第20話 されこうべと血⑥
駅前の駐輪場に向かい、自分の自転車を引っぱり出して、道路へ出たとたんに、ふと立ち止まった。
「――あれ、」
と。ぼんやり思う。
なんだろうか、思考が、妙に間延びしているような。
頭の中で、自分の中身がみりっ、と剥がれかけているような。
なんだろう。おかしいな。
何だか、やたらと暗い。
さっき電車の中で見た景色は、ほんのりとした闇の乗る夕景だったのに、ほんの一瞬の差で、周囲にはもう闇が満ちている。
闇、そう、闇だ。
深い。肌を舐めるような闇だ。
じりじりじりじり。
どこかから音が、龍円の鼓膜を直接刺しにきている気がする。
駅周りが、暗い。住宅街でもあるはずなのに、人の気配が驚くほどに薄い。
見上げれば、電柱に取り付けられた街灯が明滅している。細い路地。電柱同士の間隔は、やたらと距離が取られている。
ああ、と思う。
事故に遭ったあとの感覚がよみがえる。
全身が絶望に満ちて、めりめりと、自分が内側に剥がれ落ちてきて――やたらと、悲しくなった。
そうだ、空也。
どうしているだろうか。
そういえば今週は顔を見に行っていない。
淋しがっていないだろうか。
そう思ったら、もう。
ペダルを踏みだした。軽い。こんなにすいすいと自転車が進んでゆく。まるで呼び寄せられているように。
ああ。会いたい。
早くりんに会いたい。
こんなに長く待たせてしまうなんて、私はなんて薄情な、悪いことをしたのだろうか。心細かったろうに。こんなに遅れてしまうなんて。
約束をした。
あの白い手が私に取りすがり、朱に染まった眦に涙を溜めて言ったのだ。
――霜が終わるころ、どうぞ迎えにいらっしてください。
長い坂道の負担も感じなかった。竹林がざわざわと黒く揺れていた。車は走っていなかった。人の気配は、影のようだった。
斉藤家の敷地内に入る。
チャイムも鳴らさず、がらりと引き戸を開ける。
暗い。暗い。家の中いっぱいに重たい空気が詰めこまれて、溜息のように沈んでいる。
人の気配は、ない。
命の気配が、ない。
二階に、ただうぞうぞと蠢く、命を感じられぬ何かがいる。
ああ。あぶくだ。
やはりそうなのだ。
靴を脱ぎ、階段を上がる。
有機物も無機物も、あらゆるものを投げ込んでドロドロに煮溶かしたような、
ああ、ほんのり甘くて酸い、そして強烈な吐き気を誘う匂いが、ぷうんと。
二階へ上がり切る。左手へ曲がる。
何かの中から、ごぼりと湧き上がった、切ない吐息のような、そんな、
ドアの前に立つ。
りん。
いるのか。
ぎいと、ドアが、
ドアが、開いた。
白い手が、にゅうと細い隙間から突きだされる。
差し出された手の中には、小瓶があった。
ことりと、廊下の上に置かれる。
土だ。
黒い土が、わずかばかりその中に収められている。
白い手が離れたところで、その小瓶を取ろうと手を伸ばした。左手を伸ばした。
とたん、
白い手の指先が、ぬるりと嬲るように龍円の手の甲をなぞった。
ぞくりと得体の知れぬ何かが腹の中を這いあがる。これ、これは、いや、お前は、私は一体――
「竜円さま」
ばちん! と龍円の手首で電光石化の光が弾け、火が飛んだ。
はっとして慌てて立ち上がる。小瓶が倒れ、龍円の爪先に、手に黒土が飛び散った。
どくどくと心臓が暴れ、全身から汗が噴き出る。
目を見張る先には、まだドアから未練がましげに突き出された白い手がある。あの指先が手に触れた瞬間、龍円の頭の中に見知らぬ記憶が広がった。
霧の深い山の中、一面に見えるのは、ただ木々ばかりか。
ぼんやりと霞む視界の中、色の白い、どことなく空也に似た顔の茶摘み女が、こちらを見て微笑んでいる。
「りん」
自身の口が微笑みながら、目の前の女を呼ばわった。
女へ向かって一歩を踏み出す。
じゃばり、と、爪先が濡れた。
見下ろした足元には、深く大きな水たまりがある。素足に草履、濡れた足。
そこに写り込む姿に、龍円は目を見張った。
水の中の男は、僧形である。
その手に抱える大きな茶壺からは、血まみれの、白い顔がはみ出ている。
慌てて顔を上げた。
目の前に立つ茶摘み女が、苦し気に小首を傾げる。
龍円は再び水の中へ視線を落とした。同じ顔だ。茶摘み女の顔が、茶壺からはみ出ているのだ。
どう考えても、人体全部が、いや、胴体自体が収まるとは思えぬ大きさの茶壺から、ぬるりと首が、首と黒髪だけがはみ出て――。
龍円の呼吸が引きつり震える。腹が、肺が、痙攣したかのように震えている。
水の中の男は、己と、龍円と、全く同じ顔をしていた。
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