第7話 映り込みの指輪と、嘘じゃない嘘

台風は夜のうちに通り過ぎた。朝の空気は洗い立てみたいに軽く、〈エトワール〉のガラスはまだところどころ塩の粉を残している。開店前、私は窓を拭きながら、昨夜の終わりに三田村香織さんが置いていった小さなケースを見た。


中には、細い銀の指輪がひとつ。飾りのない、真円に近い輪。だけど光にかざすと、内側にかすかな擦り傷の帯が見える。


「おはよう、澪。今日のミッションはそれ」

「“映り込み”だけで持ち主を特定、でしたよね」


香織さんは頷いた。


「先週、この指輪がケーキケースの上に置かれているのを星野が見つけて、記録写真を撮ったの。これ」


見せられたスマホの写真には、ケースのガラスの上に乗る銀の輪と、ガラスへの映り込みがくっきり。さらに——映り込んだ手が、ぼんやり写っている。レジ方向から身を乗り出した誰かの指先。輪郭は薄いけれど、薬指に細い線が見える。


「電話が二件来た。**英会話の先生(駅前の教室)**と、商店街の文具店の店員さん。どちらも“自分の”と言う。形もサイズも似ていて、刻印はなし。写真の映り込みだけで、どちらかに返したい」


善意を隠さない手続き。私はうなずいた。ルールがあれば、気持ちは落ち着く。


「やる。……物理の出番だね」


「今日の海、匂いは軽い?」


背後からいつもの声。藤田朔が、黒いストラップをいじりながら入ってくる。今日は小さなLEDライトをポケットに挟んでいる。


「潮は薄い。代わりに新品のアルミみたいな匂い」

「指輪の匂い、かな」



まずは状況の再現。星野店長のスマホ写真と同じ角度になるよう、ケーキケースの上面ガラスを磨き、そこに指輪を置く。照明を写真の時間に合わせて色温度を一段変える。朔はLEDで斜光を作る。


「反射と反転、確認するね」


私は白い紙に簡単な図を描いた。ガラス面に映る像は左右が反転する。映り込んだ“手”の薬指に見える線は、反転で右手なら左、左手なら右に写るはず。


「写真のここ。ガラスのエッジに対して、小指側の影が手前に出てる」

「……ってことは、これは左手の映り込みだ」


朔が即答。私はスマホの写真を二本指で拡大して、さらに確かめる。爪の先端の白い三日月が、親指側に広い——左手の形に見える。


「左手薬指に、うっすら跡。でもリング自体はケース上にある。つまり、置いたのは左手で、右手はトートバッグか何かを持っていた可能性」


星野さんが「ほら」と記憶を足してくれる。


「その時間、英会話の先生はテイクアウト。トート抱えてプリントを気にしてた。文具店の子は、両手で可愛いラッピング袋を見せてくれた」


「左手で置くのが自然なのはトート持ってないほう。だから、先生のほうが濃い……でも、まだ“気持ちよく”繋がらない」


朔は目を細め、指輪そのものを見た。


「内側の擦り傷の帯、ちょっと片側に寄ってる。これ、抜き差しの癖で付く傷だよね」

「薬指にはめる→抜くとき、隣の中指や小指に当たりやすい側に筋ができる。右利きはだいたい反時計回りに捻って抜くから、内側のこの辺に斜めの筋が寄るはず」


私は紙リングで実演した。左手薬指に紙輪をはめ、右手の親指と人差し指でくるっと反時計回りに捻って抜く。抜ける瞬間、紙の内側の右斜めに折れ皺が寄った。


「本物の指輪の筋の向きと、紙の皺の向き、同じ」


「つまりこれは左手でつけ外しされてきた指輪**」


ふたりでうなずく。左手薬指。これでだいぶ絞れた。


さらに、私はガラス面にふっと息を吹きかけて、薄く曇りを作った。指輪をいったん外し、置き直す。LEDの斜光で、リングの内側のわずかな脂の帯が白く浮く。その帯は、一箇所だけ濃い。


「皮脂の“濃い点”は、いつも押さえる場所。さっきの抜き方向と一致」


「左手派確定、だね」


私は**“結論:左手薬指のクセあり”**とメモした。



ちょうど昼前に、二人の**“持ち主候補”が時間差で来た。先にドアを開けたのは、英会話の先生。細いヒール、白いブラウス。左腕にトート**、右手は小さめのメトロカードケースを持っている。指先はナチュラルネイル。


「先日はお世話になりました。指輪、心当たりが」

「ようこそ。お話、少しだけ聞かせてください」


香織さんが、柔らかい声で促す。先生は「左手の薬指にしていたんですけど、仕事中は外すこともあって」と言った。右利きらしい。私はうなずき、ケースを見せた。


「ケース上での映り込みの写真が残っています。左手で置いた痕跡と、抜き差しの癖が合致しているかを、実物の動きで確認させてください」


「実験ですか?」

「生活の物理です」


私はにっこりして、紙リングを使った簡易デモをし、先生にも同じ動きをしてもらった。抜く方向、押さえる位置、皮脂の濃い点。先生の癖は、写真と合う。


入れ替わりに、文具店の店員さんが入ってきた。私と同じくらいの年。左手に包帯が巻かれている。


「すみません、昨日カッターでやっちゃって。指輪、今日だけ右手なんです」


彼女は恥ずかしそうに笑い、包帯の下を押さえた。普段は左、でも今日は右に避難。うーん、全員左手派。決め手が足りない。


そのとき、老紳士が入ってきた。例の、ビニール傘の持ち主。胸ポケットにチョコレートの包み。私が軽く会釈すると、老紳士はショーケースのガラスの角を指で示した。


「ここ、光の筋が出るねえ。さっき、**お嬢さん(文具店)**が指輪を右に持ち替えたとき、筋の出方が違ったよ」


「筋?」


朔がLEDを低い角度から当てる。リング外周の微細な擦りが、同心円ではなく、わずかに偏っている。左手で日常的に机に当てる癖がある人は、ケース上に置いたとき、ケース手前側に長いハイライトが出る——光の筋。右に持ち替えると、その筋の長さが変わる。


「英会話の先生は、仕事中は外すとおっしゃいました。机に当て傷は少なめ。文具店の方は——」


「レジ横のカッティングマットに、よく手を当てる。ポップ作りで」


店員さんが小さくうなずいた。机傷は文具店が濃い。光の筋は確かに、さっきより長い。


「結論」


私は深呼吸をして、全員に聞こえる声で言った。


「この指輪は“左手薬指派”かつ“机当て傷あり派”。

映り込み(反転の向き)と、抜き差しの癖(皮脂の濃い点と擦り傷の帯)、そして光の筋(外周の当て傷)から、文具店の店員さんのものと判断します」


沈黙。次の瞬間、英会話の先生がほっと笑った。


「よかった。本当は、彼女のだと思って。でも“誰のでもいいので見つかったら連絡ください”って言うと、人の物を欲しがってるみたいに聞こえるでしょう? だからつい、**『私のです』**って——」


香織さんが目を細めた。


「嘘じゃない嘘、ですね。相手を守るための手間。ありがとうございます」


先生は照れたように頷いた。文具店の彼女は目を潤ませ、何度も頭を下げた。


「ごめんなさい。昨日、包帯でうまくつけられなくて……」

「帰ってきて、よかったね」


老紳士が、優しく言った。私は胸の奥が温かくなるのを感じた。善意を隠さない手続きが、今日もちゃんと働いた。



ひと段落して、朔が私を見る。


「追記をお願いしたい」


「撮影協力メモ?」


「文化祭の展示で、ブレスレットを入れたい。だから——手首までOK、に」


私は一瞬だけ考えて、うなずいた。境界は見える化すれば怖くない。


星野さんがレシートを差し出す。私はさらさらと書く。


———

《撮影協力メモ・追記④》

追加:手首までの撮影OK(目的:ブレスレットの写り込み)

条件:店内/顔NG/30秒握手は位置合わせのみ

———


朔はホッと息をついて笑った。「ありがとう」


早瀬伶がタイミングよく現れ、「手首OK=甘度+0.3ね」と記録を取りはじめた。どこの指標。


「で、本日の三十分」


朔が照明を一段落として言う。今日はガラスの映り込みがテーマ。私は細いブレスレットを手首につけ、ガラス板の近くで手の角度を探る。朔はLEDの角度を変え、反射と透過の二重像を狙う。


「君の手首の脈、反射だと少しズレて見える。生きてる感じが写る」


「言い方」


カシャ。

巻き上げの音が、昼の静けさに小さく混ざる。位置合わせ握手(30秒以内)は、もはや儀式。呼吸が三つそろったら、手を離す。ルールは、やっぱり逃げ道だ。


「モデル料、使う?」

「うん。今日は——“映り込みアイス”」

「なにそれ」

「グラスの内側にチョコを一筆。反射でハートが二重に見えるやつ」


「最高」


今日も、最高は二回。星野さんが「レシピ、メモっとく」と笑う。



片付けのあと、香織さんが指輪のケースを手に戻ってきた。


「今日の判断、きれいだった。説明が残るのはいいね」


「ありがとうございます」


「それから、老紳士がね——“昔の恋人が細い指輪を右にしててさ、左に移したときが二人の始まりだったんだよ”って。嘘じゃない嘘って、たぶん、そういう名前でもある」


私はうなずいた。言葉にも角度がある。優しさの角度で折れる嘘は、たぶん、真ん中でほんとうに近づく。



夜。私はスマホを開いた。“匿名相談”アカウントが灯っている。


《友達のためについた嘘、これは良いことですか? 自分が悪者に見えます》


私は打って、送った。


「“嘘じゃない嘘”は、相手を守るための手間が入っているかどうかで見分けられます。今日の答えは、映り込みと癖と光の筋でした。あなたの気持ちの筋も、きっと見えています。」**


既読。小さなハートがいくつも並ぶ。


外に出ると、潮の線がうっすら白い。台風の粉はもうない。言葉と光の角度を少しだけ覚えた一日だった。私は手首のブレスレットを指でなぞって、**またお願いしていい?**と、心の中で先に言ってみた。

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