第5話 肉と関節⑤


「龍ちゃん、お母さんはどう? 元気にしてらっしゃる?」

 リビングに向かいながら空也の母が問うのに、「ええ」と龍円は頷きながら後へ続いた。

 見なれたリビングは、オレンジに近い木板をべったりと嵌めた壁に囲まれていて、そこに下げられたクロスステッチのタペストリーは、もう十年以上は入れ替わった様子がない。

 黒いレコードプレイヤーの上には白いレースのカバーが掛けられ、表面が禿げてつるつるになってしまったボルドー色のソファには、バラ模様の大判キルトが掛けられている。

 古い調度品ばかりであつらええられているという意味では、空也のところは龍円の家に並ぶだろう。

 この辺りも、地元生粋の人間ばかりが暮らしているわけではない。誘致された大企業に勤めるため、外部から転入してきた家族層は膨らむばかりだ。それと入れ替わるように、昔から続いてきた家はどんどん数を減らしている。それは同時に檀家の減少を意味してもいた。

 最終的に残る地元組は、結局田んぼや畑などの農地を持っているか、畜産など、土地から離れられない仕事をしている家ばかりだ。だからこそ、寺もまた農家との繋がりが密接になる。

 空也の家も田んぼに茶畑と手広くやっているほうだ。親族一丸となっているから持ち込たえているが、今後どうなるかは――と考えていると、再び空也の母に「龍ちゃん」と呼ばれた。

「あ、はい」

「これ、帰りに持ってって。お母さんに少しですけどって」

 ビニール袋から透けて見えるのは玉ねぎだ。

「あ、すんません。いつもありがとうございます」

「いいええ、こちらこそよ。ここおいとくから、帰る時に忘れんでね」

 言いながら空也の母は、ダイニングのテーブルの上にビニール袋をがさりと置いた。

「はい。じゃあ、オレちょっと行ってきますね」

「うん。ごゆっくり」

 リビングから出しなに、龍円は少し立ち止まった。母親の方へ視線を向ける。

「――あの、おばさん」

「あ、なあに?」

 このタイミングで呼び止められるとは思っていなかったのだろう。一瞬の油断は、龍円へ向けて取り繕う隙を空也の母に与えず、その表情と全身には、隠しきれない疲れが滲んでいた。

「おばさんも、ムリはせんでね。邪魔やなかったら、オレ、もうちょっと顔出させてもらうから。できることがあったら、何でも言うてな」

「――ありがとうねぇ」

 薄っすらと涙ぐんだ母が、ふと考え込むように視線を落とした。

「あのねぇ龍ちゃん」

「なに?」

「最近ねぇ、空也、ちょっとしゃべってくれるようになったんやけど」

「ほんま? よかったやん、おばさん」

 なるべく大きく笑顔を浮かべて見せる。空也からの反応があったというのは、かなりの好転だ。これは一緒に喜ぶべき場面だとそう思った。しかし、

「だけどねぇ」

 母親の表情は、どこか浮かなかった。顎に指先をそえて、眉を顰める。

「なんだか、変なのよ」

「変って、どう?」

「あのね、しもが、っていうの」

「しも?」

「そう。多分、霜だと思うの。霜が終わる、霜が終わるころって、そればっかり繰り返すの」

 さすがに龍円も目を細めた。

「霜が終わるころって、なんやろね、それ」

「ね、わからんの。せやから、もし龍ちゃん聞けそうやったら聞いてみてくれん?」

 小首を傾げる母親に、龍円はにっと笑って頷いた。

「わかった。聞けんかったらごめんやで」

「ええよ。でけたらでええからね。無理に聞き出そうとせんでええからね」

 それは、決して遠慮から出た言葉ではなかったろう。龍円が不躾に踏み込むことで、その後に空也の状態が余計に悪化する可能性は否定できないということだ。龍円は、かげりかけた心を表には出さず、笑顔を貼り付けたまま「ほな上がるね」と母親に手を振って見せた。

 ぎし、ぎし、と、龍円は階段を一段ずつ上ってゆく。電気を点けていない階段はやはり暗い。だが、幼いころから何度も上り下りをくり返したものだ。目を瞑っていても問題がないくらいだった。

 二階まで上り切り、手すりから手を離す。

 踊り場は階段をはさんで左右に分かれている。左手の壁を見ればドアが二つ並んでいる。振り返る形で、龍円は階段から遠いほうのドアを見つめた。

 薄茶色く古い合板のドアだ。嵌め殺しのガラス窓が入っていて、その向こうは闇に沈んでいる。

 廊下奥にある窓は、いつも通りブラインドが降りていた。窓向こうでは日も暮れかけているため、廊下全体が暗い。

 すうと息を大きく吸い込むと、龍円は空也の部屋の前に立った。じっと、ドアの向こうの気配を探る。

「空也。来たで」

 ずるりと、部屋の中で音がした気がした。

 龍円の喉が、こくりと音を立てる。

 この一枚の板を隔てた先に、何かの気配があるのはわかる。そこに空也がいることもわかっている。息遣いも感じる。

 だけど、それが命の気配かと聞かれると、一瞬答えに詰まる。

 おかしいだろうと思う。そこには確かに空也がいるはずなのだ。だからこのドアの向こうにあるのが命でないはずがない。

 だが、父の背中を見続けてきた龍円だからこそ感じる、どうしようもない違和感がそこにはあった。

 あぶくだろうか。

 有機物も無機物も、あらゆるものを投げ込んでドロドロに煮溶かしたような何かの中から、ごぼりと湧き上がった、切ない吐息のような、そんな気配。

 ゆっくりと息を吸い込み、龍円は廊下の上に座り込んだ。胡坐をかき、じっと、見えない空也のことを感じる。

 負けん気の強い眼差し。はじけた果実のように瑞々しい笑顔。ギリギリの攻防を耐え抜いて勝利した試合、ゲームセットの声と共に駆け出し、飛びついた龍円を抱きとめた両腕のたくましさ。


 ――龍! ずっと一緒におろうな!


 目がつんと痛み、視界が曇る。

「なあ空也。桜がきれいやで。部屋の中でも、あったかくなってるのはわかるやろ」

 しゅこー。

 しゅこー。

 何の音だろう。呼吸音だろうか。空也の? 部屋の中から漏れ出ているのは、これは。

 本当に音か?

「菰野岩もな、けっこう悪くない学校やで。友達もな、ちょっと出来てきたわ。伊藤柊太いうてな、オタクっぽいんやけど、陽キャやねん。意味わからんやろ。コミュ強ってやつやと思うわ。毎日話しとるとおもろいから、オレは元気でやっとるけど、せやけど」

 ぐっと喉の奥がつまる。

「――やっぱり、空也とおるんが、オレには一番……」

 甲子園に出場し、見舞いに来てくれた時に喧嘩別れしてから、龍円と空也はしばらく会わずにいた。だが、退院してしばらくたってから、空也の母から、母に電話がかかってきたのだ。

 受けた母が深刻な顔で聞いたところによると、どうも二週間近く空也が部屋に引きこもったまま出てこないのだという。

 理由を何度問い質しても答えない。父親にも母親にも何も言わない。

 そうして秋が過ぎ、冬がきて、野球部はレギュラー落ちの勧告を受けたと同時に退部し、海青自体には休学届けを出した。

 そして、年度が変わり、春がきた。

 報せを受けてから、龍円は空也の元へ足しげく通っている。両親が声をかけても反応しなかった空也が、龍円の来訪時にだけは、ほんのわずかだけれど、返事をすることがあった。

「――しもが」

「えっ」

 がちゃり、と音がした。龍円ははっと顔を上げる。

 ドアノブが、きゅるきゅると回る。

 心臓が跳ねた。

 空也が引きこもり、龍円がここへ通い出してから八カ月。空也が自分からドアを開けるところを初めて見た。こくりと生唾を飲みこむ。ドアが、わずかに内側に向けて開かれた。黒く濃い闇に沈んだ隙間に、うっすらと、影が見える。

「くう、や」

 空也だった。

 そこに、空也が座って、龍円をじっと見つめていた。

 日焼けの抜けた真っ白い顔に、胸元のはだけて鎖骨の露わになり、足元も裾を割って腿をむき出しにした、昔から見なれた紺の浴衣姿で。

 肩まで長く伸びた、黒く細く真っ直ぐな髪に、伏し目がちの、長い睫毛が影を落とす目許。

 ほう、と、熱を帯びた吐息が、空也の口から吐き出される。開かれたその唇は、何故かやたらと、赤い。

 そして、つんと強烈な消臭剤の匂いが、一気に廊下側にまで広がり出た。

「うっ」

 思わず龍円は手で鼻と口元を覆った。もう一方の手で後ろ手をつきながら、廊下を這うように後ずさる。

「くうや、ちょっ、これ」

 いや、理由はわかっている。風呂にも滅多に降りてこないから、仕方なく消臭剤を使っているのだと、以前空也の母親も言っていた。これはその匂いなのだ。だが、それでも想像を超える強烈な臭気に、龍円の頭がぐらりと傾ぐ。

 光の宿らない目が、じっと龍円を見つめる。

「霜が……」

「えっ、な、なに?」

 ずるりと部屋から影が漏れる。どろりとしたものが、いや、空也が這い出てきたのだ。

 廊下に手をつき、浴衣の裾から白い腿を剥き出しにし、襟元は腹まではだけて、近付いてきた空也の顔が、するりと龍円の肩に乗った。

 耳元に、赤い唇が寄せられる。

 冷たい肌が触れると同時に、襲いかかるようなきつい匂いが、龍円の意識に殴りかかった。

「霜が終わるころ、どうぞ迎えにいらっしてください」


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