第3話 同級生の郷愁

 夕方の港は、色の境い目でできている。

 昼の青が、ほんの少しだけ紫に寄って、金属の冷えを柔らかく見せる。岸壁の線は昼より高く、濡れ色が石の目地を飲み込んでいた。


 私と澪は、フェリーターミナルの待合のベンチに座っていた。ガラスは塩で薄く曇り、指で円を描くと白が爪の間に残る。真鍮のドアハンドルは手の温度を受け取り、輪郭が微かに鈍る。


 手順カードを膝に置く。


 □ 録音の許可を得る

 □ 時系列で話してもらう

□ 「見たこと」と「思ったこと」を分ける(合図して止める)

 □ 名前は最後に確認する

 □ 無理はしない。途中でやめられる


 ほどなくして、佐伯が来た。三十代前半、背が高い。港町の男たちがよく着る、洗いざらしのパーカー。手にフィルムの缶を持っている――今どき珍しい。彼は私たちを見つけると、少しだけ照れたように笑い、缶をベンチの端に置いた。


「すみません。懐かしいものを、つい」


「写真、撮られるんですか」


「ええ。仕事じゃなくて、まあ、趣味です」


 澪が小さく会釈する。「今日はありがとうございます」


「澪ちゃん、だよね。……あの、似てる。目が、お母さんに」


 澪の肩が、息と一緒に少しだけ沈む。私はカードの一番上を指で叩いた。


「録音、させてください。途中で止める合図をしたら、止まります」


「どうぞ。俺、話すの下手なので、止めてもらったほうが助かります」


 赤いランプが点る。窓の向こうで、タグボートが短く汽笛を二つ鳴らした。


「二十年前の、あの日のことを、“時系列で”。できる範囲で構いません」


 佐伯は頷き、視線を少し泳がせた。塩の窓越しに見る港は、遠くと近くが薄い膜で重なっている。彼は、その膜の向こうにいる誰かに向かって話し出した。


「放課後、彼と……その、もう一人と、三人で港へ行きました。夏の終わりで、でも風は少し涼しくて。俺は、彼の新しい靴を見て“似合うじゃん”って言った。彼は笑って、靴のつま先で地面を蹴って、砂がちょっと跳ねて。……その時、向こうで船が鳴った気がする」


 私は手の中で指を一本立て、合図で止める。


「“もう一人”の方は、どこに?」


 佐伯は窓に視線を投げ、指で空中に位置を描く。


「俺と彼の、少し後ろ。防波堤の影の手前。赤いキャップを被ってた。左利き。タバコは吸わない」


 赤いキャップ。左利き。吸わない。

 ディテールは具体的で、どれも確認が難しい。私は合図を解いて続きを促す。


「その“もう一人”は、何か言っていました?」


「……“潮が戻るよ”って。冗談のように言って、でも、声はほんとっぽかった。俺は笑って、“焦らすなよ”って返した。そしたら彼が手を、こう……」


 佐伯は自分の胸の前で、掌を上にして振る。私の目は、反射的に“左右どちらか”を探す。窓に映る彼の影は塩の粒で縁どられ、左右の情報を奪っている。


「海に向けて、振りましたか。岸に向けて、でしたか」


「それが……どっちだったかな。夕陽で、逆光で、はっきりとは。……でも、“呼ばれた”感じがして。俺は一歩、近づいたんです。彼に」


 私は合図で止めた。「“彼”に?」


「はい。彼――その、失踪した彼に」


 言い換えるまでの短い間。言葉は人を守る。

 私はメモに“呼ばれた感じ=主観/逆光=左右不明”と書く。澪の指先が、ベンチの木目の細い溝を辿っていた。


「続けてください」


「彼が、ふっと笑って、広場の向こうを見た。“また”って言った気がする。俺は“また?”と聞き返して、視線の先を追いかけた。そこに――」


 佐伯の視線が、いったん宙で止まる。網膜に浮かんだ映像が、言葉になるのを待っている。


「そこに、あの人がいました。……遠山さん」


 澪が小さく息を呑む。私のペン先が、ことりと紙を叩いた。私は合図を出さず、そのまま聞く。


「遠山さんは、俺たちより少し年上で、町で顔を見れば会釈するくらいの人。あの日、あの場所にいた。間違いない。俺は、彼と遠山さんが話すのを見た。何を話してたかは、風で流れて……でも、見たんです。本当に」


「遠山さんは、その時、どちらを向いていました?」


「海。……いや、岸。いや――すみません。どっちも、見た気がする。俺、カメラを持ってたから。フレームの中で“動き”を探す癖があって。人の向きは、影で見るんです。影は、平面に倒れるでしょ。だから……」


 “影は平面に倒れる”。

 私は窓の塩膜を指先で軽く擦った。塩の粒が、細かく音を立てる。

 影は厚くなる。塩の膜が、影の輪郭を“二重”にする。夕方の光は、ガラスの向こうで少し遅れて戻ってくる。


「その後は?」


「彼が、手を振りました。誰に、なのかは――遠山さん、だったと思う。俺は、その時、足元を見てしまって。新しい靴の白さが、夕陽に照らされて、まぶしかった。次の瞬間、誰かが“危ない”って言って、俺が顔を上げたら、彼は……」


 佐伯は言葉の先を、喉の奥で掴み損ねた。静かな空白が落ちる。

 私は合図で録音を止め、紙コップの水を渡した。澪も、そっと頷く。


「少し休みましょう。ここまで、ありがとうございます」


 彼は水を半分だけ飲み、息を整えた。指先が、フィルム缶の蓋を無意識になぞっている。


「写真、お好きなんですね」


「はい。あの日も、スナップを一本、撮りきるつもりで。……でも、結局、シャッターは押さなかった」


「押さなかった理由、覚えていますか」


「光が、強すぎて。逆光は、難しい。顔が黒くなる。……言い訳ですけど」


 私は頷く。逆光は、情報を削る。削れた部分を、脳は埋める。自分の中の“物語”で。


「もうひとつだけ。遠山さんは、左利きでしたか」


「ええ。たしか、左でペットボトルのキャップを回してた。あのときも……いや、ペットボトルを持っていたのは、俺かもしれない。夏で、喉が渇いて。……すみません。混ざります」


 私は合図で録音を再開し、短く締めに入った。


「ありがとうございます。最後に、遠山さんのフルネームは?」


「遠山……祐二。だったと思う。字は……祐か、裕か、由か。そこまで、はっきりとは」


 赤いランプが消える。窓の外、タグがもう一度だけ短く鳴いた。

 私はカードの「名前は最後に確認する」にチェックを入れ、澪の方を見る。澪の目は、どこか遠く、海よりも時間の方角を見ていた。


 待合の外に出ると、風は少し湿っていた。潮が高い。

 私はベンチの背もたれに地図を広げ、澪と並んで立つ。佐伯は少し離れたところで、フィルム缶を両手で持っている。何かを落とさないように、という姿勢だ。


「三つ、わかったことがあります」


 私は声を落とし、澪にだけ聞こえるように言う。


「一つ。佐伯さんは“呼ばれた感じ”を中心に語る。つまり、感情が時系列を引っ張っている。

 二つ。遠山さんの向きと利き手の情報は、逆光と塩膜に影響されている。左右の判別が難しい状況での証言。

 三つ。名前の字が曖昧。顔パスの可能性はあるけど、台帳に痕跡がない場合、**町の“呼び名”**だけが独り歩きしていることがある」


 澪は小さく「うん」と言い、指先で潮の線をなぞった。


「でも、佐伯さんが嘘をついている感じは……あまりしません」


「ええ。彼は、自分の物語で“空白”を埋めているだけ。罪悪感を薄めるためか、誰かを守るためか。どちらにせよ、悪意の濃度は低い」


 背後で、佐伯がこちらを振り返る気配がした。私は彼に近づき、丁寧に礼を言う。


「大事な話、ありがとうございました。これから、当時の記録と照らし合わせます。もし思い出したことがあれば、いつでも」


「はい。……あの、ひとつだけ」


 佐伯は空を見上げ、言葉を選んだ。


「俺、たぶん、あの日の“また”の意味を、ずっと間違えてきた気がします。**“また会おう”じゃなくて、“また同じことが起きる”**の“また”。そんな気が、今」


 言葉は夏の名残の風に乗り、耳の後ろでほどけた。

 私は軽く会釈し、澪と目を合わせる。澪の瞳に、海の白が薄く映った。


 ターミナルを出ると、港沿いの喫茶〈エトワール〉までの道に、灯りがひとつずつ点り始めていた。私たちは歩きながら、次の手順を共有する。


「次は、喫茶店主・本田の証言を取ります。窓越しに“手を振る影”を見たという人。塩膜と逆光の影響を、現場で再現できる」


「再現」


「はい。同じ窓、同じ時刻帯、同じ潮位。見えた通りに、見えるかどうか。港の噂話は、現場の物理でどこまで剥がれるか、試せます」


 〈エトワール〉の真鍮のベルが、店の前を通った風にほんの少し触れて、鳴った気がした。

 氷の音。コーヒーの匂い。窓の塩。

 港は、嘘を隠すのがうまい。うまいけれど、隠し方は毎回似ている。

 私はポケットの手順カードに、ひとつだけ項目を足した。


 □ 店の窓で、影を厚くする


 潮は満ちつつあった。線は上に書き換えられ、昼の境い目は夜の境い目の下に溶けていく。

 遠くで、汽笛が一度。

 私は数える。一本。

 澪も、同じタイミングで、指を一本だけ立てた。

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