第4話 19時10分のゴーストベル
放課後の空は、青からオレンジへ。〈エトワール〉の窓に電気の色が混ざりはじめるころ、星野店長がふっと笑った。
「澪、今日も**“あれ”**来るよ」
「“あれ”って?」
「19時10分のベル」
言われた瞬間、背中がぞわっとする。入口の真鍮ベル。人が入ると “ひい” と鳴る、例のやつだ。ここ三日、19時10分きっかりに一回だけ鳴る。誰もドアを触ってないのに。
「今日も鳴ったら、動画、撮ろ」
「やめてよ朔、先に怖くしない!」
カウンターの端で、藤田朔がカメラのストラップを指で弾く。早瀬伶は顎に手を当てて、あからさまにニヤついている。
「いい? ここは港町。幽霊は塩対応が基本」
「塩は床にたくさんあるけどね……」
笑いながら、私はドアの蝶番のネジを一個ずつ確かめた。ガタはない。外は潮風、内は冷房。温度差で金属が伸び縮みする時間帯——宵の口。仮説は立つけど、決定打がない。
「19:09になったら、無風テストいこう。エアコン、送風オフ。冷蔵庫も開けない。人間、息を潜める」
「はいはい、推理ショーの時間ね」
◆
19:08。店内は落ち着いて、客は常連が一組。星野店長が「ちょっとベルの検証します」と一言添える。善意を隠さない手続き——先に説明しておけば、驚かせない。
19:09。私は入口へ。朔は少し離れた位置から光と影を読む位置取り。伶はカウンターの中でストップウォッチ係。
「澪、深呼吸して。怯える顔が一番おいしいから」
「誰に需要が……」
19:10。
ひい。
鳴った。ドアは動いていないのに。動画に、私の肩が跳ねたのまで映った。
「うわ、ほんとに来た」
「ゴーストベル、四日連続記録更新」
伶が嬉々として記録をつける。私は耳を澄ます。今の一瞬、どこかが鳴る“前”の音があった。微かな「ビィ」という、金属が揺れはじめる時の音。どこから?
朔がすっと窓辺に移動し、ネオン看板のタイマーを指さした。Etoile の青い文字が、ちょうど今、点いた。
「看板は19:10で点灯。熱が出る。窓際の空気が上昇、入口に流れ込みが生まれる。エアコン切ってても、自然対流でドアの内側に“吸う力”が……」
「で、バネが共鳴して、ベルが鳴る——?」
私はドアの上の小さなバネ状の引っ掛け金具を見上げた。ベル本体は固定だが、細い金具がわずかな振動を拾って舌を揺らす構造だ。そこに、朔の目がきゅっと細くなる。
「まだ“気持ちよく”つながってない。共鳴なら、同じ条件でいつでも再現できるはず。19:10だけなのは変」
「……“だけ”じゃないかも」
星野店長が指先で壁のタイムスイッチを示した。
「看板だけじゃなくて、エアコンの夜モードが19:10で26℃→24℃に切り替わるの。省エネ設定。ファンの風量も一段階上がる」
「つまり、二つのイベントが同時に起きる。窓際は上へ、天井の風は手前へ。二つがぶつかった場所が、ちょうどドア上の金具。……ベンチュリ効果で、そこで風速が一瞬上がる」
朔の声がわずかに高ぶる。私の頭の中に、空気の矢印が描かれた。看板→窓際上昇→天井→入口へ。合流点の一瞬の加速が、金具の固有振動数にヒットする。
「実験しよ」
私は踏み台に上って、ベルの金具に紙の付せんを一枚、尾びれみたいに貼った。空気が動けば揺れる。朔は入り口の外側に小さな線香(店長の備品:消臭用)を持って立つ。煙の流れで可視化するためだ。
19:12、看板タイマーを一度消灯→再点灯する。エアコンも設定を24→26℃→24と変える。煙が窓辺で上昇し、天井に沿って入口へ滑り、ドア上の角で加速——付せんが一気に跳ねた。そして、ほんの一瞬だけ、ベルがひいと鳴った。
「ビンゴ」
「物理、勝利」
私と朔はハイタッチ……をしようとして、伶に止められた。
「はいそこ、“位置合わせ握手30秒以内”のルール覚えてる? それ、撮影のとき限定ね」
「いまは実験なんだけど」
「顔がにやけてるから恋愛案件に分類」
伶、容赦なし。私はむしろ助かる。ルールは心の逃げ道。甘さと真面目の境界線が、今日も守られる。
◆
原因がわかったら、手当てだ。驚かせないように、夜モードの切替時刻を19:05へ前倒し。看板は19:15にずらす。さらに、ベルの金具に極細の透明チューブを被せてダンパーにする(星野さんのDIY箱より)。私たちは「善意を隠さない手続き」のメモを一枚書いて、裏のボードに貼った。
《19:10のベル対策
①看板点灯:19:15へ(熱の上昇源をずらす)
②エアコン夜モード:19:05へ(風量アップ時間をずらす)
③金具ダンパー装着:微振動を吸収》
「これでゴースト退治完了」
「退治って言うとちょっと寂しいけどね」
朔が笑う。私はふと思いつき、付せんをもう一枚、ドアの脇に貼った。
《19:10に鳴っていたベルは、看板とエアコンのタイミングが重なった“空気のいたずら”でした。驚かせてごめんなさい。》
伶が親指を立てる。「説明可視化、大賛成」
◆
一件落着——のはずが、ラブコメはここからだった。
ドアが開き、黒縁メガネの男子が入ってきた。朔の写真部の同級生らしい。彼はベルを見上げて、にやり。
「これ、オバケ検証してたってマジ?」
「マジ。物理で勝利したけど」
「へえ。あ、藤田、彼女できたん?」
空気が凍った。私は盛大にむせた。伶が目を輝かせる。星野店長がなぜか身を低くする。
「ち、ちが……」「店内だけ撮影協力だし」「顔は撮らないし」「週一で見直しだし」
「用語が恋人より固いのが余計に怪しいんだが」
男子はニヤニヤしつつアイスコーヒーを頼み、去りぎわに私へ小声。
「先輩、藤田、わりとガチなんで、更新してあげてくださいね」
うわ、こういう拡散力はやめて。頬が熱い。朔は耳まで赤い。
「……更新って言葉、便利だけど残酷だな」
ぽつりと朔。私はストローの袋を結びながら、首を傾げた。
「どこが?」
「“解約”の反対語じゃん。毎週、**『今週も君でいい?』**って、言ってるようなものだ」
心臓が、さっきのベルみたいに一瞬だけ震えた。たしかに。便利で、堅くて、安心できる言葉。だけど、ちょっと寂しい。
「……じゃ、一項目だけ“やわらかく”更新しよ」
私はレシートを引き寄せて、さらりと書く。
———
《撮影協力メモ・追記③》
**“更新”の言い方、次回から「**またお願いしていい?」に変更
———
朔が見て、笑った。目の光が柔らかい。
「その言い方、好き」
伶が指笛を鳴らす。「はーい、甘度上昇。でも手は繋ぎすぎない、30秒ルール生存」
「はいはい」
◆
閉店十分前。恒例の三十分が始まる。今日はベルの真鍮磨きと、コーヒースプーンの光がテーマ。朔はまず、私の手を温度合わせのために包み、そっと離す。必要最小限。
「今日は、“共鳴”を撮りたい。金属って、光も音もよく返す」
私はベルをそっと指で支え、もう片方の手で極細ダンパーを指先で押さえる。光が真鍮に輪を作る。シャッターの合間、朔が小さく笑う。
「さっきの言い換え、ほんとに嬉しかった」
「“更新”、怖かった?」
「……うん。言葉って、光の角度みたいだなって。同じものでも、言い方で濃さが変わる」
私はベルに映る自分の指先を見た。そこに朔の指が重なって、位置合わせの握手。30秒を数える代わりに、呼吸を三つ合わせた。
カシャ。
三十分は、やっぱり短い。けれど今日は、濃かった。
「お礼、使う?」
「うん。今日は——“ゴーストプリン”」
「なにそれ」
「ベル退治記念。プリンの上に薄い飴の蓋を作って、スプーンで“ひい”って割るやつ。音、録ろ」
星野店長が即決で賛成する。「ネーミング勝ち」
私たちはキッチンで飴を薄く伸ばし、冷まして、プリンに乗せた。朔がマイクを構え、私はスプーンを構える。
ひいん。
思わず笑った。ベルより高い音。甘さが、音で砕けて、口の中でふわっと溶けた。
◆
片付けのあと、私はスマホを開く。“匿名相談”アカウントから新着。
《“更新”って、便利だけど不安になります。どう言い換えれば優しくなりますか》
私はためらわず、打ち、送った。
「『またお願いしていい?』に言い換えると、光が柔らかくなります。ベルが鳴る理由みたいに、言葉にも“角度”があります。」
既読。ハートが三つ。
外に出ると、19:15。Etoileの看板が静かに光る。ベルは鳴らない。代わりに、潮の線がうっすら白く、夜の端に残っていた。
潮は、嘘をつかない。
それでも、言葉は、選べる。
私はポケットの中のレシートを指で折り曲げ、**またお願いしていい?**と、心の中で先に言ってみた。朔の横顔が、看板の青で少しだけ濃く見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます