月蝕

葛城しなの

プロローグ

 万年筆のペン先が湿気った原稿用紙を削る。強い筆圧に指の関節が痛む。腱鞘炎を起こした関節が悲鳴をあげる。それでも僕は書く。書かねばならない。ふと気がつけば雨音は消えていた。テレビの皆既月食の様子を伝えるリポーターの声だけが鼓膜に触れていた。それを一瞥すると集中力が切れた。脳裏に泛んでいた言葉が消えた。

 僕は溜息を吐き、万年筆を置いた。ペン先の金色が古ぼけた蛍光灯を鋭く反射した。僕は仰け反って両腕を伸ばした。半分しか埋まっていない原稿用紙から離れて窓を引いた。滑り込んできた夜風に机の原稿用紙が散る音が聞こえた。深呼吸すると、晩夏の熱気に熟れた雨の匂いが鼻腔に膨らんだ。窓の外の柵に両手を置き、湿気に満ちた暗闇に上半身を乗り出した。僕の体重に柵の腐食した根本が軋み音をたてた。手のひらに柵の撓みが伝わった。柵が崩れないか心配だが、上半身を捻って夜空を仰いだ。夜空を上目遣いに睨むと、乾いた目の表面に痛みがはしった。

 途切れた雲間から澄明な夜空が覗いていた。月明かりが夜風に流れる雲を青白く照らしている。星が瞬いている。しかし視線を泳がしても、月そのものは見えなかった。朧な月光が見えるだけである。窓から見える狭い夜空は月を拒絶していた。僕は上半身を部屋に戻すと窓を閉めた。その拍子に机の万年筆が転がった。僕は咄嗟に机に近寄った。床に落ちかけた万年筆を手に取った。この万年筆は高橋の遺品だ。僕が現場から勝手に持ち帰った代物だ。彼の矜持である。それをペン立てに差すと、煙草とライターを持って部屋を出た。

 黒いワンピースの裾を優雅に摘みあげ、白けた蛍光灯が光る薄暗い階段を降りた。地面の黒い水溜りを踏むと、弾けた雨水が踝を濡らした。その夜気を封じ込めた冷たさに微笑が洩れた。爪先で水溜りを蹴ると、反射していた電線が脆く崩れた。

 僕は人通りのない道路の中央で夜空を見上げた。薄い雲の先に赤銅色の月が見える。雲が晴れれば綺麗な皆既月食が見られるだろう。僕は苦笑した。皆既月食に心を踊らすなど自分らしくない。僕はいつから感傷的な人間になったのか。

 煙草を一本咥えるとライターで火を点けた。肺の奥深くまで満たした煙を吐くと、原稿用紙と睨み合った果ての偏頭痛が和らいだ。至福の一服だった。吐く煙を冬の白い吐息のように見送った。サイズの合わないゴム草履を持て余しながら道路を進んだ。肩甲骨まで伸びた後ろ髪が夜風に踊る。左手で後ろ髪を一本に結き、胸元に下ろした。その拍子に手が胸元に触れた。胸元のはだけたワンピースの布越しに乳房の存在感があった。その硬い感触は僕を安堵させる。この身体と心の一体感が好ましい。僕はと言うが、地面に踊る影絵は女の輪郭を持っている。剃刀で切り刻んだ左腕は白骨の白さを誇る。その満足感に煙草を深く喫った。隣接するアパートの開けられた窓から皆既月食を実況するテレビの音声が洩れている。その解説に耳を傾けながら路地を抜けた。

 途端に鉄の匂いがした。僕の嗅覚がそれを捉えていた。僕は目を細めた。道路の中央に異物がある。圧し潰された蛙の死骸に見えたが、体積はそれを遥かに上回る。眉間に皺を寄せて凝視すると、赤黒い肉の塊と灰褐色の羽根が見えた。それが鳩だと気づくに時間は要さなかった。呑気に散歩していたのか、地面の食べかすに夢中になっていたのか。飛び遅れて、車に轢き潰されたのだろう。

 鳩の死骸と高橋の死体が重なった。吐き気を催した。酸っぱい唾を道路に吐いた。そっと視線を逸らして煙草を喫った。しかし視界の隅には、夜空を見上げる鳩のつぶらな瞳が映っていた。不快極まるが、観察せざるを得なかった。命の抜け殻の瞳が、月を見上げているのである。月蝕を眺める鳩の死骸なんて絵になりすぎる。

 人間を筆頭に、猫や犬もそうだ。なぜ普段は愛くるしい生き物が、道端に転がる無惨な死骸になると薄汚く映るのだろう。普段は可愛いなどと愛でておきながら、死骸に変わった途端に凄まじい嫌悪感を放つのだ。内臓や血液の鮮烈さが生き物など所詮は内臓の塊だという事実を暴いてしまうからか。それとも死の冷たさが防衛本能を刺激するからか。

 改めて月を見上げた。雲に隠れて月蝕の進行はわからない。雲の白に赤銅色が中和されているが、その向こう側では陰の濃さは増しているだろう。

 僕は吐き気を我慢しながら鳩に視線を移した。その無惨な姿を見つめると、やはり高橋の死体が脳裏に泛かぶ。沖縄の土産屋で見せた笑顔が、血に濡れた死体に変わる。結果論だが、高橋も飛び遅れた。何故何故と哀切の底で幾度も繰り返した疑問は、最後には滑稽でしかない結論に帰依するしかなかった。僕は根本まで喫った煙草を鳩に放った。投げ遣りな赤い光が放物線を描いた。煙草は鳩の真ん中に着地した。その火がじりじりと羽根を焼く。その夜空へと立ち昇る薄紫色の煙を見つめていると、肉の焦げる匂いが鼻に届いた。

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