潮が嘘を隠す夜
湊 マチ
第1話 潮が運んだテープ
港は、夜になる準備をはじめていた。
風が低くなり、潮の匂いが床板のすき間まで入り込む。喫茶〈エトワール〉のカウンターを拭くと、布巾に白い粉が薄く残る。塩だ。昼の透明は、夕方になると指先にざらつきを置いていく。
真鍮のベルが、指で触れるより先に鳴った。ドアが押し戻される瞬間の、あの軽く乾いた音。閉店十五分前。高校生ぐらいの女の子が、胸の前に何か四角いものを抱えて立っていた。外の湿気が髪に細い波を作っている。
「すみません。もう終わりですか」
「席なら、ひとつ空いていますよ」
そう答えると、彼女は安堵とためらいの中間くらいの表情を見せて、カウンターの端に座った。差し出した水のグラスに、氷が鳴る。彼女は抱えていた布包みをそっと置いた。タオルの端に、煤のような黒がうつっている。
「それは?」と私――三田村香織は訊いた。
「テープです。VHS。再生……できますか」
「探してみます。店の上に、まだデッキが生きていれば」
私はカウンター越しに店長の星野に目で合図を送る。星野は眉を上げて、物置の鍵を持って階段を上がっていった。港に面した窓に、外の灯りがひとつずつ増えていく。奥の壁に掛けた潮汐表をちらりと見る。今夜は二十一時過ぎに満ちる。
「お名前を伺っていいですか」
「潮崎澪です」
潮の字。偶然にしては、港町が選びそうな名前だ。
「澪さん。そのテープは?」
「二十年前の、失踪事件の。たぶん、その日のやつです」
私の手が、思わず止まった。二十年前、港で少年が姿を消した。捜しても捜しても見つからず、事故として扱われた案件だ。いくつかの噂が季節ごとに色を変え、今も町の縁にくっついている。
「なぜあなたが」
「……家の押し入れから、父の荷物を片づけてて。底の方に入ってました。ラベルは剥がれてたけど、母が“あの年の夏に、父が港で撮ってた”って」
「お父さんが撮った?」
澪はうなずいた。言葉の行き場を探すように、グラスの結露を指でなぞる。
星野が戻ってきた。肩に埃っぽい箱を抱え、電源ケーブルを手でしごきながら笑う。
「遺物発見。通電はするはず。音は保証しないけど」
「助かります」
カウンターの下から小さなモニターを引き出し、配線をつなぐ。港の外から低い汽笛が一度響いた。どこかで船が回頭している。私は無意識に指を一本立てて、音の余韻を数える。
「映す前に、少しだけ決めごとを」
私は手近のレシートの裏に、小さく四角い枠を描いた。手順カード――私は調べごとをするとき、いつも最初にこれを作る。どこまでを今夜やるか、どこからは明日に回すか。善意や思い込みで手順が崩れるのを防ぐための、目に見える約束だ。
□ 一度目は無音で再生する
□ 二度目は音あり、途中停止可
□ 見えたことと、信じたことを分けて書く
□ 無理はしない。途中でやめられる
読み上げると、澪は息を細く吐いて「はい」と言った。私が□にチェックを入れる音が、氷の音と似た小ささで響いた。
テープを差し込む。モーターの回る感触が指に伝わる。古い磁性体が目覚めるときの、あの低い唸り。
映像は、ざらつく夕暮れから始まった。画面は四対三。視野の上が広い。手前、金網か何かの影が斜めにかかる。カメラは固定されていない。微妙に揺れて、時々、風の抵抗に抗うように少しだけ右へずれる。
遠景に、水面が薄い鉛色で広がっている。右側に港のクレーンの腕。左に防波堤の影。人影が小さく動いた。検針の服のように見えるが、距離がある。二人、三人……はっきりしない。逆光で、輪郭が溶ける。
フレームの中央やや右。細い影がひとつ、海の方へ――いや、岸の方へ? 手を挙げた。ひらひらと振っている。左右どちらの手か、私の目は迷う。逆光のシルエットは、利き手という情報を奪う。
私は息を止め、澪の横顔を見た。彼女は顔を上げているのに、視線はどこか懐かしい角度で止まっていた。記憶の棚をまさぐるような目。
映像は、十分もない。最後、カメラが足元の影に落ち、砂利の近くをちょろちょろ走る蟻が一瞬だけ見えた。そこでブツ、と終わる。
「もう一度。音ありで」
私はカードの二つ目にチェックを入れた。音量を少し上げる。ノイズが雪のように降る。その奥に、風のすべる音。擦過音。やがて、遠い汽笛。数は……ひとつ。間をおいて、またひとつ。録音の劣化か、風の切れ目か。耳が、目と同じくらい迷う。
紙の擦れる音。撮影者が、カメラを持ち替えたか。低い声が、あるか、ないか――言葉にはならない高さで、喉の奥の空気が揺れただけかもしれない。
澪が、音を追い越すように言った。「あの手、別れじゃないと思うんです」
私は一時停止に指を置いたまま、首をわずかに傾けた。
「呼んでいる。そんな感じが、する」
「根拠は?」
「……母が言ってた“あのとき潮がすぐに満ちて、濡れたところがここまで来た”って。だから、呼ぶなら今のうちに、って」
彼女の視線は、カウンターの天板の木目を走り、店の奥、壁際の潮汐表に触れた。
「澪さんのお母さんは、その場に?」
「はい。いえ、たぶん。……当時の話は、ちゃんと聞いてなくて」
言葉のはしが、不意にしぼむ。彼女はグラスの縁に触れ、冷たさを確かめる仕草をした。
「その場にいたのは誰だった、と聞いてますか」
「彼と、遠山さん。……母は、そう呼んでました」
遠山。私は心の中で書き取り、カードの裏の余白にだけ名前を置いた。表には置かない。今は、置かない。
再生を進める。画面の右上、クレーンの腕が少しだけ下がった。潮面に、細い筋が増える。風の向きが変わって、マイクに当たる音の角度が変わる。港の音は、嘘をつかない。だがそれは、真実を直接は語らない。数を教え、向きを教え、速度を教えるだけだ。
テープはすべての雪を降らせ終え、カチ、と機械的な音で止まった。私たちはしばらく黙っていた。氷がまた鳴った。遠くで、今度は高めの汽笛が二度。
「見えたことと、信じたことを、分けましょう」
私はカードの三つ目の枠に線を引いた。
「見えたこと――逆光の中で、手が振られた。向きは判別困難。録音には風と汽笛。クレーンの腕が映っている。撮影位置は……」
「離れてますよね」と澪が言った。「柵が、手前に」
「ええ。金網の影。距離は、明日、港で確かめましょう。クレーンの型と位置でだいたい出せる」
「信じたことは?」
彼女が、私を見る。私は少しだけ笑ってみせた。
「今は置いておきましょう。信じるのは、いつでもできる」
澪の肩から、力が少しだけ抜けた。彼女はタオルをたたみ直し、テープを包みなおす。包む動作に、誰かを守る形が残っていた。
「ひとつだけ、澪さんのために訊きます。これは、警察に?」
「今は……まだ。母が、望まない気がして」
「わかりました。私たちは、できることを確かめ、できないことを数えます。明日、港に行きましょう。潮が引いている間に」
私は壁の潮汐表を見て、すぐ横のメモ用紙に時刻を書いた。澪の視線も、黙ってその数字を追う。星野がカップを洗う音が、静かな雨のように続いた。
店を出ると、風は昼より温かかった。岸壁には、濡れ色と乾き色の境界が細い帯を作っている。街灯の光を受けて、帯は鈍く光り、石の目地に沿ってたわむ。潮の線。昼と夜のあいだに引かれる、今日だけの罫線。
私は指の腹で空をなぞるように、その線を辿った。潮は、たしかに何度でも嘘を隠す。だが、隠した場所には輪郭が残る。そこに触れれば、手は塩で白くなる。
遠くでまた汽笛が鳴った。今度は、一度だけ。私は心の中で一本、指を立てた。明日の手順カードのいちばん上に、こう書くつもりだった――
『港で、線を見る。音を数える。光を確かめる。』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます