第6話 肉と関節⑥
それから、どうしたのだったか。
駆け下りた階段の下で、玉ねぎ入りの袋を持って待っていた空也の母親が、目を見張った。
「どうしたの龍ちゃん、顔真っ青よ」
「すんません、今日は帰ります」
引っ手繰るようにして袋を掴むと、龍円は玄関の外に飛び出た。それから、必死で自転車に飛び乗ると、全力で空也の家から逃げだした。
全身に鳥肌が立っていた。
ペダルを踏み抜きながら、何度も吐き気に襲われる。涙が零れて止まらない。
あんな空也は、空也じゃない。
黒く、どろりとしたものが、空也の脳や内臓一杯に詰めこまれているようだった。だのに、その肌は白く艶めかしく吸い付くようで、わずかに触れた瞬間に、意識を失ってしまいそうになった。――空也の中に、飲みこまれるかと思った。
頭がおかしくなりそうだ。
ショックで嗚咽が止まらなかった。
周囲が薄く暗闇に沈み始める中、どうしても真っ直ぐ自宅に戻る気にはなれず、龍円は気付けば学校の方角に向かっていた。
校舎の裏手には竹林の山がある。その間を分断するように道が伸びており、その荒れたアスファルトを自転車で下ると、裏門の前で停車した。
そこで、ようやく一息吐いた。
校舎裏側はプール添いに脇道が伸びている。もうこの時間は人気がなく、ただただ静かだ。
顔に滲む汗と涙を手で拭いながら、龍円はとぼとぼとその小道を歩いた。
風が渡り、プールの水面を波紋が伸びてゆく。その様子を横目で見つめながら、繁りすぎた木の枝を手でがさりと避けた。
背後の西空には、山脈が重く黒くそびえている。
その圧し掛かるような存在感に泣きたくなって、龍円は頭を掻き毟った。
叫びだしたい思いが、身体の奥から破裂しそうだ。じくじくと左肘が痛みだす。
ここは、自分がずっと夢見ていた場所じゃない。向かっていた場所じゃない。どうしてあの時、自分は事故になんかあってしまったのか。どうして、どうして。どうして空也はあんなことになってしまったんだ。せっかく海青にまで行けたのに、甲子園にだって出場できたのに、どうして、なんでだ。
どうしてオレも空也も、今こんなことになってしまってるんだ?
脇道は途中から土に代わり、それはそのまま裏山へとつながってゆく。放心状態で龍円は、ただふらふらとその斜面を上っていった。
たどり着きたかった場所なんか、とっくにどこかへ行ってしまった。それでも背負わされたものがある。生きて進まなくてはならないという責任や義務みたいなものがある。それが本当はどういうものなのかなんて、龍円にはまだわからない。
ただ苦しくて悔しくて、厭だった。
龍円達が求め続けた道を、悪意をもって閉ざしたヤツがいる。そんな気がしてならなかった。正体不明の何者かのことを思い、腹の底が哀しみと憎悪で煮えくりかえりそうだった。
再び溢れてきた涙を手で拭い、木の横を抜けて、ふと顔を上げた時だった。
思わず息を止めて、瞬いた。その拍子に、龍円の両目からほろりと涙が零れ落ちる。
古い木造の小屋が、ぽつんとそこに佇んでいた。
何のためのものかはわからなかった。ただ、曇った窓ガラスの向こうに、何かが雑多に積み上げられているのがちらりと見えたから、もしかしたら学校の物置なのかも知れないと思った。
だが、その時本当に龍円の目を捕らえていたのは、その小屋そのものではなかった。
薄闇の中、浮かび上がるような人影が二つ。
一つは、菰野岩高校の制服を着た女子生徒だった。長く伸ばされた黒髪に、長身に恵まれた華奢な肢体。わずかに上げた尖る
そう。
その女子生徒は、確かにそれを見ていた。
乱れた髪に、焼け爛れた顔、ボロボロで原型を留めない衣服に身を包んだ。恐らく少女と思しき――化け物を。
「うっわああああ!」
理解を超えた体験の連続に、龍円の理性は限界を迎えてしまっていた。
後退り転倒し、這うようにして必死で逃げる。何度も転倒しながら必死で自転車にまでたどり着くと、震える膝に叱咤をしながら、何とかその場を後にした。
だから、その場にいた女子生徒が龍円の背中を見送っていたことなど、完全に意識の埒外だったのである。
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