第22話 山怪②


 村岡から渡された、ノートの切れ端製折り鶴が功を奏したのか、準備室を出たあとから放課後に至るまで、龍円は活き活き爽やかな時間を過ごすことができた。

 まるで頭蓋骨を開いて、脳に直接クールミント系清涼剤を振りかけられたような爽快感。心なしか、全身の筋肉痛も解消されたような気がして、龍円は鼻歌まじりに昇降口へ向かった。

 下駄箱で靴を履き替え、久しぶりのニコニコ笑顔でくるりと振り返る。

「約束はどうした、鈴木少年」

「うわっ」

 腕組みつつの鼻白み。眉間に深い皺を刻んだ村岡が、じっとりとした視線をもって、龍円のすぐ背後に立ち尽くしていた。

「鈴木少年?」

「――すんません、ちょっとばかり失念してました」

「君はまず、その短期記憶力のもろさをなんとかしたほうがいいな。すぐに忘れる傾向があるならせめてメモをとれ」

「……肝に銘じておきます」

 さわさわと、周りから自分達に視線が注がれているのを、その時になって二人はようやく感じとった。ちらと視線を交わし合う。

「とりあえず、出ましょうか」

「ああ、そうしよう」

 昇降口を出て、その足で駐輪場へと向かう。各々自分の自転車を携え、隣に並びグラウンドの端を過ぎる。

「村岡先輩、『調査部』の方は行かなくて良かったんですか?」

 今日は月曜。月金は『調査部』の活動日だったはずだ。

「ああ。基本的に活動には参加しとらんよ、私は」

「そうなんですか」

「あの同好会はな、あの二人のために設立したものなんだ」

「鍵丸さん達の?」

 村岡は薄く微笑む。

「事情は聞いていないが、調べないといけないことがあるそうだ。学内で大っぴらに動くには、学校側の公認を得ていた方がいいだろう?」

「確かに」

 二人は自転車を押しながら校門をくぐった。

 からからと、二台のタイヤが回る音が重なる。今朝の足音とは違って、そこに不快感はない。ただ、誰かと並んで歩いていることが、こんなにも気にならないというのも珍しかった。

「同好会の設立には部員が三人必要で、部に昇格するには五人いる。だけど、本命の調査をするにあたって、どうも二人は部外者に深く踏み込まれたくないようなんだな」

「部外者って、村岡先輩も部員なのに」

「だから名義だけ貸しているという距離感にしてあるんだよ。へんに物分かりが良いようなふるまい方もしたくないしな。あいつらに遠慮してるような形になったら、逆に気を使わせるだろうが、そういうのって」

「ですねぇ……」

「だから、私一人が名前だけ貸して、同好会のままにしておくというのが一番都合がいいって話だな」

「なるほど……最初っから、部にしようって気ぃはなかったんですね」

 村岡は「そう」と大きく頷いて見せた。

「大人数になればなるほど、かえってやりにくくなる――だから、鈴木少年」

「はい」

「もう、椎菜と茜はこの件から離す」

 思わず龍円は立ち止まった。そのことを察知したのだろう。数歩先で村岡も立ち止まり、ゆっくりと半身だけで振り返る。

 やわらかく暖かな風が吹き、村岡の長い髪をもてあそぶようになびかせた。

 龍円は、ゆっくりと息を吸い込み、そして吐いた。

「――それは、それだけ危ない、ということなんですね」

「ああ。君も二人を危険な目に合わせたいわけではないだろう」

「それは、もちろん」

 村岡は視線を空に向けた。

「足手まとい、とまでは言わないが、ただでさえ私の力だけで対抗することは難しい相手だ。そういうものを何とかしなくてはならない時に、守らなくてはならないものが多くなるというのは――」

「一番都合が悪い、と」

「そういうことだ」

 龍円は、ここにきてようやく、自分が何をしたのかということに思い至った。

 これは本当に重い事案なのだ。空也を助けたいという、ただその一心で龍円は動いてきたけれど、その結果、自分は村岡や鍵丸達を当たり前のようにこの渦中に巻き込んでいる。

 誰かどうか助けてほしいと、方々へ向けて手を伸ばした。

 その結果、手が当たった人達までが、空也のように『甲子園の魔物』に巻き込まれたとしたら?

 脳内で、ようやくそこまで言語化が進み、龍円の頭皮に鳥肌が立った。

「あの、村岡先輩」

「なんだ」

「先輩は、ええんですか?」

「いいって、何が」

「先輩は、そもそもこの件とは関係がないのに、こんな、俺等のせいで巻き込んでしまうことになってるやないですか」

 村岡は、ぱちりと一つ瞬くと、自転車のスタンドを蹴り上げその場で自立させた。そして、つかつかと近付いてくると、右手を龍円の目の前に持ち上げた。

 ばちん! と豪快の音と共に、龍円の額に激痛が走る。

「いってぇ!」

 衝撃と痛みに仰け反りながら、龍円は額に手を当てて自転車と共に地面に崩れ落ちかけた。ギリギリのところでなんとか耐え、涙目で顔を上げれば、目を細めた村岡が厭そうに龍円を見下ろしていた。また下目遣いである。

「先輩、デコピンは酷い……」

「とり憑かれて霊が見えるようになっただけの、ただのパンピーが何寝言言ってんだ馬鹿ッタレ」

「ばかっ……」

「いいか? 鈴木少年」

 村岡の指先が伸びて、今しがた重い一撃を食らわせたばかりの龍円の額を指先でこする。

「この世にはな、君の知らない世界がある。そしてそれは、君の知らない構造体によって成立しているんだ。君にとって今回の件は、君の生きる価値観や世界の中で共存できるものだろうか?」

「いえ――いえ、違います」

 問われた瞬間に、答えは反射のように龍円の口から飛び出た。

 村岡は薄く微笑むと、ゆっくり頷いてみせた。

「そう、これはな、君の生きる世界に対して、関わるべきでない世界が越境して混じりこんでいる状態なんだ。君はこれを排除しなくてはならない。そして」

 村岡は背を真っ直ぐに伸ばすと、くるり背を向けて自分の自転車へ向かった。

「これは、私の生きる世界の話なんだよ。つまり、私はもう我が事としてこの件に関わっているんだ。だから、最後までやらせてもらう。そして君はそのことに対して負担に感じる必要もなければ、巻き込んだなんてお門違いなことを思わなくていい。いいな」

「――わかりました」

「さ、そういうわけで、一緒についてきてくれ。鈴木少年」

「えっと、それはどこに……?」

 村岡は自転車のスタンドを蹴り上げ、髪をさらりと背中に流した。

「私の自宅」


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