第5話 港祭のフィルム、光が溶けた夜

港の空に、赤いちょうちんが点々とともる。〈エトワール〉の前の舗道には、うすく白い潮の線。今日は年に一度の港祭。風は海から、匂いはイカ焼きと潮が半分ずつ。


「閉店後、行くよね?」

「行く。……安全手続き、先に決めよ」


私が言うと、朔はうんとうなずいた。紙を一枚、カウンターに広げる。


———

《撮影協力メモ・祭り特別追記》

・店外OK(祭り会場に限る)

・人混みでは“迷子防止の手つなぎ”可(時間制限なし)

・顔は撮らない/危険な場所では撮らない

立会い:星野

———


伶が横から覗き込む。「はいはい、公道での公共性確保ね。尊いわ〜」



屋台の並ぶ波止場は、海風がときどき笑う。ちょうちんの明かりが水面に揺れて、足元まで赤く染める。朔は首からカメラ、私は手のモデル。でも今日は、それより先に手をつなぐ理由がある。


「迷子にしたくないから」


言ったのは朔。私は素直に握り返す。人の波が押して引いて、氷の入った袋がしゃらしゃら鳴る。綿あめ、ベビーカステラ、金魚の水音。世界は全部、撮られたがっている。


「花火、何枚かテストで撮る。帰ってから現像ね」

「うん。……ところで、露店の煙、すごい」

「風下は避けたいけど、潮が斜めに来るからな」


私はポケットから小さなクリーニング紙を出して、朔に渡した。「レンズ、時々拭こ。塩、つきやすいから」


朔は笑って受け取り、何枚かシャッターを切った。カシャ。海風の音と花火の音で、シャッター音がときどき消える。



翌日。現像が上がった封筒を、朔がそっとテーブルに置いた。私は息を吸う。昼のスナップ——浴衣の裾、金魚の袋、綿あめの影——全部きれい。なのに、花火のコマだけ、白い霧に溶けたみたいに飛んでいる。


「……白い」

「ね。色が全部、ひとつの白になってる」


朔は落ち着いているけど、指先の力が少し強い。私は順番に光に透かして見た。花火の前後のコマは問題ない。花火だけ、コントラストが消えている。


「原因、三つ思いついた」


私は指を折った。


「一、自動露出の罠。夜空の黒に引っぱられて、カメラが“明るくしすぎ”→白飛び

二、レンズ面の“何か”。潮の微粒子や屋台の油煙が付いて、明るい花火が拡散

三、温度差での結露。夜の海風でレンズが冷えて、目に見えない薄い膜ができた」


朔はうなずき、ネガの並びを視線で追った。


「昼スナップ→問題なし。夕暮れの提灯→問題なし。花火直前の屋台群→問題なし。花火一発目から雲みたい。てことは、その直前に“膜”が生まれた可能性が高い」


「煙の流れ、覚えてる。最初の花火の前に、焼きそばの屋台が一気に炒め始めた。風下にいた私たちのところへ油の霧が来て、すぐ海風に変わった」


私はグラスの外側に指先の水気をちょん、とつけ、スマホのライトを向ける。光がふわっと白く広がる。


「これが拡散。さらに塩の微粒子が混ざると、もっと派手に白くなる」


星野店長が「実験道具あるよ」と、棚から古いUVフィルターを出してきた。ガラスに薄く塩膜を作るため、海水をティッシュに一滴。乾かしてからライトで照らすと——


「白い輪郭がにじむ!」

「これ、昨夜の花火の白と同じ」


朔が目を丸くする。私は調子に乗って、息をふっと吹きかけた。瞬間、ガラスが曇る。ライトの点がぼやけた。


「塩+結露で、花火が溶けたんだ」


「決まりだね」


朔は手の甲で額の汗を拭い、笑った。その笑いに、ほっとする。


「露出もある。AUTOだと黒い夜空を『暗い』と判断して、明るくしようとする。だから白飛びが重なった。今夜も上がるなら、マニュアルで——F8、シャッター2秒、ISO100くらいから試そう」


「覚えやすい。……で、対策、可視化しよ」


私たちは**“祭り夜の撮影・手順カード”**を作った。

1. レンズ表面の点検(10分おきに拭く。潮・油煙チェック)

2. 風上を選ぶ(風向きは提灯の揺れで見る)

3. AUTO禁止(F8/2s/ISO100から)

4. 一発目は捨てる(光量の当たりを見て次で合わせる)

5. 終わったら即拭く(塩膜は放置しない)


伶が現れて、カードを読み上げる。「**“一発目は捨てる”**が男前で好き」


「最初の一分が大事なのは、アイスコーヒーも同じだからね」


私は笑って、昨夜の失敗ネガを封筒に戻した。失敗の正体がわかると、失敗が味方になる。



その夜、港祭は二日目。提灯の反射が昨日よりもはっきりしている。風は昨日と逆、駅側から海へ。私たちは風上に回り、レンズを拭く→構える→一発目は見るだけの手順を守った。


「F8、2秒、ISO100。いこう」

「レンズ、きれい。OK」


ドン。

カシャ——1、2。


黒い空に、色が色のまま咲いた。赤が赤で、青が青で。昨日の白が嘘みたいに、濃い。


「……きれい」

「うん。君の手がフレームに入ると、やっぱり決まる」


握っていた手の指先が、少し強くなる。人混みの圧に、私はむしろ安心する。迷子にしたくない、という理由は、愛おしい。


「モデル料、使う?」

「使う。“潮風かき氷”。塩レモンをひとつまみ、上から」


「最高」


今日も、最高が二回。祭りの音が遠くなって、近くなる。善意を隠さない手続きが、また一枚、私たちの間に増えた。



店に戻ると、朔はすぐフィルムを外した。私はレンズを拭く。塩の白い粉がティッシュにわずかに移る。昨日の白い理由が、目に見える。


「明日、現像が上がったら、展示の構成、決めよう」

「うん。“手だけ恋人”の匿名連作、花火をトリにしたい」


伶がカウンターの椅子に腰掛け、にやにやする。


「トリのキャプション、考えとく。“白くならなかった夜”」

「やめて」


笑いながら、私はスマホを開いた。“匿名相談”アカウントがまた小さく点滅している。


《花火の写真、全部白くなりました。センスがないからでしょうか》


私は、ためらわず打って、送った。


「センスのせいじゃないよ。潮と煙の“膜”が光を広げるから。レンズを拭く、風上へ回る、AUTOはやめてF8/2秒/ISO100から。白の理由が分かれば、次は色になります。」


既読。ハートがいくつも並ぶ。

外に出ると、提灯の赤がまだ空に残っていた。足元の潮の線は、今日は海寄り。風は海へ戻る。


潮は、嘘をつかない。

そして今夜は、色も。

私はポケットから塩レモンの小袋を取り出し、舌の先で少しだけ確かめた。酸っぱくて、少ししょっぱい。写真の色みたいに、ちゃんと混ざっていた。

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