黒髪の金糸雀

 うつ伏せの姿勢で両目を薄く瞑る。目蓋の暗黒が診察室に漂う消毒液の香りを際立たせる。腰の下をアルコールの脱脂綿で拭かれた。ちくっとしますよ。看護師は仄かに笑うと細い注射針を刺した。非常に細い針が皮膚を貫通し、腰の筋肉に刺さると冷たい痛みがはしった。僕は呼吸を無意識に止め、注射針の銀色に光る先端を脳裏に思い描いた。手足に痺れはないかと看護師に質問された。大丈夫ですと幾度も繰り返した返事をした。注射器を押される圧迫感を覚えると、液体が体内に注入される実感があった。淡い酩酊を感じると身体の奥底が発熱した。注射針が抜かれると横隔膜の付近が熱くなった。脱脂綿で注射跡を指圧されると呼吸を再開した。看護師は注射跡に四角い絆創膏を貼った。捲られたスカートを戻されると僕は身体を起こした。

 背の低い机の上、銀色の受け皿に注射器と赤い文字でプロギノンデポーと書かれた空のアンプルがある。それこそ、僕の身体を構成する女性ホルモン剤である。胡麻油が含まれたぬるぬるとした無色透明の液体は腰の筋肉内に注入されている。本来は女性の更年期障害や不妊症に用いられる薬剤だ。しかし男から女へ性別移行する際にも使用される。その影響で乳房が膨らみ、皮膚の質感も滑らかになり、脂肪が女性の体型らしく身につき、男の生殖機能を停止させるのだ。僕は二週間に一度の間隔で打つ。それ以上の間隔が空くと体内の女性ホルモンが枯渇し、更年期障害を発症する。耐え難い渇望感に襲われ、感情の制御が効かなくなる。数分怒り、数分悲しみ、数分笑いと情緒が烈しく乱れるのだ。

 狭い診察室を出ると扉を閉めた。しばらくすると篠原様と受付に呼ばれた。三千円を払うと手元には領収書しか残らなかった。保険証は必要ない。性別移行に於る注射は保険適応外だからだ。しかし都内の相場的には良心的な値段で、性同一性障害の診断書がなくとも注射してくれるので通院するしかない。僕は会計を済ますと恭しく頭を下げて病院を辞去した。冷房の効いた病院から一歩出ると春風が肌にまとわりついてきた。冷房に冷えていた汗の匂いが胸元から立ち昇った。空を見上げると夕闇が空の青を侵食している。また新宿に夜が訪れる。会社や学校に行儀よく息を潜めていた欲望が、美しい花を咲かせる夜が。それは僕自身も同じだ。篠原朔から朔夜に変容する夜、僕が僕らしくいられる夜。僕は自分らしく生きたい。

 夕闇が迫る新宿の花園通りの喧騒のなか、注射の疼痛を意識しながら新宿のゴールデン街に向かった。外国人の姿が目立つ狭い路地を進み、古い雑居ビルの四階にあるガールズバーの扉の電子錠を開いた。barカナリア、僕のバイト先である。扉を開くと濃密な闇が足元に零れた。静まり返った闇が僕の足元から頭上へと伸びていった。

 開店準備中の店内は静寂に沈んでいる。鏡面のカウンターは天井の闇と溶け合っている。天井の金色のシャンデリアが鈍く光っている。夜間の賑やかな煌めきは欠片もない。カウンター横の黒い鉄製の扉が半分ほど開き、光が洩れている。扉の先はスタッフルームだ。台所を兼ねた事務所がある。光と共に水が蛇口から流れる音が聞こえる。死んでいる空間に生きる世界があった。防火扉のように重い扉の隙間に身体を滑り込ませ、台所に顔を覗かせた。扉に手をかけると金属が擦れ合う嫌な音が鳴った。

 白いシャツに黒のベストを着た店長の菅原が開店の準備をしていた。顎鬚を伸ばし、短髪を逆立ている。いつも眠たそうな表情を泛かべ、飄々としている。菅原は昨夜のグラスを洗う。陽気な口笛を吹いている。宇多田ヒカルの曲だ。菅原は僕を見るなり目を見開いた。口笛をやめて犬歯を覗かせた。

「おう、朔夜か」

 芝居がかった言葉に僕は軽く会釈した。おう、に驚きの感情はなかった。白けた蛍光灯が顔の皺の影を深くする。無精髭が青々と光る。高橋と比較すれば優しい表情だが、目の奥には夜の世界に生きる者の鋭利さがある。高橋と違って父性は感じないが、歳の離れた兄貴分の風情は感じる。僕は鞄を棚に置くと、菅原の左隣に立った。

「手伝わなくていいよ」と菅原は苦笑しながら言った。「紅茶あるから飲みな」

 菅原は泡まみれの指で、テーブルに置かれている紅茶のティーパックを示した。僕は首を曖昧に振って腕捲りした。菅原の横に彼女めいて滑り込み、率先してグラス洗いを手伝う。剃刀で切りつけた左腕の傷跡が濡れる。本来は白い線に過ぎない傷跡は蛍光灯の光と水の冷たさに赤黒く見える。積極的な僕に、菅原はちいさく笑った。

「朔夜は根性あるよな」と菅原は半歩横に動くと呟いた。僕は鼻で笑って返事した。

 菅原には敢えて視線を送らず、手元のグラスに視線を落とす。言葉の真意が理解できない。傷跡のことか、早出のことか。区別がつかないが、おそらく後者のことだと判断した。もちろん新人としての偽善の色を帯びた打算的行動である。誰よりも早く、開店時間の二時間前に店を訪れるのは陳腐な作戦だ。しかし菅原に労働意欲を誇示し、味方につける手っ取り早い方法である。夜の世界は厳格な縦社会であり、一種の肉体労働の世界である。早出して開店準備に取り掛かる新人など、可愛がられる要素しかない。つまり僕は新人として菅原の贔屓にされようと必死なのである。贔屓にされるなら、洗い物という新人の憂鬱など容易いことである。

 しかし菅原は底が見えない男だ。僕の演技を根性と表現しているのかもしれない。扉を半開きにしていたのも演技派の僕を招き入れる手管かもしれない。陽気な口笛さえ、僕に対する親密感の演出かもしれない。つまり僕は菅原の掌で転がされているのである。菅原は感情を表情に出さないから判別がつかない。僕は菅原を都合よく操っているのか。それとも菅原に踊らせているのか。

 それでも菅原には率直に感謝しているのも事実だ。僕の肉体の秘密と傷跡を理解しながら、本来は純女しか採用しない店に置きつづけてくれるのだ。

 僕のような人間は、昼職の面接では弾かれやすい。朔という本名は中性的で違和感はないが、戸籍上の性別欄には男と記載されている。外見の性別と戸籍上の性別が合致しないのだ。その時点で訳ありと判断され遮断される。剃刀で切り刻んだ左腕の傷跡も不採用に拍車をかける。社会の理解が増進されても、所詮はそれが現実である。

 菅原は、社会に居場所のない僕に働き場所を用意してくれたのだ。有難いことだ。もちろん決め手は僕が咥えてくれるからである。菅原は最初こそ躊躇したが、僕の健気な営業と技術に屈した。僕の技術は三分以内に爆ぜさせる自信がある。

 僕は菅原を咥えることで職を得て、菅原は僕を雇う代わりに奉仕を受けられるのである。純粋な利害関係の一致である。店の人間がキャストと性的関係を結ぶのは御法度だが、僕たちは共犯関係にある。菅原と雑談しながらグラス洗いに励んでいると、キャストの女の子たちが出勤しはじめた。その髪の毛が明るい子たちは黒髪の僕を見ると満面の笑顔で手を振った。朔夜ちゃんおはよう。おはようございます、と僕は笑顔を作って挨拶を返す。

 その子たちは僕の肉体の秘密を知らない。彼女たちにとって、僕の肉体に男性器は存在しないのである。僕は狭苦しい空間で純女の朔夜として振る舞う。振る舞わなければならない。秘密は絶対に告白できない。僕は硝子細工のように脆弱な嘘を貫き通す。生きるためなら幾らでも男を咥えられるが、その嘘だけは捨てられない。性自認は男だが、僕は性別適合手術を受ける瞬間まで女という嘘を吐きつづけることに人生を賭けているのだ。

 僕は狭い鳥籠のなかで、偽りの鳴き声をあげる金糸雀カナリアだ。canariaの語源はラテン語のcanis、すなわち犬属に由来する。僕は菅原の犬だ。僕は御主人様に媚びた奉仕を与え、生き延びている。互いに利用し合い、新宿の果てしない暁闇に身を落としているのである。

 午後十一時を過ぎると高橋が来店した。高橋は僕を見るなり微笑んだ。僕も微笑を返した。ガールズバーに指名制度はないが、高橋の相手は僕だと暗黙の了解がある。高橋はカウンターの右端に座り、提げた革製の鞄から原稿用紙の束を取り出し、万年筆のペン先の金色を光らせた。高橋の一杯目はビールと決まっている。僕はたっぷりと泡を注いだビールとナッツを高橋に差し出した。悪いな、朔夜。高橋は煙草の黄色いヤニが付着した前歯を見せた。高橋は煙草に火を点け、ビールを一口飲み、老眼鏡をかけた。万年筆で原稿用紙を文字で埋めていく。万年筆のペン先が原稿用紙を削る秘めやかな音を、周りの賑やかな笑い声のなかから聞き取った。

 高橋の職業は作家である。暴力団員時代の経験を基にした小説で新人賞を獲り、現在は誌上で連載している。今の時代にパソコンを使わず、敢えて手書きで執筆する硬派な態度だ。酔った客とキャストの笑い声が響く店内の片隅で、厳つい手で万年筆を握り、眼鏡の奥の瞳を鋭く怒らせ、原稿用紙に新世界を描いていく。今この瞬間、高橋の手元には新たな世界が生まれ、登場人物が息づいている。高橋の大きな背中は笑い声も派手な照明も暗闇も拒絶し、作家として歴然たる矜持を誇示しているのだ。そして高橋の精神は小説の世界に旅立ち、創造神として新世界の頂点に立っているのである。仕事に没頭する高橋にビールを提供できる自分が誇らしい。僕は高橋に忠実な雌犬であり信者である。そう自身を卑下すると苦笑が洩れた。

 高橋は煙草を喫いながら黙々と執筆をつづける。高橋は執筆に没頭するため、会話を振る必要がない。むしろ会話は高橋の執筆の邪魔である。高橋の接待は楽でいい。ビールを飲み干したら注げばいいだけの単純な仕事である。僕は視界の片隅で大仏のような仰々しい存在感を意識しながら、他の客と会話する。その客が帰ると、菅原が僕に耳打ちした。僕は菅原と共に台所に入った。防音効果のある鉄製の扉を閉めると店内の笑い声が途絶え、冷蔵庫のモーター音が響く冷たい静寂が広がった。

「朔夜。あまり、高橋に入れ込むなよ。いい噂は聞かないからな。足は洗っているみたいだが、実際のところはよくわからん」

「はい。わかっています」と僕は返事した。「大丈夫ですよ。安心してください」

 情報通の菅原は納得したのか否か不明な表情を見せた。僕の真っ直ぐな眼差しを見ると口を窄めて二度頷き、扉を開いた。店内に流れているダンス系の音楽が僕を出迎えた。僕は菅原に一礼するとカウンターに戻った。高橋はビールを飲み干していた。僕は無言のまま泡立つビールを注ぎ、高橋の手前に置いた。高橋は原稿用紙を睨んだまま、万年筆を軽々と滑らす。ふたつ席を隔てた若い男が怪訝に高橋を眺める。

 高橋は二時間ほど滞在すると原稿用紙を鞄に仕舞い、僕に会釈して店を出て行った。そして午前二時になると閉店した。他の女の子と協力して店内の掃除を行なった。閉店作業が終わると女の子たちは私服に着替えて、続々と店から出ていく。既に終電である。彼女たちはどこに向かうのか。真っ直ぐ帰宅するのか、始発まで夜の世界に繰り出すのか。

 僕が最後のひとりになると台所に入った。念のために内側から扉を施錠した。忘れ物したと女の子に戻ってこられ、取引の場を目撃されると後々面倒だ。菅原は換気扇の近く、冷蔵庫に背中を預けて煙草を喫っていた。僕も菅原と肩を並べて一本だけ喫った。ニコチンが血液を介して脳に巡ると頭が冴えた。さあ、これから一仕事だ。僕は根本まで吸った吸い殻を灰皿に押しつけた。台所には換気扇と冷蔵庫のモーター音だけが静寂に響いている。冷めた空気のなかで煙草の煙が漂う。菅原が煙草を灰皿に置くのが合図だった。僕は一度だけ咳払いして行動に移した。

「ねえ、店長。僕の時給上げてくださいよ。少しだけでいいんです」

 僕は乳房を菅原の右腕に当て、左手で股間に触れた。背の高い菅原に上目遣いの媚びた視線を送った。菅原は笑った。自らズボンのベルトを緩め、下着を下ろして露出させた。ズボンが床に落ちると生き物の複雑な香りが鼻腔の先に触れた。蒸れた汗臭さと局部特有の香りが混じっている。菅原は涼しい顔で煙草を喫いながら、この瞬間を期待していたのだろう、少しだけ充血していた。中途半端に猛っている。その猛りを好ましく思った。菅原の首筋に息を吹きかけると反応を示した。

 僕は菅原の犬だ。しかし菅原も僕の犬だ。犬は鳥籠の御主人様に忠実でなければならない。演技と打算に長けた犬という注釈が必要だが。僕はアルコールティッシュで菅原を清め、その場に屈むと、手早く終えた。菅原は切迫を訴えると逃げるように腰を引いた。その態度に苛立った。僕の頭を掴んで喉の奥まで挿れようとしたのに、なぜ肝心なときに腰を引くのか。僕は菅原を咥えたまま身体ごと冷蔵庫に押しつけた。衝撃で冷蔵庫が電子的なエラー音を発した。菅原は爪先立ちになると喉の奥で呻いて爆ぜた。僕に遠慮したのか、じわりと迸った。精液を舌の上で転がすと生臭さが鼻を突いた。蛙の卵に似た舌触り、約四億の精子が蠢く様子を想像すると美味しいなどという陳腐な台詞は思い泛ばない。見ず知らずの他人の精液を飲める風俗嬢には尊敬の念しかない。僕は生臭さを際立たせる要因となる鼻呼吸を止めると、水平に掲げた掌に精液を吐いた。口を開けて、精液が絡みつく舌を覗かせた。まざまざと菅原に白く泡立つ精液を見せつける。打算的奴隷根性を披露すると菅原は笑った。頭を撫でてきた。五十円だけな。菅原は言うとティッシュで己を清めた。僕は洗面所で掌の精液を雑に流し、石鹸で手を洗い、水道水で口内を濯いだ。

 菅原はテーブルに置かれていた財布を開き、タクシー代の三千円を手渡してきた。タクシー代の支給は奉仕の対価である。僕は恭しく頭を下げた。少しでも手術費を稼ぐために新大久保の自宅まで徒歩で帰ろうと思った。

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