第9話 甲子園の魔物③


 翌朝。目が覚めて感じた光の強さに、あれ、と驚いた。

 野球を止めて以来、休日にはアラームを掛けないことにしている。だからすっかり寝過ごしてしまった。

 枕もとのスマホを取りあげて見れば、表示はすでに十時半を回っている。

「うわ……」

 頭に手をやりながら、龍円はのろのろと身を起こした。熱は完全に下がったようだが、半端に睡眠サイクルが昼夜逆転したせいで、全身にだるさが残っていた。

 階段を下りて台所へ向かう。木造の段は降りる度に、とん、とん、と軽快な音色を刻む。老朽化に伴い、三年前に普請ぶしんしてからの変化だ。以前は足を着けるたびに、ぎしぃ、ぎしぃと姦しく、一体いつ誰が踏み抜くものかとひやひやしたものだ。結局、龍円か空也の足が板をぶち抜く前に、父が「修繕する」と重い腰を上げた。

 檀家さんには「今回は自分とこの貯えでやります」と父は報告したらしいのだが、発注した先の大工の宮里さんが檀家さんで、その宮里さんが材料を仕入れた製材所の川藤さんもまた檀家さん。結局色んなところから寄付が集まって、随分とまけてもらったらしい。

 一階にまで降りれば、目の前には玄関、右手には台所だ。台所が見えれば、龍円の身体は自動的に腹が減るシステムになっているらしい。ぐう、と胃が伸び縮みした感触に手を当てたところで、

「お、起きたか」

 と、背後から声が聞こえた。

 聞きおぼえのある声に、龍円ははっとして振りかえった。視線を向けた先、左手にはリビングがある。リビングと呼ぶのは誇張が過ぎるか、八畳の和室と洋室の二間を、常に開け放った状態にしてあるだけの、ただ広い空間だ。

 その和室側に設えてある布製のソファの上で、見慣れた男が足を組みつつ、だらりと身体を沈めている。

「あ」と口を開いた龍円の顔を見て、男はにやっと片笑み左手を上げた。

「おう、久しぶりだな龍」

こう叔父さん」

 痩身の上に不精ヒゲ。天然パーマの髪は肩まで伸びかけている。上から下まで黒一色のコーディネート。一見して胡散臭いという評価が最もふさわしく思われるこの男、実は元刑事で現在の身分は私立探偵という、身内きっての変わり種だ。

 蛇来へびらいこう。母方の叔父である。

「どうしたん? ウチにくるん、めっちゃ久しぶりちゃう?」

「ちっと仕事の都合でなー」

 残りの短くなった煙草を灰皿でもみ消すと、庚午は麦茶に口をつけた。

 庚午の対面にあるソファに座りながら、龍円も背もたれに身体を沈める。

「仕事って、前にも言うてたアレ? 昔からずっと調べとるっていう案件の」

「そう」

 庚午は、それ以上のことは決して口には出さない。守秘義務というものがあるのだそうだ。

 しばらく前に四十を過ぎて、随分と落ち着いたなという印象はある。浮いた話はチラホラ聞かせてくれるものの、結婚となると、とんと話が繋がらない。本人にその気がないのだろう。

「いつまでもフラフラして」と、お祖父ちゃんお祖母ちゃんも渋い顔を隠さないが、蛇来の家は別に本家があるのだから、気にする必要はないだろうにと、龍円はひっそり思っていた。

「あれ、あんたいつの間に起きたの」

 廊下側に目を向ければ、母がトレーを手にリビングへ入ってきたところだった。

「おはよう母さん」

「熱は?」

「ない」

 母はローテーブル横で膝をつき、トレーに乗せていたサンドイッチとコーヒーを庚午の前に置く。

「あんがと姉ちゃん」

 庚午が手刀を切ると、母は小さく頷いて見せた。

「胡瓜は抜いてあるからね」

 取り上げた一切れの断面を見つつ、庚午はにやりと笑う。

「せんきゅー。アレ母ちゃんさあ、何回言っても抜いてくれねぇんだよなぁ」

「だって面倒でしょう、あんただけのためにワザワザ変えんわよ」

 それから龍円に目を向けつつ、「あんたも同じものでいいわね」と立ち上がった。

「うん、ありがと」

「食べたらちゃんと着がえなさいよ」

「はーい」

 台所の奥へ向かった母の背を見送ると、庚午が皿を龍円へ向けて押し出した。

「ほれ、いっこ先に食え」

「いや、いいよ。だってそれ辛子塗ってあるでしょ」

「お前まだ辛子だめなんか」

「サンドイッチには嫌ってだけだよ」

 ふとそこで会話が途切れた。庚午は間を置いてから、手にしていた一切れを口に入れた。

 咀嚼音から、胡瓜の代わりにレタスが挟みこまれていることがわかる。龍円は視線を落としながら、ポケットからスマホを取り出し、ホーム画面からスクロールしてアプリ画面に入った。何かを見るつもりでもなく、ただ手持無沙汰なのを誤魔化すためだった。

 そこで、あ、と気付いて顔を上げた。

「庚午叔父さん、あのさ」

「おん」

「叔父さんて、昔っから怖い話めっちゃ聞かせてきよったやん。なんか、今もさ、怪談とかオカルトとかって調べよるん?」

「ああ?」

 次のサンドイッチを口に入れる目前だった庚午は、大口を開けて小首を傾げた状態で、きろりと視線を龍円へ向けた。

 庚午は昔から大の怪談好きで、あちこちの話をのべつまくなしに採集しては、龍円に語って聞かせて泣かせてきた。そのことを唐突に思い出したのだ。

「ああ。調べてるぞ。なんだ? なんかあったか?」

「あの、それがさ、あ、ちょっと待っとって」

 龍円は立ち上がると、二階の自室に駆け上がり、タブレットを持って戻った。昨夜調べた時と同じ条件で検索をし、その結果を表示させてから話を進める。

「学校で女子が七不思議の話しよってさ、そん中に、自殺した野球部の霊って話があって」

「ほぉん?」

 庚午はサンドイッチを一口で頬張ると、咀嚼しながらコーヒーに手を伸ばす。

「ええと? ちょっと詳しく叔父さんに教えてみなさい?」

「菰野岩の野球部って、川辺にあるグラウンド使っとるんやけどさ、そこに自殺した野球部の霊が出るらしいん」

「俺は初耳だな、それは」

「でさ、これ見て。調べてみたら、どこの話かはわからんのやけど、『グラウンドに出る球児の霊』っちゅー話がヒットしてさ」

「んんん?」

 庚午がテーブルの上から身を乗り出し、上から龍円の操作するタブレットを覗き込む。

「これ。オレには菰野岩の話やないかって思えたんよ」

 庚午はついにテーブルを回って龍円の隣に腰を下ろした。

「ああこれか、俺知っとるわ」

「ほんまに?」

「おお、ほんまや」

 庚午はおしぼりに手を伸ばして手を拭いてから、タブレットの画面に指先で触れた。

「これ、オカルト好きの間では定期的に聞く話だ。甲子園帰りの元高校球児達の中で、地元に戻ってから、おかしくなってしまうヤツがいるらしいって」

 龍円の背筋に、ぞっとしたものが這い上がる。

「甲子園帰り……?」

「そうだ。数年置きに別件として浮上してくるから、なんか規則性があるんじゃねぇかって調べてる物好きもいるんだが、なんせ発生件数が地味に少ないのと、発生時期が五年十年単位で、発生場所もガッツリ離れてるから、霊を目撃しておかしくなるのが甲子園帰りの球児ってこと以外の共通項がつかめねぇのよ」

「全国各地に散ってるってこと?」

「そう。だからこの話も菰野岩の話とは断言しづらい。部活状況がこういう条件下にある高校なんて、いくらでもあるからな」

 不精ヒゲを撫でながら、庚午が流し目で龍円を見下ろす。

「――甲子園には魔物がいる。お前を魔物にする、とても恐ろしい魔物が――ってな」

 とたん、龍円の脳裏に空也の姿が過った。

 一瞬で頭皮にまで鳥肌が立ち、思わずびくりと庚午から後退あとずさる。

 そんな龍円の様子を見て、庚午は片眉を上げてから、にやりと笑った。

「どうしたー、お前そんなビビリだったかぁ?」

 最初、龍円のことをにやにやと見下ろしていた庚午だったが、龍円が俯いたまま震える手で自分の身体を抱えていることに気付き、すっと真顔になった。

「どうした?」

「――それ、友達もかも知れんのや」

「……なに?」

 今度は庚午の声色が変わる。

「どういうことだ」

「リトルシニアの頃からオレがバッテリー組んでた、斉藤空也って、話したことあるやろ」

「ああ、覚えとる。え、まて、そいつが?」

 龍円はこくりと頷いた。

「去年、海青から控えのキャッチャーで甲子園行ったんやけど、そのすぐ後から引きこもってまって……ずっと部屋からも出て来とらんかったんやけど、昨日、いや一昨日金曜か、久々にドア開けてくれたと思たら、なんか、めっちゃおかしい感じになっとって、変なこと言うたんや」

「変って、どんな」

「――『霜が終わるころ、どうぞ迎えにいらっしてください』って」

 庚午の顔が、剣呑な表情に変わる。と、ぱたぱたとスリッパの近付いてくる音がした。

「龍ーサンドイッチできたでー……って、ちょっと、あんたらなんでそんなくっついとんの」

 庚午がすっと左手を上げた。

「姉ちゃん、これ食べ終わったらさ、ちょっと龍円連れて出てもいいか?」

「何? どこに?」

 庚午の顔が、にやりと片笑む。

「久々に美味いもん食わせたろかー思って。構わんか?」

「そら、構わへんけど……」

 龍円が強張りの取れないまま、ちらりと視線を庚午に向ける。

 庚午は、ただ母のことを笑顔で見たまま、どこか、得体の知れない意図をその目の奥に潜めていた。

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