第8話 甲子園の魔物②


 これは――と、龍円は口元を手でおおいながらモニターに見入った。

 学校の外にあるグラウンドを使う野球部。それは菰野岩も同じだ。

 水泳部も、確か夏季以外は全国に何百と拠点がある公共スポーツ施設を利用していると聞いている。

 球児の霊。しかも七不思議。

 何となく直感で、これは菰野岩の人間が書き込んだもののような気がした。

 確かに、菰野岩が春夏どちらにも出場していることは聞き知っている。だが、甲子園出場経験者が自殺しているという話には聞きおぼえがない。単に龍円が知らないだけかも知れないが、それでも、この辺りの地域性というものがある。

 こういったセンセーショナルな話は、必ず噂となって皆に共有される。龍円の場合は特に家が寺であるから、どこそこの誰が亡くなっただの、いつが四十九日でいつが三回忌だのということは、日常の業務連絡として嫌でも耳に入るものだ。

 更には龍円の野球経歴がそこに加わってくる。子供が少年スポーツをやっている場合、その保護者達の間では、該当するスポーツに関連するニュースは良いものも悪いものも全て筒抜けになるものだ。地域の野球少年が亡くなったならば、弔問関係で必ず連絡が回る。自殺だったならば、その情報も一緒に伝えられる。

 知れ渡るのは子供の成績や振る舞いばかりではない。その親の職業やチームへの貢献度、加えて家庭状況や、特定の政党と関りがあるかどうか、家ごとの信教があるのかどうかにまで詮索が及ぶ。

 これには仕方がない側面もある。父の見解からの受け売りである部分が大きいが、一つの母集団が存在する時、それを形成する人間全員には、必ずその母集団意外にも所属する集団があるからだ。

 龍円自身も当然そうだ。龍円は菰野岩高校の生徒だが、同時に鹿鈴寺の宗門後継者候補でもある。そして現在は脱退しているが、元々は地域のリトルシニアにも所属していた。一口に『菰野岩高校生』と言っても、各々の学生には、それ以外の属性が必ずあるということだ。

 一つの母集団が結束しようというとき、一人の個人がもつ別側面が、その母集団の維持にとって、マイナスとして働く可能性は必ずおこりうる。そういうことは、常に意識のどこかに置いておかなくてはならないのだ。

 甲子園までいった球児の自殺だなんて、悲劇であり、場合によってはスキャンダルとして妙な詮索を受けかねない事件だ。この自殺が野球とはまるで関係ないことのせいで起こったのだとしても、『甲子園帰りの球児』という派手な看板がその選手についているだけで、人間はそれを枕詞にして拡散しようとする。

 だからこそ、個人が母集団の外で所属している他集団が妙なものでないかについて目が光らされる。そこで何かがあった時に、チームが巻き込まれて同じように色眼鏡で見られるわけにいかないからだ。

 だからこそ、礼儀を持って、身を正しくしておかなければならない。

 大人数で行うスポーツだからこそ、練習以前に大前提として個人が叩き込まれる部分だ。

 チームを守る。チームに迷惑をかけない。

 ――そのために、自殺という事実が隠蔽された可能性はないとはいえない、というのが、今の時点での龍円の結論だった。

 いつだったか、父とこんな話をした。まだ龍円が小学生のころのことだ。

 夏だった。縁側で夕涼みをしながら、蚊取り線香を焚いて、二人並んでアイスを食べていた。何かの拍子に、父はこう切り出した。

「なあ龍円。ここに、一つの集まりがあるとするやろ?」

「うん」

「この集まりが安定してる時、それは一体どんな形をしとると思う?」

「え、形?」

「そう、形。イメージやな」

 うんうんうなりながら、唇を尖らせて考えてもわからなかった。素直に龍円が降参すると、父は両手を持ちあげて、手のひらを使って丸く円を描いた。

「まる?」

「正確には、球体やな」

 瞬きしながら父を見つめていると、父は、多分笑った。

「守りが硬い状態とは、つまり球の形に整えられとるんやな。それは言いかえると、飛び出たり、尖ったりしたものは削り取られて、のうなってしまうということでもある」

「――それって、チームワークからはみ出るヤツは嫌がられて、言うたらなんやけど、ハブられるってこと? 森みたいに」

 その話をする直前に、チームから脱退した森というメンバーがいた。決してめちゃくちゃ悪いヤツではなかったが、試合の選抜メンバーに選ばれなかったり、希望のポジションにつけなかったりすると、あからさまにやる気をなくしたり、選ばれたメンバーに嫌がらせをするということがよくあった。

 父も、母から経緯は聞いていたから、事情については心得てくれていた。だけれど、それについてははっきりとは答えずに、手を伸ばして龍円の頭をなでた。

「俺はな、龍円。お前の野球のボールを見るたびに、こういったことを考えるんや」

「ボール?」

「ああ。全てのものは、人間も含めて、安定できない場所には居続けられんのや。やから、不安定にさすもんを削って、安定を目指す。それが強さを目指すいうことなんやと思う」

「なんや、父さん、むつかしい」

「むつかしいで。せやからな、歪な形をしたものは、きっと優しいねん。合わんもんも何とか受け入れて、一緒に続けようとか、一緒に生きようと努力するんや。せやけど、それはな、やっぱりもろさとの抱き合わせやねん」

 ぽとりと、蚊取り線香の端から灰が落ちた。

「何かを目指すということは、それ以外の何かを諦めたり捨てるということや。お前が野球を本気でがんばるのは、野球を選んだからやろ」

「うん」

「それは同時に、他のことで遊んだりがんばることを捨てたということでもある。一途とは、そういう残酷さを含むからこそ、より一層強く純粋になるんやろな」

 龍円は、手元のアイスの棒を見た。食べ終わってしまったアイスのあとに残ったこの棒は、じゃあ何だったのだろうかと、そんなように思った。

 なんだか、酷くやるせなかった。

「せやけどさ、父さん。その削ってまったもんがさ、球にとっては邪魔になるもんやったんかも知らんけどさ、その球の中ででっかい部分を占める強い人にとってさ、球とは関係なくても、それがめちゃくちゃ大事なモンやったらどうなんの?」

 父の目が、わずかばかり見開かれて龍円を見た。

「せや、な……その時は、その人が、その球を見捨てて、出て行ってまうんかも知れんな」

「ほしたら、その球はどうなんの?」

「――崩れて、バラバラになる、んやろうな」

「せやったら、そういう時はどっちが優先されるん? 球が壊れんように、そのとんがりを見て見ぬフリして球の隅っこに残すん? それとも、そのでっかくて強い人がいなくなることも受け入れて諦めて、新しく理想の球を作り直すん? でも、それって元の球よりも絶対弱なるし小さなるよな? どっちの守り方が正しいん?」

 父は黙った。黙ったまま、再び庭に目をやった。

「――せやなあ……だからこそ、理念とか信念が大事になるいうことなんかも知れんな」

 そこで、唐突にタブレットのスクリーンがブラックアウトして、龍円は、はっと現実に引き戻された。

 マウスを回して、画面を再び表示させる。

 あの時父と交わした話は、当時の龍円には難しくて、いまいち意味がよくわかっていなかった。

 だが今にして思えば、父の反応からも見て取れるように、決して龍円も的外れな回答をしていたわけではなかったのだろう。

 集団の結束を高め、これを守り続けるということは、とても難しいことであり、残酷なことだ。

 グラウンドに出る球児の霊。

 龍円自身も、川辺グラウンドには行ったことがある。この話が菰野岩の話ではなかったとしても、これが本当の話であるならば、日本のどこかに、野球に対して未練を残し、命を絶った人がいたということに変わりはない。

 それは、もしかしたら龍円自身の姿だったかも知れないのだ。

 失った夢に対する絶望か。

 あるいは、その彼自身が、球を守るために削り取られたとんがりであった可能性もあるだろう。

 龍円の胸の中に、黒くぞろりとしたものが過る。

 スクロールして、次のトピックを眺めた。


 202●/5/13


 なあ、聞いたことないか?

 甲子園の魔物の話。

 甲子園に行ったヤツの中で、魔物に取り憑かれるヤツがいるって。

 オレの兄貴がそうなんだ。

 ああ。ずっとスゲーかっこいいヒーローだったのに。

 甲子園から帰ってきてからおかしくなっちまって。

 飛び下りたよ。団地の六階から。

 ああ。怪物が出るんだって、怯えてた。

 なあ、誰かなんか知らねぇか。

 兄貴は、なんで死ななきゃならなかったんだ?

 誰か、教えてくれよ。


 週末が終わってしまえば、また学校に行かなくてはならない。そのことを考えると、この夜がまた憂鬱になった。タブレットの電源を落として、ベッドの上にごろりと身を横たえる。

 とたん、

 ――龍! これ漫画見して!

 はっとして龍円は目を見開いた。

 このベッドの上で寝転がりながら、当時はやっていたコミックスを持ちあげて見せた空也の屈託のない笑顔が脳裏に過ぎったのだ。

 喉の奥で唸り声を噛み殺しながら、龍円は唇を噛みしめた。布団の中で何度も寝返りを打ちながら、どうしたものかと頭を抱え身体を丸める。

 久しぶりに見た生身の空也の姿が、肌の感触が、匂いが、一気に固まりとなって龍円の全身に襲いかかってくる。浴衣の衣擦れの音、赤い唇、耳にかかった吐息。


 ――霜が終わるころ、どうぞ迎えにいらっしてください。


 あの空也は、明らかに異様だった。龍円の知る、龍円が人生の大半の日々を共に過ごしてきた空也とは、明白に異質な存在だった。

 それなのに。

 声が。

 あの声は、明らかに空也で。

 皮膚の奥に感じた骨格も、間違いなく空也で。

 頭と心がぐちゃぐちゃになって、爆発しそうになるのを、龍円は、自分の身体を必死に掻き抱くことで、何とか押しとどめようとした。

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