しあわせのかたち

冨知夜 章汰

しあわせのかたち



美佳みか、俺と付き合ってくれ」


 学校からの帰り道、いつもと同じく河川敷を一緒に歩いていたたけるが、立ち止まってそう告げた。


 不意に私の心を突き刺し、理解するまでに少しの時間を要したその言葉。


「健……それって本気?」


「冗談でこんな恥ずかしいこと……言わない」


 健は普段見せない真剣な眼差しと、若干の不安そうな表情をしている。


「俺は、美佳が好きだ」


 健の顔が紅潮して行くのと同時に、私の中で喜びが溢れ始め、目が熱を帯びていくのが分かった。


「ありがとう。私も——健のこと、好きだよ」


 小学生の時から、明るくて頼りがいのある健が好きだった。しかし、それを伝えてしまえば、彼が私を軽蔑するのではないかと心底不安になり、その想いを何年も覆い隠していた。


 健が離れてしまうくらいなら、友達として今のままの距離感でいる方が、よっぽど幸せだったからだ。


 でもこれからは、そんな心にたなびくもやとも決別できる。私たちは両想いだと、知ったから。


 高校生活一年目の終焉が近づく中、少し温かい風が吹くようになっていた。傍の土手に咲いた、揺れている鮮黄の蒲公英たんぽぽが、祝福してくれているように感じるのは、少し自意識過剰だろうか。


 やがて、私たちは大学生になり、社会人になった。そして同棲を始めた。郊外に該当する、決して広くはないマンションの一室。


 それでも私は、健と衣食住を分かち合えるこの空間が、ただただ気に入っている。

 まあ、たとえ古ぼけたアパートでも、童話に出て来るお城でも、それは同じなのだと思う。


「ただいまー」


「おかえりー」


「ん、この匂い……ずばりカレーだな?」


「せいかーい!」


 日常、を具現化したようなこんなやり取りでさえ、幸福感に満たされる。


 そしてまた、季節は流れた。


「ねえ、健」


 仰向けになったソファーでスマホを眺めたまま、健は「んー?」と返事をする。


「あのさ……結婚……とかのタイミングって、その、考えてたりする?」


 健は上半身だけ起こし、腕を組んで目を閉じ、考えるように少し唸ってから「そうだな……まだ考えてない、かな。ごめん」


 別に謝らなくてもいいのに、と私は笑いながら言ったが、本音は少し違っていた。


 あの河川敷で互いの気持ちを伝えてから、まもなく十年が経過しようとしている。


 私のこと、真剣に考えてないの? なんて言葉が浮かんで来て、咄嗟に振り払った。


 私は、健が好きなのだ。


 関係性が夫であろうと、彼氏であろうと、健に対する評価は変わらないではないか。そう自分に暗示をかけるように、本音は心に押さえ込んだ。


 それからしばらく経ったある日のこと。


 私は本当であれば会社の取引先と会議をするため出張をするはずであった。


 ところが先方の都合により、まさかの当日キャンセル。まあ、出発前の報せだったのが、不幸中の幸いと言える。


 せっかくなので有休を使うことにして、私は会社を後にした。


(そういえば、今日は健もお休みだったよね)


 今から帰宅する旨を伝えようとスマホを取り出すが、途中でやめる。

 サプライズ、というのもいいだろう。


「出張無くなったから、今日は一緒に過ごそー!」


恐らくソファで居眠りをしているであろう健を、突如帰宅して驚かせよう。


 などと思案していた時、柔らかな甘い香りが、私の鼻腔を染めた。原因はすぐに判明する。花屋の前を通ったからだ。


 普段、終業して帰宅するような時間帯にはシャッターが閉まっているので、ちゃんと店内を覗いたことはない。


 そういえば明日って——私たちが付き合った記念日じゃん。


 最近は仕事で忙殺されていたので、すっかり忘れていた。これはいい機会だ、花でも買おう。


 普通は、男性がプレゼントするものなのかな? まあ、別にいいよね。気持ちを伝えるのに規則なんてないし。


 ひょっとしたら、健も何か用意してくれているのかもしれない。なんて、仄かな期待に胸を躍らせながら、店員さんにオススメしてもらった可愛らしいサイズの花籠を片手に、帰路へと戻る。


 その時だ。


 を、見てしまった。


 まるで時間が停滞するような、淀んだ空気を吸っているような、そんな感覚に陥る。


 対向の歩道に、健が歩いていた。そしてその隣には、女がいる。

 見覚えのないその女と健は、手を繋いで歩いていた。それも、恋人つなぎで。


 わけが分からなかった。


 今私は、何を見ているのか。互いの歩道の間を車が横切り、二人の姿が見え、また車が横切る。その繰り返し。でも、段々と二人は遠ざかり、やがて姿が見えなくなる。


 それから何分、何十分、私は立ち尽くしていたのだろう。


 どこかを彷徨さまよっていた意識が、不意に現実世界に戻ったのと同時に、もはや駆けるようにして、私はマンションへと向かった。


 自分でも、惨めで情けないと思っている。それでも私は、『人違い』という可能性に賭けたい。


 革靴で走るのは、中々きつかった。息切れもした。それでも、ようやく辿り着いた。


 眼前の扉を開ければ健がいて、隠すこともないあくびと共に「あれ、おかえり。今日出張じゃなかったっけ?」と言ってくれるのではいか。そう期待していた。


 でも、部屋が示した答えは、健がいないという事実だけだった。


 何も考えることができず、キッチンへ行ってグラスに注いだカルキ臭い水を、一気に飲む。


 最初から分かっていた。二十年近い付き合いで、その半分は恋人として過ごしているのだ。人違いをするはずがない。


 それでも私は、何かの間違いだと信じたかった……それなのに……それなのにっ——!

 視界が、滲み始める。

 拭っても拭っても、明瞭な世界は訪れてくれなかった——。




 落ち着いた、というより、もう流れる涙が枯れ果てた私は、健にメッセージを送る。


『出張キャンセルになっちゃって、せっかくだから有休とったの。今帰って来たんだけど、健どこにいる?』


『ごめん、高校の時の友達から「久々に会おう」って急に連絡来てさ、やっと終わってLINE確認したところ。すぐに帰るから、待ってて』


 嘘つき、と入力して、少し迷って、バックスペースキーを三回押す。代替は『うん、待ってるね』という微塵にも思っていない言葉。


「ただいま……いや、おかえりか。大変だったな、出張の用意もしたのに」


 帰宅した健は普段と何も変わらない口調でそう言った。


 一体いつから、健は偽りの仮面を纏っていたのだろう。

 一体いつから、私は偽りの愛に騙されていたのだろう。


 今までの日々に、次々と疑念が生じ始める。考えれば考えるほど、二人で過ごして来たことの意味が分からなくなっていた。


 ——私の幸せは、全て虚像だったのだろうか。


「美佳? どうした?」


 真意か建前か。もはや判断できないが、健は心配そうな表情で私を見つめている。


「……健、一つ訊いてもいい?」


「うん、いいよ」


「私のこと、好き?」


 刹那的に思考を駆り立て、覚悟を決めて、投げつけた質問だった。


 しかし健は、なんの躊躇もなく、「好きだよ、愛してるに決まってるだろ」と答える。

 いきなり何言ってんだよ、そう笑いながら健は私の背中に手を回し、私は彼の肩に顔をうずめた。


 やめてよ。


「もう好きじゃない」って素直に言ってよ。じゃないと、嘘だと分かってても、私は、健の言葉に縋っちゃうんだよ。


 枯れたはずの涙が、また流れてくる。


「泣くなって。大丈夫、俺が隣にいるから」


 大好きな、健の笑顔。健の体温。健の優しさ。これら全てが、私を包んでくれた。


 私はどうやっても、健が好きだ。


 たとえ愛されていなくても、この関係が壊れてほしくない——そう思った時、私の中で、何かが断ち切れる音がした。




「私って、我儘わがままだよね。卑怯だよね。自分勝手だよね」


 ベッドで眠る健の横顔を見下ろし、私は自分の耳でも満足に聴こえないほどの声量で呟く。


「昔だってそう。健に嫌われるのが怖くて、『好き』ってことを何年も隠して、隣に立ってた。今日も……『誰、あの女』って問いただしたら、健が去っちゃうって分かってたから、言えなかった」


 言葉の節々が、自嘲気味になっている気がする。


「でもね健、私決めたの。変わろう、って。もちろん、健のことが好きっていう気持ちは捨てられないけどさ、私は健とお別れしよう、って」


 また、頬を伝う水滴。今日だけでどれほどの水分を目から消失しただろう。

 唾を一度飲み、私は自分の手元に目を向ける。


 キッチンから取り出して来た包丁が、暗闇の部屋で、鈍い輝きをかもしていた。


 あの日、私たちを見守っていた蒲公英は、こんな未来を予想していたのだろうか。

 いや、もしかすると、全てを見透かして嘲笑していたのかもしれない。


 でも、もうそんなことは関係ない。


 私の大好きな健は、私の中で永遠に生きる。

 私の大好きな健は、他の誰にも渡さない。


 愛しい寝顔に「さようなら、ありがとう」と言葉をかけ、私は振りかぶった右手を一気に下ろした。


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しあわせのかたち 冨知夜 章汰 @hudiya_syouta

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