第2話 ようこそ、魔法博物館へ
シグルズの案内でレンガ造りの街を歩くこと十数分。
坂道を上った先にある、真っ白な壁のお屋敷が魔法博物館だった。
門をくぐり、綺麗に並ぶ植物たちを横目に進んでいく。
緑と白壁の調和が心地良く、鉢植えではハーブ類がそよ風に吹かれながら揺れている。
元は普通の住居を博物館用に改造したという。確かに、見た目は上流階級の邸宅のようだ。
「ようこそ、魔法博物館へ」
シグルズがドアを開けばリンと鈴の音が鳴る。
一歩足を踏み入れれば、深緑の壁と、二階へ続く大きな階段が真っ先に目に入った。
踊り場の壁には大きな額縁が飾られているが、中の絵は真っ白でまだ描かれていない。
「お邪魔します」
しんと静まった室内を、ゆっくりと歩いてみる。
受付のカウンターには人の姿はなく、左右の壁にはそれぞれの展示室に繋がる廊下が続いていた。
開館準備中の博物館ということだが、それよりもオルテンシアはこの静けさが気になった。
室内の灯りは最初から付いていたが、働いている職員らしき姿はどこにもない。
「えっと、他に誰もいないんですか?」
「いや、今日はたしかイヴェッタも来てるはずなんだが……」
シグルズがそう言った時、階段からロングヘアの女性が歩いてくる。
上品なイブニングドレスをまとい、ハイヒールの音を響かせているが、その手には大きな箒があった。
「おかえりなさい。早かったわね、もう戻ってくるなんて」
「紹介しよう。俺が見つけた、新しい候補だ」
彼女もここの職員なのだろうか。慌てて姿勢を正し、礼をする。
「オルテンシア・リオーネです」
「イヴェッタよ。そうかしこまらなくてもいいわ、私は学芸員じゃなくてただの庭師だから」
そう言われて首を傾げる。
(庭師……?)
優美な容姿に不釣り合いな箒を持って、ドレスのまま庭掃除でもするというのか。
もしや庭師というのは、何かの隠語なのかとオルテンシアは考え込みそうになる。
少なくとも、オルテンシアの実家の庭師とはかけ離れていた。
「エドアルドはどこへ?」
「入れ違いね。出ていったばっかりだわ。すぐ戻ってきそうだけれど」
「ちょうどいい。奴が戻ってこないうちに彼女を案内する。おいで、まずは魔石標本から見よう」
ぼーっとしていればシグルズに声をかけられ、後を着いていく。
また新しい人物の名前が出てきたが、今のところイヴェッタ以外には誰もいないようだ。
右の部屋から順路に従って進んでいけば、大小さまざまな鉱物がいくつもガラスケースに並べられている。
「わぁっ……! こんなにたくさんあるなんて、すごいです!」
「気に入ってもらえたようで何よりだ。時間はあるからゆっくり鑑賞するといい」
魔石とは魔力が込められた特殊な鉱物で、クラヴィス国内だけでなく多くの地域からも採取される。
地中や自然物の中にある魔力の作用により生み出されるが、近年では研究が進み人工的に開発もされている。見た目は宝石と違わないため、アクセサリーとしての需要も高いからだ。
展示ケースにあるのはカット加工されたものや、原石そのままのものなど、魔石の美しさを最も際立たせる形にされている。
透き通るような紅玉に、光の反射できらきらと輝く霜水晶。四角いディスプレイケースには30cm以上の塊のままの原石が飾られていた。
「美しい……」
大きな輝石は珍しい赤紫色だった。ルゥス王国産だろうか。北方地域の雪深い土地の鉱山で稀に採掘されると書籍で見たことがあった。
じっと見惚れていると、横でシグルズがふっと笑った。
「ほう。それが気に入ったのか。お目が高い」
結晶の色がシグルズの瞳の色と同じだと気付く。
勝手に意識しているようで、一人で恥ずかしくなって視線を逸らした。
「シグルズさんはお詳しいのですか?」
「まあそれなりには。俺は修復士だから、一番好きなのは魔道具かな」
「私も好きです。国や時代によって、色んなものがあって面白いですよね」
オルテンシアがそう言うと、シグルズは大きく頷いてくれる。
「ああ。個性的なものも、伝統的なものも面白い。俺はこの国出身ではないから、魔法弦楽器や実験用具の類を初め見た時は驚かされたよ。やはり、魔法使いの集まる国は質が違う」
「魔法弦楽器はびっくりしますよね。私も演奏会で初めて見てすぐに好きになりました。懐かしいです」
「隣の展示室にもいくつか置いてあるんだ。まだ修復中のものもあるけれど、質は悪くない」
魔道具のことを語るシグルズの顔は一段と輝いていて、彼が本心からこの博物館を楽しんでいることがよく分かる。
修復士という仕事は、その名の通り魔道具や魔法書の修復を専門とする職業で、オルテンシアも何度か将来は携わりたいと考えていた。
「ここで働いてくれれば、毎日眺め放題だ。どうかな、雇われる気にはなっただろうか」
冗談めかすように言うシグルズに、気が早いと笑う。
「まだ来たばかりですよ。全部見てから考えたいんです。次の展示室を案内していただいても?」
「もちろん。どうぞこちらへ」
シグルズの案内で次々と展示室を巡る。
国立の施設と比べると規模は小さくなってしまうが、スペースを存分に活用し展示も充実している。
まだ準備中で細かな解説が載せられていなくても、そばでシグルズが解説してくれるのもあって十分満足だった。
「――――――ここで最後だ」
ぐるりと一周して、先程のエントランスに戻って来た。
「あら、もういいの?」
イヴェッタはカウンターで花瓶の手入れをしていた。
イヴェッタの手のひらの上で、風もないのに花弁がくるくると回転している。おまけに花はいつの間にか新しいものに入れ替わっていた。
(魔法で植物の手入れをする、ということね)
植物魔法はオルテンシアもいくつか習ったことがある。それらを流用して庭の手入れをするのだろうと納得した。
花弁をまとったイヴェッタは、彼女の華やかな雰囲気によく似合っていた。
「一通り見せて頂きましたので。どれも素敵でした」
「来た時よりも明るい顔ね。楽しかったのなら何よりだわ」
にこりとオルテンシアに笑いかけると、シグルズを見る。
「それで、最後の一つはどうするの?」
「どうもこうも。見てもらうほかはあるまい」
オルテンシアには二人の会話の意図が分からず、黙って聞く。
「お嬢さん、こちらへ」
シグルズについていき、階段を上る。
(最後の一つは、これのことだったのね……)
視線の先にあるのは、額縁の中の真っ白な絵だ。
作業途中なのかとおもっていたが、どうもそういうことではないらしい。
「この絵も展示品なんですか?」
「ああ。ある種の魔道具とでも説明すべきかな。絵画自らが描かれるものを選ぶんだ」
「選ぶ? 物に自我があると?」
奇妙な表現に思わず聞き返す。
「あら、意外と世間知らずなの。かわいいわね」
いつの間にか、カウンターから出てきたイヴェッタに笑われた。
「あるわよ。この子たちにだって、話せなくても手足がなくとも、感情はあるわ」
なんだかよく分からない言い方だ。自分の中でどうにか解釈してみる。
「つまり、自立思考型の魔道具ということですか? そういった研究があるとは知らず、すみません」
魔道具が意志を持って相手を選ぶなんて奇妙な話だが、予め時間や規則を設定しておきそれに基づいて行動系統が組み込まれていると考えれば納得できるかもしれない。
「少々堅苦しいがそう解釈してくれて構わない。色々と手は打ってみたんだが、白紙のままで大した反応も示さないんだ」
「壊れているわけではないのですよね?」
「ああ。何度も確認したが、これで正常だ。やはり使用者に特別な条件があるようで、俺やイヴェッタではどうにもならなかった」
「それは困りましたね。これほど大きい絵画なら、きっと見栄えも良いでしょうに」
「そう思うだろう。そこで、君に試して欲しいことがあるんだ」
「私に出来る事なら……って、まさか」
頷きかけて、オルテンシアは固まった。
話の流れからしてやることなんて一つしかない。
「ご明察。この絵画を、君の手で描いてはくれないだろうか」
「む、無理ですよ! 大体、やり方だって分からないですし……」
オルテンシアは勢いよく首を横に振る。
(魔法だって、あの時以外もう何年も使ってないのに……)
もしあの時、子どもが窓から落ちてこなければ魔法なんて二度と使うつもりはなかった。
「難しく考えなくていい。魔力を流し込むだけで反応するはずだ」
「大丈夫よ。失敗しても誰も怒ったりしないわ。気負わずやってみて」
励ますように二人に言われる。
金の額縁は繊細に飾りが彫られ、優雅な風景画か神秘的な宗教画のために誂えられたかのよう。
だが額の中は真っ白で、大海原も天界の図も何一つ描かれていない。
「他でもない君に描いて欲しいんだ。この博物館に相応しいものを、きっと君なら描くことができる」
「根拠もないのに、そんな」
「あるさ。この俺がそう予感するのなら、必ず現実になる」
シグルズは堂々と言い切った。
なんて自信なのだ。
だが、どうしてだろう。不思議なことにシグルズにそう言われるのは悪い気がしなかった。
「わ、わかりました……」
結局、シグルズに押し切られて頷いてしまった。
一歩前へ出て絵画に向き合う。
今一度、その姿を改めて観察すると、あることに気づいた。
「もしかしてこの額縁、ノクトレアのものですか?」
「おや、よく気づいたな。ああ、そうか。君はノクトレアにいたんだった」
オルテンシアは頷く。
「この紋様、かなり昔の王家のものですよね。五世紀ぐらい前でしたっけ」
蔦薔薇に王冠の紋章は以前の王朝のもので、当時は美術品にもよく用いられていた。
古い宮殿や教会でも象徴としてデザインに取り入れられていたが、オルテンシアが最も目にしたのは通勤途中だ。
「実は、以前の勤め先の近隣に処刑場の跡地があったんです。十四世紀にある王妃が魔女として火刑に処された場所だそうで、墓碑にこの紋章が彫られていたので何度も見ました」
「『白薔薇妃魔女事件』のことか。魔法使いの国が生まれるきっかけになった時代の事件だな」
シグルズは知っていたようだが、イヴェッタは首を傾げている。
「それってなあに? 私にも教えて欲しいわ」
「おやおや、世間知らずのお嬢さんがもう一人いたようだ。あまり楽しい話ではないが、それでも聞きたいかね」
「まあ、いじわるな子ね。もったいぶってないで、教えてちょうだい」
シグルズがからかうと、イヴェッタは頬を膨らませて怒る。口調がおっとりしているせいで、怒る姿に迫力はない。
「魔女狩りは知っているわよ。人々が神秘の力を信じなくなって、世界中で魔法使いが危機にさらされた時代でしょう」
「その通り。中でもノクトレアは魔女狩りが激しく、守護の魔法を使う妃を冤罪で処刑したんだ。白薔薇が咲き誇る宮殿で、王妃自身も美しい白髪であったことから白薔薇妃と呼ばれていた。それで、白薔薇妃魔女事件なんて名前が付けられたわけだ」
水害に悩まされていた国民を守るべく、遠く離れた国から迎え入れた魔法使いの姫君。最初は国を守るため尽力していたが、次第に人心を操る術を使うなどと噂されるようになり心を病んでしまったと言われている。
それでも王妃は人々のために力を使い続けたが、無理に魔法を使い続けた反動で魔力を失い、守護の力を失った王妃は国を欺いた魔女として処刑された。
処刑後、ひと月もの間国中で激しい雨が降り続き、王妃の呪いだと考えた王は処刑場に碑を建て弔い続けたという。
「なんて悲しい話なの……」
話を聞いたイヴェッタは、すっかり落ち込んでしまったようだった。
簡単な説明で、実の所はもっと惨い内容がぎっしり詰まっているのだが、長い王家の歴史ともなれば血腥い話の一つや二つあるものだ。
「ちなみにこの額縁は当時の王妃の寝室に飾られていたとされるものだ」
「ほ、本物ですか?」
「さあ。信じるか信じないかはあなた次第、ってものだ」
「博物館としてそれはどうなんですか!?」
しんみりしていたのもすっかり忘れ、オルテンシアは目を見開く。
「仕入れ先がそう言っていただけで、信憑性はないから来館者には言わないさ。展示品として購入する予定もなかったものだし」
「エドアルドが買ってきたのよ。飾りとして目立つからいいんじゃないかって」
「人に金遣いがどうのこうのと言っておきながら自分はこれだからな。アイツこそ、わざわざ眉唾物ばっかり選んでくるのも大概にして欲しいところだ」
またしてもその名が出てきた。
シグルズの表情を見るに一癖ありそうな人物らしい。
「今はエドアルドはどうでもいい。それより、絵の方を何とかしよう。不安なら、俺が隣で支えようか」
「あ、ありがとうございます……」
シグルズがオルテンシアの隣に並び立ち、二人でもう一度白い絵画を眺める。
そろそろ慣れてきたとはいえ、こんなに綺麗な人が隣にいる方が逆に緊張してしまいそうだった。
(それにしても、白薔薇妃……ここに来てその名をまた聞くとは)
元職場でも、火刑に処された王妃の悲鳴が夜な夜な聞こえて来るだとか、どこからともなく焦げ臭い匂いがするだとかの噂はあった。
時代が移り変わろうと、霊的なオカルト話は人の好奇心を引き付けやすい。
もし本当に王妃の霊が残っているのなら、本物の魔女……魔法使いであるオルテンシアを呼び寄せたのかと考えなかったこともない。
(絵画自らが描かれるものを選ぶ……要は、あなたが描きたいものを当てればいいってことね)
仮にこの額縁が白薔薇妃のもので間違いないのだとしたら、何を映し出して欲しいと思うだろう。
妃の怨み。処刑への恐怖。人間の愚かさ、悪辣さ。
悲劇の人生を送った、妃の嘆き。
「シクト・ミラ・イルーシオ――――」
おそらくそれは、どれも違う。オルテンシアはそう考えた。
手をかざし、魔力を集める。
指先が熱くなって、やがてオルテンシアの魔力が青い光となって溢れだす。
「熱い……!」
これまで感じたことの無いような温度に、思わず中断してしまいそうになる。
だがそこに、突然冷気が流れ込み熱さが緩和された。
「大丈夫、そのまま続けて」
シグルズの魔法だった。シグルズの手がオルテンシアの手に添えられ、優しく包み込まれる。
オルテンシアに魔法をかけて、言葉通り支えてくれていた。
光は徐々に絵画へと移り、それが収まるとようやくオルテンシアは手を離す。
「できた……」
完成したのは炎も処刑台も白薔薇もない、青い海を描いた絵だった。
シグルズの手が離れ、ひんやりした温度だけが残される。
「まあ、綺麗!」
歓声を上げるイヴェッタに、恐る恐る振り向いた。
「あの、本当にこれで大丈夫です? 白薔薇妃、全然関係なさそうなんですけれど……」
白薔薇妃に関するものを期待して購入したはずなのに、出てきたものは無関係の絵だ。
絵を出せたのは良かったが、期待した内容にそぐわない気がしてならない。
エドアルドなる人物がこれを見て果たして納得してくれるかどうか。
「別にそれは構わないが……この絵の理由は気になるな。君はこの魔道具を前にして、何を思い浮かべた?」
「えっと、魔道具に自我があるのなら、所有者のことを思うものだと大半の人は思いますよね。ですが私はそうは思えなくて。ただの所有者に対して、いちいち愛情なんか覚える理由が思い浮かばないんです」
白薔薇妃の所有物であったからといって、妃に必ず結びつくとはオルテンシアは思えなかった。
「一生一緒にいるわけじゃないですし、大切にしてもらっていたとも限りません。だから、白薔薇妃と関係の無いものを描きたかったんじゃないのかなって思ったんです」
「なるほど、そういう考えか……」
シグルズはそう頷くと何やら考え込む。
「それと、さっきはありがとうございました」
「構わない。俺こそ、断りもなく触れてしまってすまなかったな」
「そんなこと、いいんですよ。シグルズさんが助けてくれたおかげですから」
「……君がそう言ってくれるのなら」
気遣いは不要だと示すように笑って見せれば、シグルズは納得してくれたようだ。
何となく、思うところはありそうな顔だったが。
「おやおや、いつの間に仲良くなったんです」
突然割って入ってきた声に思考が遮られる。
「あら、エドアルド。いいところに」
黒いコートを羽織った金髪の男性が、こちらへ向かってくる。
いつ現れたのか全く気が付かなかった。
「こんにちは、レディ。僕はエドアルド。もう既に彼らから色々と聞いているでしょう。主に経営管理を担当しています。どうぞよろしく」
恭しく礼をしたのは、先程から何度も話題に出ていた人物だった。
「オルテンシア・リオーネと申します。突然お邪魔させて頂き、どうもありがとうございます」
こちらも挨拶を返すが、エドアルドはオルテンシアの素性を聞くでもなく魔道具の話題を続ける。
「確かにこの絵画は白薔薇宮ではないもの、もっと言えばノクトレアには関連のないものを描きたがっていました。白薔薇妃は島国出身ですから、彼女の故郷を描いたのでしょう」
「ではこれは、本当に白薔薇妃の所有物であると」
「そう考えていいでしょうね。あなたの考えと違ったところは、魔道具は妃と呼ばれたその人の本当の姿を描きたかったというところです。人も物も、意外と簡単に愛を覚えるんですよ」
エドアルドは優雅に微笑んでいる。
オルテンシアは、自身の性格の歪んだところを見られたような気がした。
(愛……)
慣れない響きの言葉を、心の中で繰り返す。
エドアルドの口調は、ロマンチストというよりかは、ごく当たり前のなんでもないことを言うかのようだった。
「良かったな。彼女のおかげで、お前の浪費が無駄にならずに済んだ」
「全くその通りですね。いやはやなんともありがたいお話です。修復士を雇ったことも浪費にならずにすみましたし」
「悪かったな、俺じゃ直せなくて」
シグルズとエドアルドは、軽口を叩き合うところからしてやはり仲の良い関係なのだろう。
少しだけ荒くなった口調は、シグルズ本来のものなのか。
エドアルドの隣にいる彼の表情は、オルテンシアに向ける整ったものとは違うように見えた。
「なんにせよ、この魔道具が目覚めてくれて良かったです。それで、雇用契約について話しても?」
「あ、はい。……あれ、私働くなんて一言も言ってませんけど」
うっかり流されるところだったと、首を横に振る。
「働かないんですか? 今なら僕の所有している物件に空きがあるので家賃補助も付けますけど」
「それは……! いやでも、まだ戻ってきたばかりで、他の求人も見てませんし」
ごにょごにょとあれこれ断る理由を並べてみると、エドアルドが福利厚生や給金やらを追加で出してくるものだから、まるで隙がない。
「他の求人と比べてなかなか悪くない条件だと思いますよ。それとも、何か懸念点でも?」
「そういうわけじゃないんですけど、私に務まるかが不安で……」
「そんなの、やってみてから考えればいいんです。合わなかったら転職先ぐらいいくらでも紹介しますから」
ニコニコと迫ってくるが、その笑顔はシグルズとはまた違った胡散臭さを漂わせていて、かえって信用しずらい。
「彼女が困ってるだろ。今すぐ決めなきゃならないわけじゃないんだ。今日のところは検討してもらうぐらいで十分だ」
「魔法博物館の館長なんて、魔法使いの再就職先としては、なかなか悪くないと思いますけどねぇ」
「え?」
学芸員として雇いたいと聞いていたはずが、エドアルドは確かに館長と言った。
「そうですよ、館長です。だって、この博物館には館長がいないので、必然的にその役はあなたにやってもらうことになるでしょうね」
「え」
当然のことのように言われて、思わず硬直してしまう。
「少し待て。急に話を進めすぎだ」
シグルズが割り込んでくれて、ようやくこわばっていた肩の力が抜けた。
「す、すみません。優柔不断で」
「謝ることは無いさ。ただ俺は、お嬢さんのような素敵な人と一緒に働けたら嬉しいと思っているよ」
(わ……)
なんて口説き文句だ。そんな切なげな顔で言われてしまえば、とても断れない。
自分の顔の良さが分かっていて、尚且つオルテンシアがそれにすっかり釣られてしまっていることも分かっている。
(あざとい。いや、人たらしかも)
少しの間、色々と考え込む。
でもきっとこの先、どんな職場を見つけたところでシグルズのことが頭から離れない。そんな確信があった。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何かな」
「どうして、私なんですか?」
偶然駅前で出会ったから。履歴書の内容が良さそうだったから。
それだけなら、もっといい人材が見つけられるはずだ。
何せここは魔法使いの集まる国。卒業を控える学院の生徒たちにだって、声をかければすぐ集まるだろう。
オルテンシアは自分自身を、魔法使いとしては『価値がない』と見なしている。
これまでの消極的な返答の連続で、彼らもオルテンシアの自信のなさは分かっているだろう。
自分自身の代わりは世界にいくらでもいて、もっと言えば、たぶんその全てが上位互換だと思っている。
それでも、もし、本当にシグルズが自分を必要としてくれるのだったら――――――。
「君だと思ったから。それ以外の理由がいるかな?」
シグルズの答えは実に簡潔なものだった。
さては哲学的なことでも問われているのかと思ったが、どうもそういう訳ではなさそうだった。
「僕は自分の子分をそれなりに信用してるんで。シグルズが良いと言うのならそうなんでしょう。異論はありませんよ」
エドアルドもにこやかに同意している。
「子分というのは否定させてもらうが、俺たちは特別な魔法使いを求めているわけじゃない。この博物館を愛してくれる人を求めているんだ」
「私が……」
「だって君、あんなに楽しそうな顔をしていたじゃないか」
その言葉ではっと気がつく。
展示室を巡っている間、オルテンシアはずっと笑顔だった。
ため息ばかりで重かった気分も忘れて、難しいことも考えず、子どもの頃のように素直に楽しんでいた。
シグルズはもう、オルテンシア自身が気付いていなかった感情をとっくに見つけていたのだ。
「……分かりました。その代わり後から、思ってたのと違った、なんて言わないでくださいね」
オルテンシアの言葉に、シグルズの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、お嬢さん!」
もし彼が、心から自分のことを望んでくれているのなら。
たとえ成り行きだとしても、身を任せてみたくなった。
「決まりですね」
「これからよろしくね、館長さん!」
こうして、オルテンシアの転職は一日足らずで完了した。
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