第2話 港湾作業員の自己保身
朝の港は、金属が目を覚ます音で満ちていた。
バックブザー、チェーンの擦れる音、フォークリフトの爪が木箱の底を探る鈍い衝撃。風はまだ軽く、引き潮の線が昨夜より下にある。コンクリートの肌は、濡れ色と乾き色の境界で地図のように割れていた。
私は開店前の〈エトワール〉で書いた手順カードを、胸ポケットから出す。
□ 潮の線を見る
□ 映像の撮影位置を特定する
□ クレーンの腕と画角の対応を取る
□ 現場経験者から一次証言を取る(耳で見た光景に注意)
□ 無理はしない。途中でやめられる
「線、ここですね」
澪が指先で境界をなぞる。白い粉が指に移って、彼女は驚いたように笑った。塩だ。彼女はポケットからティッシュを出して拭き取ろうとして、そのままやめた。塩の白は、今日の印に見えたのだろう。
「問題のフェンスは、あれだと思う」
私はテープの静止画をスマートフォンに転写したものと、実景を重ねる。斜めに走る網の目、柱の間隔、右上にはクレーンの腕――角度は違うが、輪郭は一致する。
体を少し屈め、網越しに覗く。手前に薄く錆びたワイヤー、遠景に鉛色の水面。画角の縁に、防波堤の影がかかってくる位置まで、足を半歩単位で調整した。
「撮った人の背の高さ、どのくらいでしょう」
「網の節が目の高さに来る位置がベストフレーム。私の身長だと――」
私は網の節と目線を合わせる。「百六十ちょっと。腕を伸ばしていない。肩の高さで支えてる。……子どもじゃない」
澪は無言でうなずき、フェンスの足元を見た。潮が引いたばかりのコンクリートには、細かい貝殻の破片が散っている。
私は歩測でフェンスから防波堤までの距離を取る。澪はメモを取りながら、歩を数えるのを手伝ってくれた。カウントの声が、港の空気に淡く溶ける。
「おはようございます、立入の方?」
黄色いベストを着た守衛が歩いてきた。帽子のつばに塩の白が縁取りをしている。私は社名の入った腕章を見せ、丁寧に事情を話した。私の名刺と、〈三田村探偵事務所〉のスタンプ。守衛は一瞬だけ表情を曇らせたが、やがて肩をすくめた。
「昔の件ですか。いま働いてる人間で、その頃を知ってるのは……川崎がいいでしょう。呼びます」
守衛は無線で連絡を取り、私たちを喫煙所の横に案内した。ベンチの上には昨日の雨で滲んだスポーツ紙。海側は風が通り抜け、紙面の角が音もなくめくれる。
五分ほどで、川崎が来た。五十代半ば、褪せた作業着、指の節が太い。手袋を外すと掌に塩の粉が白く残っていた。
私が名刺を差し出すと、彼は少し目を細めてから受け取った。
「探偵さんに話すほどのこと、あるんでしょうかね」
「二十年前の、少年が失踪した日に、こちらで作業をされていたと伺いました」
「……ええ。バラ物の積み下ろし。夕方まで、ずっと」
川崎の声は低く、喫煙所の灰皿の中で燻る残り火のようだった。
私はメモを開き、手順カードの四つ目にチェックを入れる。一次証言。耳で見た光景に注意、の下に線を引いた。
「その日のこと、覚えている範囲で、時刻の順に教えてください」
「時刻? そりゃだいたいですけど……」
彼は空を見上げ、太陽の位置を探すように眉間に皺を寄せた。
「昼前に荷が少し遅れて、現場が押した。午後の終わり際、風が南に変わって、海の匂いが強くなった。汽笛が一回、鳴って――海が黙った。変だな、と思ったのはそこです。そのあと、誰かが騒いで……事情は、後から聞いた」
「汽笛は、一回」
「ええ。やけに腹に響く、低い音でね」
私はメモに“汽笛=1回(本人の記憶)”と書く。
潮の匂いを運ぶ風が、灰皿の火を撫でて、赤い点が一瞬だけ明るくなった。
「顔見知りで、その場にいた方は?」
「作業はうちの班と、荷主の人間が二人。あとは……どこかの喫茶の主人が、差し入れを持ってきたような気もするが、別の日かもしれない」
「“遠山”という方は?」
川崎は少しだけ目線を落とした。わずかな間。
「遠山? ……ああ、いや。うちにはいません。荷主にも、いなかったはずだ」
私はうなずいた。澪の横顔は硬い。
耳で見た光景という言葉が、頭の中でひっかかる。彼は“見た”ことよりも、“聞いた”ことを先に語る。汽笛一回。海が黙った。そこで「変だ」と感じた、と。
「当時、少年の兄御さんと金銭で揉めた、という話も耳にしました」
川崎の指が、灰皿の縁を強く押した。灰が音もなく崩れる。
「古い話ですよ。あれは、私の勘違いでね。払うものは払った。あの件で、私が何か隠しているというなら――それは心外だ」
「隠しているとは言っていません。ただ、あの日の印象に、その“古い話”が影響した可能性は」
「ない、とは言えない。けど、仕事の判断は仕事でしてます。私が見たのは、港の動きだけだ」
港の動きだけ。
川崎は言葉の中に、防波堤のような硬さと、海面のような曖昧さを同居させる。
私は質問を変えた。
「その“港の動き”を、できるだけ具体的に。たとえば――」
「風向きは南に。荷は軽い。クレーンは、七〇三号の腕が下がり気味で、ラインを一段落としてた。……それくらいですよ」
クレーンの番号。私は小さく息を飲む。
テープの右上に映っていた腕の角度――現物と比べる目安がひとつ増えた。
「ありがとうございました。最後にもうひとつ。汽笛が“一回”鳴ったとき、どちらに向いて立っていました?」
「倉庫の陰。風避けに、壁を背にして。海の方は――見てません」
私はペンを止め、顔を上げる。
海の方は見ていない。
耳が捉えた“一回”は、倉庫の陰で、反響と遮蔽物に切り分けられた音かもしれない。
「ご協力、感謝します。今日のところは、以上です」
川崎は名刺を胸ポケットにしまい、少し乱暴な仕草で手袋をはめ直した。
背中が遠ざかる。作業用の靴が、塩の白を踏み散らしていく。
喫煙所のベンチに、私たちだけが残った。澪は、灰皿に視線を落としたまま口を開く。
「“遠山さん”、いないって」
「“ここには”いなかった、です」
私は言葉を正した。「場所を変えれば、事情は変わることがあります。今日の収穫をまとめましょう」
二人でフェンスの前に戻る。私は静止画と実景をもう一度重ね、クレーンの番号を目で拾った。七〇三号。腕の角度は、昨夜の映像のそれを思い出させる。
「撮影位置、ここでほぼ間違いないとして……」
私はフェンスから防波堤までの距離を書き、撮影者は現場から離れていたに二重線を引いた。
「さっきの“汽笛一回”は、どう考えますか」
「港のルールは“音”で会話します。誰がどこにいるかで、同じ音が違う意味になる。倉庫の陰なら、一本に聞こえる音が、別の場所では二本に割れて届くこともある」
「割れる?」
「反響。壁やコンテナに当たった波が、少し遅れて戻ってくる。耳は、近い方を優先する。……それでも、川崎さんは“腹に響く一回”と記憶した」
私は“耳で見た光景”の注記に丸をつける。
澪は手帳を閉じ、フェンスの金具を指でひとつつまんだ。金属は夜露を忘れたように乾いて、少しだけ熱を持っていた。
「三つ、続けて確かめたいことがあります」
私はカードの余白に追記した。
・クレーン七〇三号の稼働記録(当日の腕の位置/作業ログ)
・潮汐表と入出港記録(汽笛の意味とタイミングを照合)
・“遠山”の所在(名簿/関係者リスト/別現場の可能性)
「名簿、わかるんですか」
「港の出入りには名札が必要。守衛所に“当時の帳面”が残っているかもしれない」
守衛所に戻ると、先ほどの守衛が、古い台帳を二冊出してくれた。紙は縁が柔らかく、角は丸い。
私は許可を得て、関係するページだけスマートフォンで撮影する。
遠山の二文字を探す指は、紙の上を丁寧に走ったが、今日のところは空振りだった。
「この台帳に載ってない出入りも、当時はあるにはありましたよ」と守衛が言った。「顔パスの業者もいた。……良くないけどね」
「情報、ありがとうございます」
台帳を閉じると、午後の風に少し重さが混じっていた。潮が戻り始める。
岸壁の線は、朝よりも浅い位置へと、ゆっくり書き直されていく。誰かがゴムで消して、鉛筆で引き直すみたいに。
「お昼、どうしますか」
「〈エトワール〉に戻りましょう。映像のフレームと、七〇三号の角度を重ねる。あと――」
「あと?」
「“見えたこと”と“信じたこと”のリストを、もう一度入れ替える」
私はポケットのカードを指で弾いた。澪は頷く。
歩き出すと、倉庫の壁際に、無数の水滴が小さな虹を作っていた。朝からずっとそこにあったはずなのに、今、初めて気づく。光の角度が変わったからだ。港は、同じ物を違うふうに見せるのがうまい。
〈エトワール〉に戻ると、真鍮のベルが軽く鳴った。星野が「おかえり」と言いながら、冷たいアイスコーヒーをふたつ用意してくれた。グラスの表面に、白い筋が走って、すぐに玉になって落ちる。
私はカウンターに地図を広げ、スマートフォンの静止画を並べた。七〇三号の腕が、紙の上で影を作る。
「川崎さんは、嘘をついていましたか」
澪の問いは、氷の鳴る音よりも静かだった。
「“自分を守る”話し方はしていた。でも、いちばん嘘をついたのは“耳”です。あの人ひとりに限りません。港では、耳がしょっちゅう嘘をつく」
「どうして」
「風と壁。音は、曲がるから」
私は昨日のカードの裏に書いた名前――遠山を、表に移した。
“置かない”と決めていた名前を、今は置く。そこから、線が伸びる気がした。
「次は、同級生の話を聞きましょう。澪さん、連絡先は?」
「はい。佐伯さん。メッセージは……送ってあります。今日の夕方なら大丈夫だって」
「潮が満ち切る前に、聞けますね」
私はカードの最後の□にチェックを入れた。
□ 無理はしない。途中でやめられる
港の方角から、かすかに汽笛がした。
今度は、間を置かず――二度。
私は耳の奥で数を数え、心の中で小さく、笑う。音は曲がる。けれど、数は残る。
*耳で見た光景*を、目で見直す準備はできていた。
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