生駒なら、トシさんがみた深さを解説道できると思いますよ……」と、優しく微笑んだ。
白ワインが空になった。
魚住さんが、赤ワインのコルクを手際よく抜く。
「二十年近く、このイベントを続けてこられたコツは、この集いに暗黙のルールがあるから。赤ワインを飲み干したら解散」と、魚住さんが洒落た口調でいう。
揺れと灯りで、濃い赤と銀色が、グラスのなかで絡み合った。
【57.宇宙人】
名店が町内にあったとは。
スパイスドレッシングのトマトサラダからはじまり、サイコロ状にカットしたヒレステーキレモンバター、旬の葉野菜の浅漬け、厚切りハラミ香草ガーリックソース、山菜ピクルス、薄切りカイノミ山椒もしくは山葵チョイス、透き通った薄味根菜スープのコース。
食事が終わると、マスターが予備席を抱え妻沼さんの横に来る。
八時十五分、タクシー手配を頼む妻沼さん。マスターがスタッフに伝達する。
マスターが俺をみて「あんたがトシさんですな。何処に住んでいますの?」
「教会の裏のマンションです」
「トシさん、あんたか。あんたが賃貸申込書に記載した保証先に連絡したら、弁護士さんから連絡入って、個人保証してもいいからその部屋を貸したって、と頼まれたんや」
「と、いうことは?」
「そや、あんたの大家や、わしが」
「大家さんでしたか。よろしくお願いいたします」
「これは稀な縁やな。わしが大家の生駒や」と、生駒さんが微笑んだ。
横から「これは、縁上の友かな……」と、生駒さん。
「そやろな、生駒。ところで、宗祖は元気にしてはるか?」と、生駒さんが訊く。
「元気だよ……。朝四時に起き、三尊の前で、坐禅、読経。五時半から十分、全会員向けのオンライン説法。六時から朝食。九時から会議。今でも十時、十一時半、十四時、十五時半、十七時、十七時からの個人面談をこなす。二十一時には就寝。母さんも元気にしている。この前、いつまで続けるのですか?と問うと、九十三歳の誕生日まで、と。なぜ?九十三歳の誕生日なのですかと訊くと、約束だからって……。母さんが先に逝くから、三回忌供養してわしも逝くって。そのあとは頼む、といったよ。多分、その通りになるだろう。生駒に会うといったら、会いたいなあ、と伝えてくれといっていたよ」と、妻沼さんが回答した。
生駒さんの目が潤んでいる。
「若い頃のわし、器狭かったわ。拡張路線とりはった宗祖の気持ち、受け止めるには狭い心やったわ、若かったしな……」といい、グラスの焼酎を一気に干した。「宗祖は大事なことやから、それを続けるために変えたんやな」
「父さんに、その言葉、伝えてもいいか?」と、妻沼さんが訊く。
「勿論、近いうちに伺います、ともいっといて」と、生駒さん。
間が流れた。
生駒さんが俺に向く。
「トシさん、又聞きの又聞きやけど、『言霊』が設計図の役割果たし、『記憶の部屋』が『記憶の組合せ』になり、『空即是色』の機序で湧現する。解釈、あってるか?」
俺が頷く。
「それは摂理や。摂理とは自然界を支配している法則や。よう掘り下げたな、あんた。あんたは理論づくりしたらええ。創作した理論の普及は誰かに任せたらええ。会社でも商品の製造と販売は分担するやろ。妻沼、会員数は?」
「十万人ぐらいかな」と、妻沼さん。
「妻沼、トシさんを助けたって。わしの縁上の友やから、妻沼にとっても縁上や」と、生駒さん。
妻沼さんが名刺を差し出し「理論が完成したら連絡ください」といった。
タクシーに乗り込む妻沼さんを見送る。
角を曲がる。
マンションの最上階を見上げた。
階下とはつくりが違う最上階がある。
帰宅し、窓から芦屋川を望む。
芦有の夜景が観たくなった。
展望台へ、バイクを走らせた。
奥池通過時、村元宅の向きへ頭を下げる。
望む景色は、ひっくり返した宝石箱、煌めきで満ちていた。
宝塚、西宮、尼崎、大阪湾だな。
するとあそこが堺になるか。
数万人の営みが漏らす光たち、なぜか、感動を覚えた。
隣から男の声。
「あれは、滅多に消すことのない溶鉱炉の炎だよ」
「へえ、そうなんや」
横をみると、堺を指さす男に寄り掛かる女がいた。
【58.快挙】
久し振りに、ここから皇居を望む。
滴がテーブルに落ちないよう、蓋を上向きにしそっと置き、玉露を啜る。
大家の生駒さんに知らされた、ここの弁護士の善意。
礼を伝えようと先日連絡した。
「夕食を一緒にとろう」と誘われた。
そんな訳でここにいる。
この席で、全部任せてあるから、と俺にいった父の面差しがぼんやり浮かんだ。
ノック音。
「久しぶりだね。さあ、行こう。丸ビルに旨い寿司屋がある」
すし屋で俺は、ヨットがらみの奇縁を語った。
保証人のこと、改めて感謝した。
「君のお父さんに返してない恩があるから」と、彼はいった。
美味い寿司だった。
帰りのタクシーで彼は語りだした。
遺産の扱い方として、複数行に分け定期預金、証書は貸金庫に預け、年明けに一年分だけを普通預金に補充する。
投資や投機は絶対ダメ。
お父さんも同じ意見だと断言できる。
四十歳前後に、ここかな、と確信した場所に家を建てる。
と、こんな内容だった。
なぜか、その内容が腑に落ちる。
別れ際、タクシーの窓を下ろし、「いつでも連絡して」と、いった。
ホテルの喫茶でコーヒーを頼む。
上京のもう一つの理由は、他にもある。
「明日の三回戦相手は前回覇者。最終アドバイスを頼むわ。体育館玄関で八時に」
理由は、豊君の試合観戦。
翌朝、約束の時間前に会場玄関に着く。
近づいてくる豊君のオーラに、勝つなこれは、と確信する。
左膝の位置だけ、念押ししておいた。
要の試合が始まる。
豊君の水準は別格だった。
装備した機能を、事務的に繰り出す豊君に対し前回覇者が、試合中盤でなす術を無くし、打たれ続けた。
豊君は、あっさりと優勝した。
「二十歳の快挙」というアナウンス。
来春二十歳になる俺が、少し焦りを覚えていた。
ハルカさんが寄ってきて「東京の学友が集うことになったの。道子さんを送って」と頼まれた。
東京駅の新幹線ホーム。
中山さんとの浜松旅で待ち合わせたのは、あそこのグリーン車乗り場だった。
引っ越しのときは別の番線だった。
今日は、道子さんと二人。
浜松旅のときと同じホームから新幹線の乗る。
俺だけが浮かれているのかも、と道子さんをチラ見した。
道子さんも少し緊張気味のようだ。
ホッとする。
売店に入る。
幕の内弁当と緑茶と缶コーヒーを二個ずつカゴに入れ「おごります」というと、道子さんは、チョコとクッキーとチップスとプリンをとり「おごります」といった。
二つ目のトンネル。
「上り」とすれ違う。
ボンと耳を打つ圧。
痛みに鼻をつまみ耳抜き。このとき、記憶が蘇った。
それは、幼かった頃の記憶だ。
女の子がいる。
能力開発スクールのサマーキャンプ。
踊りと歌をグループで創作し、一人が歌い四人が踊るという企画に取り組む。
記憶の画が捲られる。
塾のテストから戻った俺が我が家を見上げている。
我が家のベランダから下を望む女の子と男の子。
俺は、キャンプで一緒に踊った女の子だ、と階段を駈け上がる。
玄関に着くと、姉弟は靴を履き終えた頃だった。
「会社の方が転勤するからって挨拶に来てたのよ」と、あとで母がいった。
蘇った記憶に登場した女の子は、もしかしたら道子さんかも?と思い、訊いた。
「その女の子です。では、あの時の男の子がトシさん?」
開いた口を掌でおさえた道子さん。
目も見開いていた。
二人は、奇跡に歓喜した。
それから、母の死、父の死を告げた。
道子さんは俯いて肩を揺らした。
だから、俺は、中山さんと里見さんとの出会いを語った。
道子さんは、一生懸命に聞いてくれた。
そして、道子さんも話してくれた。
引っ越しから数年後、四年生になった弟が塾で感化され、灘中に進学したいと親に懇願した。
転勤族だった父は退職を決意し、親戚が開発した冷凍寿司の宅配会社を設立した。父は往復九時間、冷凍トラックを運転し、北陸まで仕入れに通った。他社から運搬の仕事を貰った。往路の荷台に神戸肉が積まれた。
母が宅配拠点を仕切った。
ピザの宅配ノウハウをそのまま取り入れた。
新聞に折込むチラシ、バイクでの宅配。
中学生になる頃、社員二人が金沢便と、五店舗ある支店への配達を交互に運転するようになった。
弟は、灘高三年。
医者かバイオ研究家になるかで悩み中。
母は元文学少女。空いた時間には本を開く。
私は現役文女。
大好きな作家教授がいる花徳に入学。
こんな内容で話終えた。
新大阪から御堂筋線に乗り換え、梅田へ。
阪神電車は、空いている普通を選んだ。
ベンチシートに横並びに座った。
電車がもっとゆっくり走ればいいのに、と本気で思った。
芦屋で降りずに御影まで同乗した。
家の前まで一緒に歩いた。
勇気を出し連絡先を訊いた。
【59.愛・克・縁】
「店の常連にスポーツカーや高級外車専門のレンタカー屋がおって、一度ぐらい、と付き合ったら、これがお得や。所有に比べて月割りすると、車代、保険代、メンテナンス代合計額の三分の一の費用で足りるんやで」
加速が凄い。
「これ、スカイラインGTR。でも、もうおしまいにしよ。安全運転で行こうや」といったが、結構なスピードで走っていく。
九時、山寺に着く。
護摩祈祷を申し込む
生駒さんが話はじめた。
「宇宙飛行士は、一番遠いところまで行って、わしらに何かを伝えてくれよる。その何かが、なぜかありがたくて宇宙飛行士は尊敬されるよな。聖人は、心の奥底まで行って、わしらに何かを伝えてくれるよな。その何かが、なぜかありがたくて聖人は尊敬される訳や。あんたは、これから底より深いところまで行く気で頑張りなはれ。ここで聖天様、あとで不動様と釈迦様にお誓いしたらええわ。誓うと同時に、仏の心に映しなはれ。宗祖が、毎朝日課で三尊を拝みはるって妻沼がいっていたやろ。昔、宗祖が、二人だけの時、鎮座される御三尊様の前でわしに教えてくれはったわ。『愛、克、縁』、愛は慈悲。克つための智慧。覚悟した者には縁。愛は、お釈迦様が担当。克は、お不動様。縁は、聖天様。宗祖は、三尊のようになるため修行してる、といってはったわ。中でも聖天様はなんか愛嬌あんねん。男女が抱き合うとる仏様や。像の顔したガネーシャを知っているか。ガネーシャと観音様が結ばれれ聖天様になりはった」
GTRは次の目的地、高野山へと向かった。
生駒さんがカーオーディオのスイッチを入れる。
サザンだった。
「高野山まで、約二時間や。昼飯は、高野豆腐と湯葉の精進料理。ガネーシャの父親がシバ神。シバ神は不動明王。高野山の空海様も不動明王やで」
CDが二周した。
参道を進み、弘法大師の霊廟を拝した。
「さあ、帰ろか」
エンジンが程よい痺れを俺にくれる。
生駒さんがアクセルを踏むたび、どんどん届く。
「仏は黙って区別なく参拝者を受け入れはる。生きつつそうしはる人はほんものや。宗祖も一日に幾人の話を聴きはるって。一人一人の話を聴きながら、その人の心根まで下りていき、原因をみつけ、それを慈しみはる。宗祖は、多分、来世は仏にならはるかもな」
「……」
俺は黙っていた。
生駒さんが続ける。
「わしは、人がこの地球で生きる意味を見抜くつもりでいる。飲食業は、神様がつくりはった生命を勝手に獲って売ってしまう矛盾。賃貸業は、神様がつくりはった土地を勝手に所有し売ったり貸したりしてしまう矛盾。矛盾を生き抜き、それでも、わしを生かす『意志』を見抜く。そんでな、死に際に来世はそれに応えたる、と念じながら逝く気や。前世の死に際に念じた通りの境遇を選んで、人は生まれてくる仕組みやいうこと知ってはるか。前世記憶は産道通過時に忘れるけど、死に際はこの世に片足、あの世に片足やから、完全な前世ではない訳や。だから、その念どおりに現象しよるし、念じたことを忘れないで済む訳や。わしは来世で人間を卒業し、宗祖とまた一緒にいたいんや」
「なるほど」
「いい念だけやないで。死に際の復讐や怨み系のよからぬ念が、厄介なことを来世で起こしよる。でもな、もし、よからぬ人生やったとしてもな、人生は幾度もあるから、やり直したらええんやで。気づいたときからでええんや、いい生き方に変えたらええんやで。いい生き方は何?と考えながら生きとればいつかわかるで、そんなものは。河口は海と交わっとるやろ。川に含まれた汚れは海が一気に清めよる。河口のは川の一番の下流やろ。生き方で譬えるなら、下座に着くことやで」
高速道路に入り、加速する。
堺の工業団地、との表示。
芦有の夜景で見た炎の居場所だ。
背景の空に、燃え色の太陽が照る。
「あの太陽、さっきの山々、わしとあんたの命。全てをつくりはったのがお釈迦様や。せやから、あんたのなかにお釈迦様がいて、これからのあんたを、つくりはる。つまり、全てのなかにお釈迦様をみているときのあんたはお釈迦様そのものになる」
生駒さんがアクセルを踏み込む。
「これで、三尊を紹介したことになるで……」
生駒さんは、スピーカーから流れる「白い恋人達」という楽曲を、本物そっくりに歌った。
二番から、俺も一緒に熱唱した。
豚玉、イカ玉、豚イカミックス、この三種だけのメニューしかない、西宮のお好み焼き屋に寄った。
「あんたを誘うのは一度きり。でも、あんたからはいつでも連絡してええんやで」
俺は礼を述べ、GTRから降りた。
俺の縁上に現れた大人たちは、皆、目が澄んでいる。
水は留めると腐り澱むという。
あの人たちの目は、澱まない。
常に、理想へと進化向上しているからだ。
【60.テキサス】
おっ、珍しい。
中山さんからのメールだ。
陽さんとの面談約束の件で交わして以来だと記憶している。
「トシ、元気か。冬休みにテキサス州へ行かないか。河野さんのビジネスパートナーに会う。河野さんを覚えているか?浜松での結婚式のあとに福ちゃんで面談しただろ。十二月二十二日~二十七日、この旅は、私からトシへのクリスマスプレゼント。気持ちよく受け取ってくれ。次男が同行する」
メモ帳を開く。
授業はない。
「中山さん、お久しぶりです。おかげさまで元気です。クリスマスプレゼント、ありがたくいただきます」と、返信した。
翌朝。
メール受信、差出人-中山涼、との表示をクリックする。
「はじめまして。中山一春の三男、涼です。旅の幹事です。よろしくお願いします」と、はじまったそのメールには、「十二月二十二日十七時五分成田発なので、同日十五時日航フロント集合です。チケット手配に必要なのでパスポートを写メで送ってください。米国電子渡航認証の取得を、よろしくお願いしますね」
「はじめまして。岩元政寿(イワモトマサトシ)です。テキサス旅、よろしくお願いします。パスポートコピー添付します。渡航認証の件、早速動きますね」
電話番号を追記し返信した。
今度は、道子さんからのラインが届く。
「先日は、自宅まで送ってもらいありがとうございました。トシ君が、同僚だった方の息子さんで、トシ君のご両親がお亡くなりになったということ、芦屋で独り暮らしをしていることを、うちの両親に話しました。道場で知り合ったことも。すると、会いたいとのことです……」
「弟さんの受験が終わったら伺う、と伝えてください」と返信しておく。
十二月二十二日は朝七時に家から出発。
新幹線で駅弁朝食、成田エクスプレスで駅弁昼食。
乗り物での食事が好きだ。
そして今、機内で夕食をとっている。
トレーが下げられた。
隣には中山さんがいる。
「憶えているか。あの常連の笹森さん。彼の紹介で館山君が入り、この冬から任せている。残りの子どもたちの大学費用分も二三舟で稼がせてもらったよ」
「利息収入での子育てではダメなのですか?」と、俺が訊く。
「ダメかどうかは断定できないな。しかし、私と妻は、利息収入で子育てすることに違和感があった。建物の基礎は、砂利や石、そしてコンクリートで詰まっているよな。子ども時代が人生の基礎だ。愚直な積み重ねで心と体と頭脳を鍛えた方がいい。子と相関している親が、基礎固めの時期、そう過ごした方がいいと思っただけだ」と、中山さん答える。
「目にはみえない、わかりにくところで『借り』ができる。予想外の犠牲が不労所得には付きまとう」
「目にはみえない、わかりにくいところ、とは?」と俺は興味が湧き、訊く。
「例えば、商品のやりとりなら喜びが生じる。美味しかった、気持よかった、便利だった、役だったなどだ。対価は、先方にとって金銭的にはマイナスだけど、喜びというプラスが、こちらの利潤を中和させることになる。しかし、不労所得を生み出す先方の損には喜びが伴わない。それだけでなく、怨念が含まれるから、『借り』ができる。こちらの『借り』は、先方にとっての『貸し』になり、いつか返済を迫られる。先方の債権が他者に譲渡され、見知らぬ他者から迫られたりする」と、中山さんが答える。
「不労所得のお金は悪ですか?」
「悪ではない。目にみえない、分かり難いリスクが多すぎる。知らないことを人は恐れるだろ。だから、不労所得は恐怖のおまけつきだ」
「利他的な投資ならいいですか?」
「利他的な投資なんていうものはない」
「投資は利己だということですか?」と、俺は内容が面白くなり、更に訊く。
「資本主義社会は利己的動機が原動力だ。だから、目にはみえない、分かり難いところについて勘づいた人は、せっせと不労所得の一部を寄付して『借り』の中和に励む訳だ。どこかで、債権が清算されることを期待して……」
「以前お話されていたAIチップ脳内装着事業への投資を進められるのですか?」
「見極めるため、テキサスに行く」
「私の話をしてもいいですか?」
「大歓迎だ」
俺は、俺が創った理論を語った。
すると、「『大創造波空』、『記憶の倉庫』、『言霊』、この三つで、説明できる訳か。そして、『記憶の倉庫』のなかで屯する、未精算の『記憶の組合せ』の精算法を、治療に転用するということだな……。トシならできる気がする」
中山さんは、二三舟での賄でみせた笑顔になった。「トシの理論からすると、人とAIの差は何だ?」と中山さんが訊く。
「無限に遍在する『記憶の倉庫』に比べてビッグデータは、宇宙に比べると地球ぐらいです。でも、AIが『記憶の倉庫』とアクセス可能になったらおしまいです。今のところ、アクセスできる、できないの差だと思います。ですから、生殖機能を残したAIサイボーグに移行し、アクセス機能の獲得が適えば、『生命体ロボット』に移行すルでしょう。そして、それが生命体首座になると思います。人為的な進化のように見えて、実のところ、大自然の性向が仕向けていると感じます」と、俺が答える。
中山さんは目を閉じている。
俺はが続ける。
「大自然の性向、つまり、進化の流れに抗うことなく、生命体首座禅譲の最善策を練る必要を感じています」
中山さんが目を開けた。
「今回、紹介で会う人は、ロボット開発分野のトップランナーだ。河野さんのAI脳開発ブレーンだ。思案中の投資案件はこれだ。トシのいうように生命体首座移行は、時代の流れだな……。話は変わるが、次男と仲良くしてやってほしいな。できたら、トシがみえている風景を、涼に話してやってほしい」
中山さんが俺に頼みごとをした。
よし、恩返しができる。
通路を挟んだ席で涼さんが、隣の外国人と意気投合し語らっている。
それからは、西川口での居候時代を懐かしみ思い出は話に花を咲かせた。
トイレに立った。
涼さんが、外国人の肩に頭を乗せ、いびきをかいている。
【61.オースティンの女神】
ビックリした。
あの有名な、あの人だったとは。
俺を含め皆で食事した後、中山さんと彼と河野さんは、ラウンジへ行った。
俺と涼さんは、オースティンの街に出た。
広場には、里見さんと語り合ったコーヒーショップのチェーン店があった。
ここは、演奏のメッカのようだ。
あの席がいい、と俺は演奏を望める窓際を指さした。
「リョウちゃんと呼ばれているからそう呼んで。トシちゃんって呼んでもいいかな?」と、リョウちゃん。
そう呼び合うと決めただけで、なぜが親近感が湧いた。
「兄貴二人は東大出、大きいお兄ちゃんはそこで政治哲学の講師、小さいお兄ちゃんはインド赴任中の商社マン。僕は東大に二度落ち、母親はもう一度と言ったが、父親が味方につき慶應に落ち着いた。今、経済学部一年生。兄弟三人ともに剣道経験者。長男は正統派剣道。次男は二刀流で高校時代、全国で少しだけ名を馳せたことがある。僕はピョンピョン、チャンバラ剣道。中学生になって、ときに不登校、それ以外はゲームばかりしていた。通信制の高校に進み、悶々としながら、でも、受験勉強だけはだらだらと続けて、どうにか今があるって感じかな。トシちゃんは阪神医科大生で空手経験者だよね。中山家では有名だよ」と、リョウちゃんがいった。
「中山さんは俺を受け入れてくれた。晩飯をつくってくれた。話し相手になってくれた。人を紹介してくれた。そのおかげで立ち直れた。人生を前向きに歩めるまでにしてくれた。感謝している。恩返しをどうしたらいいだろうと考えてきた。ところが、飛行機で中山さんが頼んできた。初めてだよ、頼まれたのは……。俺の見えている景色をリョウちゃんに話してほしいって。だから、恩返しがしたいから、興味がある話か分からないけど、その話をしてもいいかな?」と、俺はいった。
「もし、興味がなくても、最後までちゃんと聴くから大丈夫、さあ、話して」
リョウちゃんの目は、話の進行と共に輝きを増していった。
「興味あるある、このジャンル。『言霊』は糀のような効用ね。この効用って音波がつくるのかもね?弦が振動しゼロに戻るよね。つまり元の位置からプラスに揺れ、マイナスにも揺れ、何時かまた元の位置に落ち着く。もし、交流電気同様に磁力を生むとしたら、その磁力が『記憶の部屋』同士を合体させるかも?」
「リョウちゃん、糀と磁力の譬え、面白い」と、俺がいう。
「トシちゃん、つまり、急性的な接着状態なら『記憶の組合せ』を意識的に『記憶の部屋』に解散させることができるけど、慢性的な接着状態になるまで忘れおくと、未精算の『記憶の組合せ』となり固着する?そうかな?」とリョウちゃん。
俺が頷く。
「様々なものの見方や考え方を、立場や角度を変えながら交流させて、全く新しい『記憶の組合せ』を創出することを、人類の使命だ、と……。目には見えない新価値創出によって、目に見える宇宙の総量増加を担保する、という訳だね。具体的には新星誕生という形で……」
「リョウちゃんすごいよ。理解力半端ないね」と、俺は感動した。
「僕、父さんの話がなぜか昔から大好きで、兄貴たちに偏差値では勝てなかったけど、教科書に載っていないこの手の話の理解なら勝つ自信はある」と、自慢げだ。
「そう、じゃあもっと深いところまで遠慮しないで話すよ。摂理に適う新価値的な『記憶の組合せ』は新星になる。その逆で、放置された精算すべき未精算の『記憶の組合せ』が一定数蓄積すると、その魂は鬼や妖怪になる。人間には見えないけどね。たまにみえる人間もいる。分析心理学ではある原型が自我を圧倒してしまうという。それに似たニュアンスかな。幻聴だって『記憶の倉庫』理論で説明できるよ」
「新価値創出の使命を、人間が大自然から授かっているなら、刺激に反応する際、イメージが湧くように自然的にセットされているかも?」
「人間は創ることが大好きな性向に設計されている。推理と予言。悪口を語るときなどは頭のなかで小説を創作している。感傷に浸るときや浪花節を口ずさむときは、頭のなかで自分が演出兼主演の悲劇を創作している」と、俺。
「妄想中は、まるでシナリオ作家」と、リョウちゃん。
「『言霊』は音波かもって、リョウちゃんのその閃き、頂いていいかな?」と、俺。
「勿論、いいさ。ところで、未精算の『記憶の組合せ』の精算方法はあるの?」
「今、二つあるけど、汎用性ある精算方法をもっと創ろうと思っている。遺伝の割合って、実は高いんだ。『記憶の部屋』の表層配列が似通っているから。精算方法が有効なら配列変更が適うはず。遺伝的な病気に効く可能性があるかも……」
リョウちゃんは、俺にみえている風景を浮かべるに充分なほど、聴いてくれた。
コーヒーショップの看板に棲む女神が、交流を促進させて場?と感じた。
さいたま新都心店では里見さん、オースティン店ではリョウちゃんと。
会計するリョウちゃんを外で待った。
神戸の風そっくりな温さが俺を包む。
その時、道子さんの笑顔が浮かんだ。
【62.夢分析「巨人奉仕会」その壱】
「ビクンとしたり、笑ったり、すごい夢だったようだね」と、機内食のタイミングで俺の肩を揺すって起こしてくれたリョウちゃんが、そういった。
夢だったのか。
でも、針金の触感が今でも掌に残っている……。
夢では俺と道子さんが夫婦で現れる。
最初のシーンは、買物帰りの車中での会話からはじまった。
「もし、巨人が原油の元栓閉めちゃったら、物価って高騰するのかしら?」
「石油製品多いから高騰するだろうね」と、俺は道子さんの問いに答えた。
「飛行機や船も動かせなくなり、旅行や貿易も……。寒い日どうしよう?」
「薪ストーブかな。しかも、生活スペースを狭くして……。ゲルみたいに」
「自転車や徒歩圏内での仕事に転職しないと……。あなただって、仕事場まで遠いじゃない。どうするの?」と、道子さんは眉間に丘をつくった。
「自転車?それとも、引っ越しか?」
「引っ越しは、手押し車ね。何回往復するの?私、無理かも……」
「それは確かに考え物だな」
「さっきのショッピングセンターの三、四、五階、それと屋上駐車場は、もう要らないわね」
「倉庫?そうだ、屋上駐車場はコンクリートを剥がして公園にしたらどうだろう?」
「剥がしたコンクリートも手押し車で運ぶの?」
「大変だ、大変だ」
「あなた、以前に巨人語を使えるって、テレビ出演したことあるじゃない。そろそっろ出番じゃない」と、お茶目に俺の肩をつついた。
「巨人と直談判か。日本、否、世界のヒーローにでもなるか」
少し歳をとった道子さんだったが、ケラケラ笑うと、やはり、とても可愛いい。
温暖化を憂慮する会話をする二人であったが、その二人の愛車は、二酸化炭素を豪快に吐き続け、街を疾走している。
大宮駅周辺から離れれば、どこの地方都市同様、田舎が残っている。
駐車場から、竹藪と葡萄畑に挟まれた近道を通れば、家まで徒歩一分。
昨夜は雨だった。
泥道を避け、遠回りだが、舗装された道路を三分かけて歩いた。
それでも、靴に泥がつくのが、田舎の七不思議の一つだ、と俺は数えている。
家が見えた。
玄関の前に、固めの横分けスーツ姿の男性二人が立っていた。
「外務省から来ました。岩元政寿さん……ですね。国からの緊急協力要請です。応じてもらえますか?というか、応じてもらわなければ、私どもは帰れません……」
俺は戸惑った。
「あなた、もしかして?」と、俺の袖を引っ張る。
俺は覚悟を決めた。
ヒーローになる。
俺は、道子さんに目だけで別れを伝えた。
言葉にすると、本当にこれが、最期になりそうな気がしたからだ。
片側の男が黒塗りの扉を開ける。
道子さんが「少し待って」といって、家に入る。
仕事鞄とフォーマルなジャケットを抱えた道子さんが、それを俺に渡す。
「気をつけてね。使命を果たしてね。私、ご飯作って帰りを待っているから……」
道子さんの目には涙はなかった。
しかし、拭いてきたのがわかる。
目じりには、アイシャドウの飛行機雲があった。
車中で、さっき緊急協力要請を口にした男が名刺を差し出した。
「外務特命大臣補佐 鶴亀辰虎(つるかめたつとら)です」
「すごい名前ですね」
「よくいわれます。さて、霞が関でも同じことを訊かれると思いますが、なぜ巨人語を話せるのですか?」
「巨人語と出会った経緯はこうです。留学先のアイルランドの図書館に『伝説 巨人語解説』という本がありました。最初は興味本位で読んでいました。ある法則性に気づき嵌ってしまったのです。私は読解できる自信を得ました。そこで、卒論は『巨人語解析』というテーマで書き、賞を頂きました。社会人になってからも趣味の水準ですが研究を続けていました。ある時、恐竜時代に巨人が存在したというフイックション小説を思いつきました。それを、小説投稿サイトにアップしていたんです。趣味ですよ、趣味ですからね。ところが、恐竜ブームでその小説がなぜか注目され、マスコミの取材を受けるうちに、テレビにも出演するようになりました。先日のニュースに公開された巨人からのメッセージを目にして腰を抜かしました。私が研究した巨人語、そのままじゃないですか。だから、薄々、覚悟はしていました。通訳ですよね、私に緊急協力要請された任務とは?」
男は、黙って首を縦に動かした。
「ここからの話は機密事項です」と、男性は前置きした。
「巨人から呼び出しです。日時は明日の満潮時、場所は九十九里海岸某所。指名は、校長、理事長、岩元の三名です。前後の文脈から分析したところ、校長は国の代表者、理事長は経済界のトップ、岩元は岩元政寿さん、あなたでした」
夢のなかだけに、このあと舞台は、車中から九十九里海岸某所に暗転する。
巨人の大きさは、「校長」、「理事長」、内閣官房関係者、自衛隊員、警察官、消防隊員、それに俺の度肝を抜いた。
海にドカッと胡坐をかく巨人。
腹から上は、雲に遮られ見ることができない。
人工衛星の映像から、手櫛で後ろに流したゴワッとした髪型がみてとれる。
服装は意外とラフだった。
不思議と、海に馴染む唐草模様の開襟半袖シャツだった。
クレーンでは巨人の顔まで届くはずがない。
どうしよう?と首相にあれやこれやと官僚が進言するが、即決されずにいる。
みかねたのか、巨人が手を差し伸べた。
クレーンに乗った俺が、巨人の掌に飛び移ったとき、浜で歓声があがった。
巨人の手が一気に上昇。
俺は鼻をつまみ、何度も耳抜きをした。
また、何度も唾を飲み込んだ。
これも耳抜きに効く。
巨人の掌が上昇し雲を越えた。
そこは抜けるような青空だった。
掌は巨人の下唇あたりで停まった。
俺が見上げ、巨人は首を少しかしげた。
互いの目が合った。
巨人の瞳は天使のように澄んでいた。
巨人の左掌の上で、巨人の言葉を必死にメモし、日本語に翻訳し、無線マイクで地上に送信した。
巨人は、このままだと地球は温暖化どころか灼熱地獄になるといった。
幾つか例を挙げながら、興奮気味にまくし立てた。
息するのを忘れるほどにだ。
そして、顔を赤らめた巨人が、思い出したのか、一気に吸気した。
俺は、巨人の口に吸い込まれていた。
ベロの上で唾まみれになった。
脳裡には、二つの選択肢がよぎる。
其の一、気管に入れば巨人は咳こむ。
房総半島を越え東京湾まで飛ばされる。
其の二、食道に入れば胃に順送り、胃液で溶ける。
究極の選択だった。
あれは、其の一、気管へと、と祈る。
取り越し苦労だった。
巨人はベロを出し、掌を着地点に傾斜をつけた。
つまり、粘り気味のウォータースライダーが出来上がった訳だ。
唾液の粘度によって俺は体勢を程よく保った。
サーファーのようだ、といい気になった。
【63.夢分析「巨人の奉仕会」その弐】
「ミスター岩元、大丈夫ですか?」
名前を呼ばれた。
妙に嬉しい。
そこで、「巨人さんのお名前は?」と訊いてみた。
「本名は明かせないのね」と、巨人。
唾まみれになったヘルメッド内蔵型無線の調子が悪い。
雑音混じりであちらの声は届くが、こちらのマイクは故障してしまったようだ。
受信が途絶えた対策本部はあたふたしていることだろう。
「オオ…トト…ガイマ…イイ…モモ…サ…ドド…シュシュ?」
俺は何度も無線の再起動を試みたがマイクランプは再点灯しなかった。
俺の「暗号解読」能力によると、多分「首相、大変です。連絡が途絶えました。理由は今のところ不明であります。どうしましょう?」と、浜では騒いでいる。
この後も推測だが、多分「白バイ用じゃあの高さは無理でしょ、やっぱ。飛行士用にしたらよかったのに」と。
これじゃダメだ、このままじゃ……、と俺は憂慮した。
そして、ヒーローとして苦悩した。
少し、救済者妄想気味に酔っている自覚もないことはない。
しかし、「日本、否、世界のために」と、道子さんに誓った言葉を反芻し、覚悟を決めた。
巨人にこうお願いすることにした。
「巨人さん、あなたがここまでするほど地球はやばいのですよね?それならこの機会に巨人さんからお灸をすえてもらった方がいいかも……。欲心にまみれた者が、損する選択をするはずがないから……」と、心を鬼にした。
その俺の覚悟は、巨人は転移した。
「オッケイ」と巨人はいった。
そして、右手を急降下させた。
人差し指の先で、駐車中の大型排気量エンジン新型車を、プチっと潰した。
「あれ、理事長の新車。人は絶対に殺さないから安心して」と澱みない瞳でいった。
この瞳に嘘はない、と俺は感じた。
「巨人さんに協力します。その前にあなたのことを知っておきたい。差し支えなかったらあなたの素性をお聞かせ願えますか?」
「ミスター岩元だけに話すね。オフレコ、約束ね。本当は人前に姿を現しちゃいけないことになっているね。破ったから死のカウントダウンがはじまる。だから、もう、はじまったはずね。百万年前の氷期で巨人類は絶滅したね。私共兄弟六名だけ生き残ったね。なんで六名だけ残れたのかは私も分からないね。最期、薪をくべ火を囲み、兄弟は別れを惜しみ泣いたね。これが灰になれば凍死すること、皆が承知していたね。『きっとまたあえるよ…』、『そうだよ』、『必ず』、『絶対に』、『当り前だよ』、長男から五男までが順番通りに発言したね。『その時はみんなで海水浴したいね』と、私がいって六人みんなで笑ったね。火が消えかかると、私をなかに押し入れ、兄たちが背中合わせで円陣をつくったね。涙が溢れたね。頬を伝う涙もすぐ凍ったね。その日は上弦の月だったね。沈黙の時が流れたね。その時だったね。はじめは幻想かと思ったね。六名の前に阿弥陀如来が現れたね。『これから言う約束を守りなさい。人類の前に現れず、懺悔滅罪のための沈黙行をして改心するのです。巨人類の罪と咎をあなたたち六人が背負って償いなさい。百万年かけて……。よろしいか。ほんじゃ目閉じなさい。繋いでいる手は離して。ほいな~』目を開けたらそこは、今の呼び名で、十和田八幡平国立公園だったね。兄たちも別のどこかで生きているはずね。百万年前のあの日、結界になったそこで私は懺悔の日々を過してきたね。だから、登山者には辿りつけないね、結界だから。結界のなかにずっといたせいで、不思議なことが幾つかできるようになったね。身体縮小、瞬間移動、テレパシー。だから、『不思議発掘』というミスター岩本が出演した番組を感じ観れた訳ね。それで、巨人語使えるミスター岩元のこと知っているのね……。あれ、ヘリコプターが近づいて来るね。まあ、いいか。改心した善巨人ね、私は。でも、このことはオフレコね。海千山千の親玉たちは、なめてかかるね。だから、得体の知れない怖い巨人を演じている訳ね」
巨人は俺が風で吹き飛ばされないように右手で風よけをつくった。
そして、ヘリコプターにフーッと息をかけた。ヘリコプターは百m程横滑りした。
ヘリコプターは、そこから二百m程退避し、滞空飛行を続けている。
「ミスター岩元、相談ね。巨人のメッセージの中継役になってね。でもこれは命がけの仕事ね。だから、家族の了承も必要だろうね。無理なら、無視していいね。やってくれるなら、私からのビデオレター第一便を受信してね。今度の七月七日七時に念波で送るからね。住所はどこ?」
「埼玉県の大宮です」
「近くに目印は?」
「氷川神社です」
「テレビチャンネルを九に合わせて、コンセントは抜かないで、スイッチはオフにしておいてね。それと、受信用アンテナは手作りしてね。鉄製のおたまを三本と鉄製の針金を買うね。全部、鉄製ね。経費は、基金設立後に精算してね。プラスチック製の柄の部分はトンカチで叩き割って除き、針金で括ってね。三つ葉のクローバー形ね。巻いた針金の残りを切らずにテレビ裏側のアンテナ差込口に挿入してね。それで出来上がりね」と、巨人。
俺はメモ帳に記入せず暗記した。
これもオフレコ案件だろうと気をきかせたのだ。
「尺十二分のビデオメッセージ、送信するからビデオを撮ってね。念のために、予備二本、ダビングして隠し持っておいてね。玉葱あたまの司会者が出るトーク番組に、一億円で売り込んでね。私からのメッセージ独占放送できるから、テレビ局にとって割が合う値段ね。その一億円で基金を設立し、ミスター岩元が理事長に就任してね。基金の名称は『巨人の奉仕会』にしてね。練りに練った名前だからね。あの番組の局ならビデオレターの内容を中立に扱ってくれる筈ね。トーク番組だからミスター岩元が出演することになるはずね。それとは別だけど、親玉たちはミスター岩元を懐柔しようと企むだろうから気をつけてね。裏切っちゃダメね。私、信じるね、ミスター岩元のことを……。ビデオメッセージはミスター岩元だけに送り続けるからね」
【64.夢分析「巨人の奉仕会」その参】
「拠点は何処に?」
「ミスター岩元の地元大宮がいいね。交通の便もいいね」と、巨人。
「もしかして対面はこの一度切りですか?」
「仕上げで姿を現わすね。そのときまた会えるね」と微笑んだ。
巨人が左手をゆっくりと下降させた。
地上に着くと俺は気を失った。
救急搬送された。
尋問を回避させるため、巨人が俺に催眠をかけた、と俺にはわかった。
目が覚めるた。
取調室に連れていかれた。
巨人との会話内容の開示を、あの男から迫られた。
体調不良を理由にして、延期を願い出た。
男は、家に待機しておくように、と俺に念押し、タクシーチケットを俺に渡した。
公園側の部屋が俺の寝室だ。
巨人ネタで花を咲かせる公園ママの声で目が覚めた。
台所から道子さんの鼻歌が聞こえる。
俺は大学進学塾の英語講師。
まあまあ、人気がある。
まあまあの収入もある。
道子さんとは、俺が留学から帰国して付き合いはじめた。
卒業してすぐ結婚した。
前回の恐竜ブームでテレビ出演し有名になり、大手塾からスカウトされた。
思い切って、マンションを買って、ここに引っ越した。
ここは、街と自然が混在する、さいたま市見沼区。
窓を少し開ける。
公園ママの子どもたちが、砂場の横にあるゴリラ像の掌に人形を乗せ、昨日の出来事で遊んでいる。
あの人形に見立てた、本物のヒーローがここにいるよ。
俺の救済者妄想は、たがが外れ、超肥大していく。
久しぶりに味わう高揚感だ。
俺を呼ぶ声がダイニングの方から聞こえる。
そう、道子さんが起きた俺に気づいたのだ。
俺を見るその目がいつもと違う。
勿論、いい意味で違う。
「巨人顕わる」と、書かれた新聞トップ見出しが目に入る。
胸の高さを雲が覆う巨人の腹から下が映った写真を「九十九里浜に胡坐の巨人」と説明している。
その写真の横に、クレーンから巨人の手に乗り移る俺の写真が載る。
横顔だったが、映りが良い。
道子さんが幸せそうに、俺を見ている。
「やけに機嫌いいね」と俺がいう。
「命がけの仕事を終えて帰還した英雄の前にいるんだもん……」と、照れている。
「英雄か……、嬉しいね」
「でもね、心配なの……。複雑な心境なの……」と、、赤くなった目でいう。
「泣くなよ、大丈夫だから」と、俺は道子さんを引き寄せ、強く抱きしめた。
ここで、リョウちゃんが、「機内食だよ」と俺を起こした訳だ。
ステーキを頬張りながら、夢を分析した。
「機内誌にあったガリバー旅行記の挿絵を観ながらうつらうつらし、夢のなかに入った。あの有名な彼から連想した電気自動車、久し振りに使った英会話、村松さんと車で氷川神社参拝帰りによった大宮第二見沼公園脇のバーガーショップ、その他自覚外の複数の『記憶の部屋』が『記憶の組合せ』になりこのストーリーを生んだことになる」と俺は考えつつ、もう一切れのヒレ肉を口に運ぶ。
「トシちゃん、日本着いてからの予定は?」と、リョウちゃんが訊く。
「納骨堂で両親に会って帰る感じかな。新幹線に間に合わなければ高速バスで」
「うちに泊まっていきなよ」と、リョウちゃんが誘う。
俺は、リョウちゃんの方を向き「お母様への挨拶を何かのついでできないから」
「母さんは、ついででも喜ぶと思うけどな」と、リョウちゃんがすねた。
「そうはいかないよ。俺の恩人の行為を賛同し陰で支えてくれた人だから」
「深いな、トシちゃん。わかったよ」と、リョウちゃんが潔くいった。
通路を挟んだ席で中山さんと河野さんが熱く語り合っている姿を見て、俺も熱く突き進みたくなった。
中山さんが俺を誘った理由が分かった。
二三舟の賄いどきの話も、著名人の相談に同席させたのも、旅に出る俺に刺激たっぷりの知人を紹介したのも、俺の心の灯に薪をくべるためだったと……。
愛だな。
こっそりと薪をくべる愛。
中山さん愛し方を、俺は理解できた。
「記憶の倉庫」理論を成文化し世に提出する。
俺の愛の形はこれ。
聖書や法華経、そしてコーランは、書かれて数千年経った今でも、誰かの心を鼓舞し、支え、修める愛だ。
愛と呼ばれる理論を仕上げよう、と俺は決めた。
飛行機の窓の外に、像の形をした雲。
生きている白像のようだ。
俺は、それを撮った。
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