第6話 台風前夜、床が白く曇る

朝から空の色が薄かった。雲はまだ遠いのに、光がどこか“にぶい”。台風が九州の南を北上中、というニュースのせいか、〈エトワール〉の前の空気が、塩をふくんだ冷蔵庫みたいに重たい。


「おはようございます」

「おはよう、澪。今日は床、気をつけて」


星野店長が指さしたのは、入口から三歩、窓側へ二歩のあたり。そこだけ白く曇って見える。モップで拭いたばかりなのに、白っぽい“膜”がすぐ戻る。


「ワックスじゃないよね?」

「昨日の閉店前に一度、朝一番に一度、拭いたけど戻るの。お客様転ぶと危ないから、理由を可視化したい」


私はしゃがんで、指先でそっと触った。乾いているのに、ざらっとする。鼻を近づけると、うすい潮の匂い。


「塩が乗ってる……?」


星野さんが頷く。「気圧、下がってきたからね。**台風前の潮霧(しおぎり)**が細かく店に入ったのかも」


私はエプロンを結び直して、窓側を見た。外からの風は駅側→海側へ斜めに走っている。庇の下は乾いているけど、ガラスの下辺がうっすら白い。グラスの水滴がすぐに“ねばっ”とする感じ——塩膜だ。


「位置、マークしましょう」


私は養生テープを四角に貼って、白く曇る範囲を囲った。境界の線に沿って、床の反射がぱっと変わる——白い部分は光が散るから、照明の輪がぼやける。澪お得意の“反射角チェック”だ。


「ここだけ風下になってるのかも」


私は店の平面図を紙に描き、入口、窓、エアコンの吹き出し、冷蔵庫の位置を書き込む。矢印で空気の流れを仮置きしてみると、窓際から上昇した空気が天井をなで、入口の上でくるっと向きを変えて床に落ちる循環ができているっぽい。落ちた先が、ちょうど白い四角の内側。


「ベンチュリっぽい“加速ポイント”がここにできてるのか」


声に出したら、入口のベルが“ひい”と鳴った。藤田朔。黒いストラップの先にいつものフィルムカメラ。今日はストラップに小さな気圧計キーホルダーをつけている。


「今日の海、匂いは重い?」

「うん。空気の中に“粉”がいる。……床、白いね」


朔は少し離れた位置から、いつものように光の濃さで床を見る。テープの内側だけ照明の輪がぼやけて見える——理解が早い人の目だ。


「塩だと思う。潮霧で入ってきた微粒子。反射で境界が見える」

「気圧、1002hPa……下がってるね」


朔がキーホルダーの数字を見せた。私はうなずいて、実験の準備をした。


実験その1:白の正体は塩か?

• 霧吹きに真水を入れて、白い範囲へ薄く噴霧

• 乾いた黒いタオルを当てて、すっと拭き取る

• タオルの白いスジを舌で舐める……のはやめて、導電計代わりに電極テスター(涼介さんの工具箱)で、タオルに水を一滴落として抵抗値を見る


「塩が混ざってたら、電気を通しやすい」と涼介さん。測ると、普通の水より少し低い。やっぱり塩だ。


実験その2:どこから入った?

• 入口を開け閉めして風向を見る(付せんで可視化)

• 窓辺に線香(消臭用)を置いて煙の流れを見る(星野さんの備品)

• エアコンの風向と温度を変え、気流の合流点を探す


煙は窓辺で上に上がり、天井沿いに入口へ寄って、レジ前の床に落ちる。落ちた煙が四角の内側へ流れ込み、そこで動きが鈍る。粒が落ちる→床に付着→白く曇る、の順番が目に見える。


「つまり、窓から入った潮の粒が、店の気流でここに**“たまる”のね」

「うん。台風前で気圧が低いから、粒が軽い。エアコンの温度差があると、そこで結露の芯になって、床に薄く塩の膜**が出る」


私はメモに**“床白=潮+気流+温度差”**と書いた。原因がわかれば、手当ても書ける。


手当て(善意を隠さない手続き)

1. 対策マット:白い四角の内側に粗めマットを敷く(滑り止め&付着抑制)

2. 拭き方:真水→軽いアルコール→真水の順で塩を溶かして拭き切る

3. 気流調整:窓の上だけ少しだけ開け、裏口を1cm開けて逆流を作る(落下点を分散)

4. 表示:入口に「台風前の潮霧により床が滑りやすくなる場合があります」カードを掲示

5. 気圧ウォッチ:1000hPaを切ったら、上記フルセットで対応


「見える化、大事」


星野さんがにっこりする。私は**“手順カード”**をラミネートに出し、マットを敷いた。白い四角が、きれいな緑に隠れる。


「これで転ばない。……よかった」


胸のどこかがふっと軽くなったとき、入口のベルが鳴った。早瀬伶。陸上部のジャージ姿、髪先が少し湿っている。


「なんか店、気圧低い感じするー。台風、くるん?」

「くる。床、塩対応中」

「塩対応(笑)。……で、文化祭の展示、どうするん?」


出た、文化祭。写真部の展示で、朔が**“手の連作”**を出す予定だ。


「匿名で出したい」と朔。「“撮影協力”のこと、顔は撮ってないとはいえ、名前は出したくない」


私は心の中で頷いた。私の“手”が主役みたいになったら、たぶん茶化す人が出る。言葉の角度で変わることは、第4話で学んだばかりだ。


「クレジットは“Etoile 協力”でいい?」と朔。

「私はそれが安心」

「先生には“個人の同意あり、匿名希望”って書面を出す」


星野さんがすっとレシートを出した。はいはいの合図。


———

《撮影協力メモ・追記》

展示:文化祭の写真展示に出品(クレジットは匿名/表記:Etoile 協力)

書面:保護者・店長・指導教員の確認署名を添付

———


伶が親指を立てる。「公共性確保&同意の見える化、さいこう」


「……それで、展示のタイトル、どうする?」私は聞いた。

朔は少し考えて、笑う。


「『手の温度で、世界が決まる』——長い?」

「サブにまわそ」

「じゃメインは**『放課後エトワール—三十分だけの撮影協力』**」

「既視感あるけど、分かりやすい」


三人で笑った。



午後になるほど空が重くなる。風の音が低くなって、ガラスの塩膜がすぐ付く。私は合間合間に、窓を拭き、床のマットを点検した。白い四角——いまはマットの下——は、相変わらずそこにある気がする。見えないけれど、確かにある境界線。


「——で、本日の三十分」


朔がストラップを外し、少し照明を落とす。今日は台風前。ガラスの外に見えない粉が漂っていて、店内の光が柔らかく散る。撮影には、むしろきれいな夜だ。


「手の温度、合わせよう」

「はい」


位置合わせ握手:30秒以内。小さく声に出すと、緊張がほどける。指先から手首へ、じわりと温度が移る。朔はカメラを構えず、光の入口を探るように私の手の影を動かす。


「今日は**“床の白”を取りたい。見えないけど写るもの**」


私はテーブルに黒い布を敷き、手の下に薄いガラス板を差し込んだ。ガラスにわざと息を吹きかけて極軽く曇らせ、指先をそっと滑らせる。散った光が白に変わって、線になる。


「きれい」

「潮の線みたいだね」


カシャ。

巻き上げの音が少し低い。台風前の空気は、音まで丸くするのかもしれない。


「モデル料、使う?」

「今日は——しょっぱ甘いトースト。バターとはちみつ、上から塩をひとつまみ。台風の前は、塩が似合う」


「最高」


今日も“最高”が二回。少し照れる。星野さんが「それ、メニュー化したい」と笑う。



片付けの最中、二階から三田村香織さんが降りてきた。手に小さなケース。


「澪ちゃん、ちょっと見てほしいものがあるの」

「はい?」


透明なケースの中には、指輪。シンプルな銀。香織さんは、ショーケースのガラスにそっと置いて、指で角度を変えた。指輪がガラスに映り込む。光が輪を二重に作る。


「映り込みだけで、持ち主をわかる可能性、ある?」

「映り込みだけ……?」


朔が私を見る。私はガラスに映るリングの上下左右を見ながら、息を飲んだ。反転、屈折、照明の角度。やれるかもしれない。だけど今日は、台風前。検証は、明日。


「明日、やらせてください。反射と屈折の図を用意します」

「ありがとう。明日の午後で大丈夫」


香織さんは穏やかに微笑んで、ケースを戻した。


「善意を隠さない手続き、今日も見事。床のカード、いいね」


私は少し誇らしくなった。



閉店後。外の風が一段下がって、空気の匂いが海だけになる。床の対策マットを上げてみた。白い四角は……さっきより薄い。気流を調整した効果だ。私は微笑んで、もう一度真水→アルコール→真水で拭いた。


スマホに“匿名相談”の新着。


《床がすぐ白く曇ります。掃除しても戻ります。どうすれば?》


私は迷わず打って、送った。


「台風前の潮霧かもしれません。真水→アルコール→真水の順で拭く、入口と裏口で気流を調整、粗めマットを敷く。気圧が1000hPaを切ったら“対策モード”に。」


既読。ハートが並ぶ。


外に出ると、夜のアスファルトに潮の線がうっすら見えた。白い四角は、もう床にはない。でも、世界にはある。境界は見えなくても、手当てはできる。


潮は、嘘をつかない。

あしたは映り込み。光の角度で、誰かの気持ちに少しだけ近づけるといい。私はポケットの中の塩の小袋を指でつまんで、舌の先にほんの少しだけ、星みたいな味をのせた。

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