天上の満月
これから一仕事だ。洗面台の鏡と向き合って口紅を塗った。上唇で下唇を擦って口紅を馴染ませる。唇の輪郭から滲んだ赤を指先で拭うと準備は整った。口紅を化粧ポーチに仕舞うと、ベッドではなく真横の浴室に入った。僕の弱点は声の低さである。髪の毛を含めて姿形は女だが、声だけは男性の平均周波数なのだ。あと一年早くホルモン治療を始めれば、僕の声帯は太く伸びず少年の高い声を維持できただろう。喉仏を意識的に上げ、マイクの確認のように声を出す。地声と裏声の狭間の声が浴室に響く。その声は性別不詳の中性的な声である。完璧な女声には聞こえないが、男の声にも聞こえない。声の入念な調律を終えると浴室を出た。濡れた足裏をマットで拭くと、シャネルの香水を一吹きし、ベッドへ向かった。
バスローブ姿の高橋が大股を開いてソファに座っている。背の低いテーブルの灰皿から煙草の煙が立ち昇っている。高橋の剃刀で髪の毛を剃りあげた頭は満月だ。寺の住職のように青々としている。その青さから動物的な香りがする。高橋は壁のテレビを見ながら、赤黒く日焼けした手で赤ワインを飲む。程よく酔っているのか、浅黒い肌は仄かに紅潮している。酔っていないときは明らかに暴力団風の風貌だが、今は優しい中年の顔に戻っている。その姿から暴力の気配は感じられない。この男が元暴力団員とは到底思えない。
高橋のグラスを握る右手を見つめる。小指は第二関節から先がない。不自然なほど水平に切断されている。しかし先端を注視すると、骨の丸みが皮膚にういている。
高橋は数年前に違法薬物の売買で逮捕され、今年に出所した人間だ。現在は反社会組織から足を洗っているが、本来は関わるべきではない人間なのは確かだ。しかし僕の大勢いる「友達」のなかで最も親しいから関係を継続している。高橋によれば、僕は昔の愛人に似ているらしい。つまり僕は元愛人の代わりである。僕は誇らしかった。女として産まれた人間の容姿に僕は肉薄しているのだ。
僕は黒いワンピースの裾を揺らしながら、高橋の隣に座った。高橋は野球中継を見ながら太い指で僕の頭を撫でる。その風貌に似合わぬ優しい指遣いは好ましい。僕に対する純粋な好意が伝わってくる。これから高橋と行うことを行うのだ。そう思うと密かに猛った。僕は高橋の背中に手を添えて肩を寄せた。その筋肉質で無骨な肉体は死んだ父を思わせる。思い出したくないが、否応なしに父の顔が脳裏をかすめる。
高橋はテーブルのワイングラスを勧めた。赤黒いワインが蛍光灯に照らされている。僕はワインを注ぐ様子を目撃していない。だから僕は飲まなかった。高橋のことは好きだが、信用はしない。違法薬物に関係していた男から勧められる酒など口にしないのが常識だ。違法薬物が混入されている可能性がある。高橋は警戒心の強い僕に笑うと煙草を喫い、それを灰皿に押し付けて火を消した。ワインを一気飲みし、僕の肩を抱いた。唇と唇が重なると赤ワインの酸味を感じた。僕は高橋の煙草臭い息を意識しながら舌を挿れた。高橋も舌を絡めてきた。僕は舌の交歓が好きだ。薄いワンピースの下の充血が如実に物語っている。充血した僕が裾を押し上げている。高橋の手が僕の乳房を揉む。ホルモン剤の影響で硬く張った乳腺が悲鳴をあげる。僕は苦痛に顔を歪めながらも無理に高い声を作った。
「朔夜、おめえ、綺麗になったよな」と高橋は笑った。「前から綺麗だったけどよ」
「そんなお世辞は要りませんよ」と僕は笑った。「しなくて、いいんですか」
高橋は笑った。いい
堅気ではない男が、男を咥えている。敬虔に規則正しく頭を揺らしている。その不可思議な情景を漠然と眺めながら、高橋の滑稽なほどの情熱に苦笑を洩らした。
正直な気持ちを吐露すれば、その高橋を眺めると快不快が綯い交ぜになる。僕は男の肉体に怨嗟を吐き、十五歳から個人輸入のホルモン剤を飲みはじめ、女のような肉体を得た。しかし高橋が男体の象徴を肯定するのだ。憎悪の象徴は、高橋にとって性慾の対象なのである。男を肯定された僕は拗ねた気持ちになり、高橋から視線を背けた。舌の感触だけを感じると、それが男なのか女なのか区別がつかなくなった。
男は男を心得ている。高橋は上手い。僕と出逢う前から男の相手をしていた可能性さえ考える。僕は演技抜きの切迫を訴えると、そのまま身を委ねた。長年のホルモン剤の影響で、男としての機能は殆ど喪失している。前立腺が萎縮しているのだ。聳え立つが、快感の果てに迸るものはない。じわりと鈍い快感が込み上げるだけだ。それでも僕はわざとらしい女声を発した。前歯で人差し指の第二関節を噛んだ。高橋に媚びの詰まった眼差しを送った。素人だが、その程度の心得はある。男の自尊心を優しく撫でるのは得意だ。体型は女でも性自認は男だから、男の気持ちは理解できる。
わざとらしく女々しく虚脱していると、高橋は僕の両足を広げた。指で生温いジェルを塗ると、僕の体内に侵入してきた。筋肉は抵抗を示さなかった。むしろ高橋を迎え入れていた。腸壁を抉られる感覚に奥歯を噛み締め、譫語に似た声を洩らす。朔夜と高橋が上擦った声で僕の名前を呼ぶ。朔夜朔夜と連呼されると、僕は高橋の飼い犬になった気分に陥った。しかし、その征服感に僕の太腿の筋肉が痙攣した。
「高橋さん」と僕は女声で言った。「犯してください」
犯してくださいではない。既に犯されているのだ。苦笑を秘めた僕の声に高橋は呻き声をあげた。高橋の息が切れる。呼吸が荒くなる。高橋が大きな手で僕の太腿を押さえる。高橋が情けない声で切迫を訴えた。僕も眉間に皺を寄せ、高橋の血走った瞳を見つめ、首を振った。僕はアルカリ性の体液を体内に出されるのは嫌いだ。腸内に出されると腹痛を引き起こすのだ。経験上、確実に下痢になる。
貴方のことは好きなの、だけど。そう女声で糞みたいな蘊蓄を垂れてやると、高橋はうんうんと頷いた。僕は感謝の笑顔を泛かべて高橋の背中に両手を添えた。しかし僕の首振りなど場末の風俗嬢の足元に及ばない。素人の三文芝居である。しかし真に受けた高橋は爆ぜる直前に抜き、僕の下腹部に迸った。僕はそれと付着しないように片手でワンピースの裾を捲りあげた。下腹部に迸る生暖かい高橋を眺め、秘めやかに微笑む。高橋の瞳から情熱の色が月蝕のように失われるのを僕は逃さなかった。高橋は目を背けた。僕は高橋の現実から醒めた右目を見つめ、胸の裡で笑った。枕元のティッシュで鼠蹊部に流れる体液を拭った。依然と鼠蹊部から立ち昇る生臭さに顔を顰め、丸めたティッシュをベッド横のゴミ箱に入れた。
高橋は僕に覆い被さると頭を撫でてきた。僕は高橋の大きな体温を意識しながら目を背けた。その慰撫は好ましい。性行為では得られない安堵がある。しかし高橋に触れられるたびに昔の忌々しい記憶が蘇るのも事実である。幼い僕を殴った父親の手と高橋の手が重なって思えるのだ。その途端に性的な熱狂など消え失せ、忘れ難い記憶が絵巻物のように捲られる。忘却しようと足掻いた記憶が蘇る。酒を呑むたびに僕を殴った手、不機嫌になれば理不尽な張り手を繰り出した手、玄関に立ち尽くす僕にバケツの水を浴びせた手。
父親の愛情不足こそ、僕の心の暗黒だ。欠落した父性が僕の男遊びに拍車をかける。肉体的な嫌悪感はそれと無関係だと思うが、少なくとも男遊びの原因はそれだと自覚がある。歳上の男が恋しいのだ。心が、父親を求めているのだ。理想の父親像と高橋が月蝕のように精緻に重なる。しかし同時に仮初の父性を裏切りたい衝動に駆られる。所詮は遊びに過ぎない相手に、切実な父性を見出す自分に嫌気が差すからだ。
己の矛盾は自覚している。男の肉体を怨みながら、その欲望は男でしか成就されない。僕は男を憎み、男に救済される存在である。性的指向的に女も抱けるが、やはり心の暁闇を晴らせるのは男だけだ。男を咥え、男に抱かれたとき、僕の暁闇は一時的に朝焼けする。しかし朝焼けは束の間に過ぎず、夕闇が即座に訪れて世界が暗黒になる。あらゆる事象が暁闇に溶けこみ、僕を憂鬱にさせる。
ニュースによれば今年の九月に皆既月食を見られるらしい。ソファで煙草を喫いながら寛いでいると、枕元の電話が鳴った。高橋が電話に出た。短い応答をして受話器を置いた。腕時計を見ると休憩時間が終わる五分前だった。おい、出るぞ。高橋が言った。僕はテレビを消した。煙草を灰皿に押しつけ、スマホを鞄に仕舞い、化粧品など忘れ物がないか確認した。高橋は上着を着ると古い革製のポーチを脇に挟んだ。
高橋がホテル代を支払ってくれた。僕は財布を取り出す演技をしながら恭しく頭を下げた。割り勘だと言われたらぶち殺してやろうと思っていた。NSで割り勘はないだろう。いい想いはさせてやっているのだ。僕の殺意に反して、高橋の財布は万札で膨れていた。その財布を見ると粗末な殺意は忽ちに溶け、もう少しだけ上品な演技をしてやろうと思った。
ホテルを出ると春の涼しい風が吹いた。春風に土地柄は関係ない。歌舞伎町にも春風は吹く。ビルに囲まれた狭い夜空を仰げば満月が煌々としている。月の兎を見つめていると、高橋が笑顔で僕の背中を軽く叩いた。その大きな手は、父親の手だった。忌々しい手の感触に鳥肌が立った。
「それじゃ、また」と高橋は笑った。「朔夜、元気にやれよ」
その屈託のない笑顔に理想の父親を幻視した。高橋の笑顔は上京する娘を見送る父親のそれに思えた。僕は夜の歌舞伎町の雑踏に消えてゆく高橋の背中を見送り、改めて満月を見上げた。青褪めた月明かりが僕を照らす。心の暁闇が澄明な光に溶かされ、左腕の傷跡が幽かに薄くなった気がした。高橋の温もりも悪くない。だが、荒んだ心の輪郭に沿うのは天上の満月である。
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