トイレの怪談
深夜喫茶モルゲンレーテの近所に住む義親は、「怪奇雑誌モームリ」を定期購読する年季の入ったオカルトマニアであり、モルゲンレーテの常連である。キャロラインたちは義親に「いつもの怪談」を聞かせることもあれば、義親から「新しい怪談の種」をもらうこともあった。
その夜、義親はモルゲンレーテのバーカウンターで怪奇雑誌モームリの特集をつまみにウイスキーを傾けていた。
「二人とも、今月の地球滅亡の話は聞いた?」
「ええ、勿論」
「あれだけSNSで騒ぎになれば嫌でも耳に入りますね」
義親はうんうんと頷きながら、モームリのページをめくった。
「あった、ここなんだけどね。最初は『六月に滅亡』って話だったのが、七月の初めになり、七月の終わりになり、八月になった、という経緯があってね」
「非常に情けない予言ですよね」
悠がバッサリと切る。その様子に義親はあはは、と笑い、
「だよねぇ、私もそう思うよ」
と言った。
ガチャ、と入り口のドアが開く。そこにはいまだ遠慮がちに店を訪れてくる奈央と祐二の姿があった。
「また来ちゃいました」
「いらっしゃい、また会えて嬉しいよ」
「ようこそモルゲンレーテへ」
えへへ、と笑う二人にキャロラインと悠はそれぞれの方法で挨拶をした。
奈央と祐二はあれ以来、なんとなく黒い絵の前を避けて、酒の棚の前に座っている。義親は黒い絵の左前、店の真ん中の席が定位置なので、この夜はL字のカウンターに三人並ぶことになった。
「随分若い子も来るようになったんだね」
「そうなんだ、この子たちも怪談に興味があってね」
酒の棚の前に座ったキャロラインがバチーンと効果音のつきそうなウインクを奈央と祐二に贈った。
「このお店にはよく来るんですか?」
「家が近くてね。一人でお酒飲んでてもつまらないから、ここによく話しに来るんだよ」
そう言って、はは、と笑った義親だったが、その笑顔は奈央にはなんだか寂しげに映った。
ぱちん、と酒棚の前に座っていたキャロラインが手をたたく。
「そうだ義親さん、最近ほかに気になってる話題教えてよ。なにか新しい不思議な話は手に入った?」
「なんでもいいのかい?」
「なんでもいいよ」
うーんと、義親は考えた後、「お茶の場で相応しくない話題かもしれないけど」と前置きをして話し始めた。
「トイレの便座がね、最近上がってるんだ」
「上げた覚えがないのに、というやつですか?」
「正解。私は今は一人暮らしでね。私のほかには誰もいないはずなのにトイレの便座が勝手に上がっているんだ」
「それは困る」
男性一同は深く頷き合い、奈央だけがこの話題に取り残された。
「あ、でも、女性としては便座って下りてるのが普通だから気が付かずに座っちゃうかも」
「実はね、それは男性も同じなんだよ」
最近の男性は特にそうなんだ、とキャロラインは恥ずかしげもなく続ける。こういう時に躊躇わない、オネエのパワーはすごいなと祐二はこっそり思った。
「えー! そうなんだ!」
「そうなんだ、だから勝手に上がっていると困ってしまってね」
「それで、どうしたんですか?」
悠が義親にウイスキーのおかわりを差し出しながら続きを促した。
「お願いの紙を貼ったんだ」
「お願いの紙?」
「よくあるだろう、トイレットペーパー以外を流さないでください、とお願いを書いた張り紙が」
「駅のトイレとかでよく見かけますね」
「それをね、貼ったんだ。『用を足した後は便座を下ろしてください』って。そしたら次の朝から便座が上がらなくなったんだ」
お願いしてみるものだね、と義親はにこやかに話を締めくくった。
「そういえば、トイレの怪談と言えば、俺もこんな話を聞いたことがありますよ」
そうして悠は黒い絵の前で一つの怪談を語り始めた。
その人の家のトイレのドアは下に少し隙間があって、なんとなく手を差し入れてみると丁度手のひらの厚さぐらいの隙間だった。
ある晩。その日はどうにももやもやして寝付けず、温かい紅茶を飲んでなんとか眠りについたのだが、すぐにトイレに行きたくなって目が覚めてしまった。「せっかく寝付いたのになぁ」と思いながら渋々起き上がって、ふらつく足元をなんとか前に進めトイレに向かった。
トイレに入るとなんだか暗い気がする。電球が切れそうなのかな、こんな夜中に真っ暗闇のトイレに残されるのは嫌だな、と思いながら便器に腰掛ける。
ふと足元を見る。トイレのドアのあのすき間が今日はやけに気になる。なんかやだな、廊下の電気もつけてくれば良かった、と後悔しながらもそのすき間から目が離せない。すると、すーっと、そのすき間から白い手の指先が出てきた。え、と思っているうちにどんどん白い手がこちら側に入ってくる。
真っ白な、血の気のない手。丁度手の甲が全部見えようか、というところでその人は思い切って、「すみません、入ってます」と声をかけた。
するとその白い手はビクッと震え、入ってきたのと同じスピードですーっと外に出ていった。
急いでトイレを流し、手も洗わずにドアを開いた。そこには見慣れた廊下が夜闇に包まれているだけだった。
「話せば割となんとかなるみたいですね」
そう淡々と告げた悠の様子を見た義親は大きく笑ってしまいそうな声を抑えてぷるぷると震えていた。
「あは、あはは! おもしろいね、その話」
「気に入っていただけて何よりです。義親さんの今日のお話も怪談に仕立てていいですか?」
チェイサーの水を一口飲んで落ち着いた義親はこれまたにこやかに「是非お願いするよ」と告げた。
その様子を見て奈央と祐二は震えた。自分たちは少しでも、不思議かも?と思えることが起こるとみっともなく慌ててどうしょうもなく我を見失ってしまうのに、この人たちは冷静に対処して解決している。勿論、話を盛ったりしているだろうから全ては信じられないけれど、怪異と対話をしようとするその精神が奈央たちには信じられなかった。
「なんだかトイレの話聞いてたらお手洗いに用事ができそう」
奈央が青い顔でキャロラインにそう告げると、キャロラインは再びバチーンと音のつきそうなウインクを返してニコッと笑った。
「やぁね、デリカシーがなくてごめんなさい。お手洗いは黒い絵の右側のドアだよ。ここでボクたちが騒いでいれば、きっとおばけは近付けないよ。安心して行っておいで」
奈央がお手洗いに行ってる間、祐二はこわごわ義親に話しかけた。
「義親さん、実は怪談から逃げられなくてこの深夜喫茶にいるんじゃないですか?」
義親は明るく、あはは、と笑って、
「私の場合そう多くあることではないんだけどね。怪異があっても私は大歓迎だし、会ってみたい怪異もいる」
「うわー、オレは絶対会いたくないっすね」
「怪異にもいろんなものがいる。こちらの世界に住む生き物と同じだよ。元からあちらの住人もいれば、こちらからあちらに移住したものもいる。あちらの住心地はどんなものか、一度話してみたいんだ」
そう言う義親の瞳はきらきらとしていて、その姿に祐二は少し怯んだ。義親があちらの世界に魅入られすぎているようでますます怖かった。
「祐二くん」
キャロラインが祐二に呼びかけた。暖かい朝陽の眼差しをしていた。祐二は少しほっとして、キャロラインの続きの言葉を待った。
「あちらとこちらを隔てる壁は薄いようで厚いんだ。願ってもたどり着けない場所。誰も本当の姿を知らない場所。だからこそ人は想像する。いろんな噂話をする。それが怪談なんだよ」
キャロラインはそう言うと、カルーアを多めのミルクで割って、チョコでコーティングされたナッツと共に祐二の前に差し出した。
「これは義親さんの奢りね」
「いいよ、また一緒に飲もうね、祐二くん」
バタン、とお手洗いのドアが開く。狐につままれたような顔の奈央が出てきてこう言う。
「誰かトイレのドア、ノックした?」
男性陣は顔を見合わせた。話に夢中だったこともあるが、そもそもそんな失礼なことは誰もしていない。でも、ここで本当のことを言ってしまうと奈央は怯えてしまうだろうことが言わずとも予想できた。
「やぁね、ボクの声が大きいから響いちゃったのかも」
先陣を切ったのはキャロライン。次いで悠が間を開けずに口を開いた。
「タイミング的にBGMで掛けてる音楽が響いたんでしょう。そんな感じの音がありましたから」
腕を組んだ奈央は首を傾げ、少々納得のいかない様子で
「うーん、怖い話してたから幻聴が聞こえたのかも」
と言った。
まあいいや、と席に戻った奈央は、キャロラインに冷たいロイヤルミルクティーを頼み話の輪に戻っていった。キャロラインは冷たいロイヤルミルクティーをチョコクッキーと共に奈央に差し出した。
怪談喫茶モルゲンレーテ 水森みどり @midoriminamori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。怪談喫茶モルゲンレーテの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます