5.山怪

第21話 山怪①


 翌月曜日。

 通常よりも早い時刻に登校した龍円は、到着するなり教室ではなく、図書準備室へと向かった。

 階段を上れば足音がする。人気の少ない校舎の空気は、しんとして動きがない。ぺた、ぺた、ぺた、ぺずる、ぺたずるり、ぺたずるり。

 二つの足音が重なりながらも、ズレて反響するのが気持ち悪い。

 ――ついてきているのだ。後ろから。

 決して振り返らず、二階フロアまで上がり切る。すると、ぴたりと足音が止まった。一瞬、龍円は躊躇したが、気に留めていると思われることも恐ろしいので、そのまま俯きがちに先を急いだ。

 図書準備室。

 中には気配がある。

 すうと息を吸い込んだ。大丈夫。これは生きた命の気配だ。

 ノブに手をかけ一瞬止まる。息を吸い込み、きゅるっと回す。戸には鍵がかかっておらず、溜息交じりにがちゃりと開けば、奥の窓際、長机の上で、足組み腰かけ厭そうな顔をした村岡の姿があった。

 先日電車で見たのが上目遣いと言うならば、尖ったおとがいを持ちあげて、細めた切れ長の目で視線をくれるこれは、差し詰め下目遣いとでも呼ぶべきか。

「――どうして早朝から呼び出されたのか、理解はしているか? 鈴木少年」

 バレている。これは明らかに空也の所へ単独行したことがバレている。

 答えられぬまま、気まずく準備室の戸を閉めると、村岡は綺麗な髪をぐしゃぐしゃと掻き毟ってから、ぐしゅりと顔を歪めた。美人が台なしである。

 そこで龍円は、自分がこの奇妙な先輩の容姿を、少なからず美人と認識していたことに、今さらながら気が付いた。

 これは恐らく、近くにいる鍵丸シスターズの容姿が突出して優れているためだろう。村岡も、そこそこどころかなかなかの美人であるはずなのに、シスターズのせいでその事実が霞んでしまうのだ。村岡ですら霞むのならば、自分など路傍の石に違いない。もしくは草か。

 といったよそ事に心を移していたことがバレているのだろう。村岡は更に厭そうに顔を歪めた。

「鈴木少年。君は反省という言葉を知っているか」

「――一応は」

 村岡は、更に呆れたように首を傾げて両目を閉じた。「はああ」と深い溜息を吐く。

「見せろ」

 手を差し出されて、観念した龍円は、ポケットの中に仕舞いこんでいたものを取り出し渡した。

 すっかり焼け焦げてしまった紐の残骸。焦げてしまったところに触れたら、ぶつりと千切れてしまったのだ。

 村岡はそれをしげしげと見つめてから、再び溜息を吐くと、ポケットから取り出した白いハンカチにくるんで、またそれをポケットの中にしまった。

「君、この程度で済んで強運だったと思えよ」

「――そうなんですかね」

「全く、君は自分が置かれている状況を全く理解していないな。私が空也少年のところへ一人で行ってはいかんと言ったことは、その脳味噌から零れ落ちてしまったのか?」

「あんまり、よくわからんくて……」

 じろり、と村岡は視線が龍円の輪郭をなぞった。

「――君の魂は半ば捕まっているようなものだからな、思考をぼやけさせるのも簡単なんだろう。全く、なんて怨嗟だ」

「オレの魂は……捕まっとるんですか」

「死ぬぞ、このままだと」

 死ぬ。

 村岡が口にしたその言葉に、龍円は奇妙な安堵を覚えた。

 死。寺の子である龍円だからこそ、他の同世代よりは日常と密接に結びついているその現象、その事実。

「なんとなく、そんな気はしています」

「そんな気はしていますじゃあないんだよ。このすっとこどっこい」

 とすんと机の上から飛び下りると、村岡は龍円に親指でパイプ椅子を指し示した。

「座れ。私等と桜駅で別れた後のこと、思い出せる限りでいいから聞かせろ」



 村岡の要請どおり、一部始終の説明を終えたあと、

「せやで、その後、自分がどうやって家まで戻ったんか、オレ記憶がないんです」

 と、龍円は言葉を結んだ。

 村岡は顔をしかめると、腕組みの背中を丸めて「ううむ」と唸った。

 龍円と村岡は、各々パイプ椅子に座り向かい合っていた。窓から差し込む光の角度が、説明のし始めよりも随分と高くなっている。あと三十分もしないうちに、校内は学生の肉体が発散する生命力と、自己主張を伴った大声での応酬でいっぱいになるだろう。

「鈴木少年と同じ顔をした竜円という名の僧侶と、あかねたすきをかけた空也少年に似た茶摘み女か。そして竜円和尚は茶壺を手にして、そこに女の生首を抱えていたと」

「いや、生首かどうかまでは……」

 龍円が訂正しかけたのに、村岡は「現実的に考えろ」と切り捨てた。

「茶壺なんてそもそも小さい物だ。茶葉を容れるためのものなんだから口も狭いし、肩が通るはずもなければ胴が収まるわけもない。それに、どれだけ和尚ががんばったとしても、人が手で抱え持てるのは40センチ四方までだろう」

 確かに村岡の言うとおりだった。

 普通に考えれば、あれはどう見ても生首だろう。あの茶壺の中に人間の全身が収まるとはまかり間違っても思えない。

 だが、龍円がそうと断言しにくかったのは、そう思いたくなかったというのも事実だが、あの僧侶の抱えた女の顔が、妙に健康的に見えたからでもあった。

「少年、他に何か気が付いたことはあったか」

「気が……ああ、あの、茶壺の上の方にちっちゃい持ち手があって、あれは、多分四つくらいついとったんかな。小さすぎて持ち手としては使えないかなって」

四耳壺しじこだな。まあ葉茶壺としてはスタンダードか」

 村岡は再び「ううむ」と唸ってから腕組みを解き、ポケットに手を入れて中からハンカチを取り出した。

「この組紐には、私の髪が編みこんであるんだ」

「えぇ、何それキショ」

「キショとか言うな! これがなかったらお前、土曜の夜でアウトだったんだぞ?」

「えー、でも説明くらいは」

「あの場でできるわけなかろうが」

「あ、椎菜先輩にもつけさせてましたよね? あ、あれも黙って勝手にやっとるんや」

「それはいいからちょっと黙って話を聞け少年」

 村岡は手の中のハンカチに目を落とした。実際に意識されているのは、その中に包みこまれているダメになった紐の方だろうが。

「いいか鈴木少年。私の一部や、もしくは私の念が込められたものを身に着けていれば、多少のものなら弾き飛ばすことができるんだ。だが、『甲子園の魔物』に対応するには、どうやら荷が勝ちすぎているらしい」

「先輩では太刀打ちでけん、いうことですか」

「そうだ」

 溜息を吐くと、村岡は顔を上げて龍円の輪郭を視線でなぞる。

「やっぱり、昨日一人で行かせたのが拙かったな……前よりも道が太い」

「太い、ですか」

「極太だ。首というか、頭と同じ太さになっている」

 言いながら、村岡は両手を耳にそえて、それを真っ直ぐ上に伸ばした。

「ええ……そんなノリでその道とかいうのん、オレについとるんですか?」

「まあな」

「昔のビジュアル系が、髪真っ直ぐ上に向けておっ立ててるみたいな感じですか?」

「もしくはヘンターヘンターのゲンさんだな。長いから」

「その道って、先はどうなっとるんですか?」

「わからん」

「わからんですか」

「ああ。見えないからな。恐らくは空也少年のところだろうが、その空也少年自身が根なのか、それとも彼からもまた何かへ向けて道が伸びているのか――それは実際に見てみないと、私にもわからんよ」

 と、廊下から学生達の笑いが聞こえてきた。

「ああ、もうこんな時間か」

 村岡は、取りだしたスマホを見下ろして、時刻を確認すると立ち上がった。

「鈴木少年、話の続きは持ち越しだ。放課後、ちょっと私に付き合え。あとこれ持っとけ。放課後までならそのストーカーの目も欺けるだろう」

 村岡が差し出した手に、自分の手を差し出し返せば、ぽとりと落とされたのは折り紙の鶴。

 答えに否やの余地はなかろうと、龍円は大人しく頷いた。

 鶴が和紙の折り紙などではなく、ノートの切れ端というのが、如何にも村岡らしかった。



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