第5話 収穫祭の光と、工房の影

 工房の扉を開けると、いつもとは違う空気が肌を撫でた。


 まだ陽も昇りきらない早朝だというのに、村はすでに目を覚ましている。石畳の道を、荷馬車が車輪を軋ませながら広場へ向かっていく。荷台には、今年収穫されたばかりの、ずっしりと重そうな小麦の袋が乗せられている。村の外れにある製粉所の親方が、年に一度のこの日のために、一番良い粉を納めるのだろう。


 空気は、ひんやりと澄んでいる。だが、その中にはっきりと、いつもとは違う匂いが混じっていた。パンが焼ける香ばしい匂いだけではない。鹿肉を燻製にするための、少し焦げた木の匂い。隣村から来た商人たちが持ち込んだ、干し果物や香辛料の、どこか異国を思わせる甘く刺激的な香り。そして、これから始まる祝祭への期待感と、年に一度の商機を逃すまいとする人々のわずかな熱気が、混じり合って渦を巻いている。


 今日は、ウィロウブルック村の収穫祭。


 それは、神への感謝を捧げる敬虔な儀式であると同時に、村人たちにとって一年で最大の「市」が立つ日でもあった。この日のために、人々は一年間働き、蓄え、そして今日一日で、その労働の成果を金に換え、あるいは新たな楽しみに換えるのだ。


 僕もまた、その経済の大きなうねりの中に、今日初めて、小さな小舟を漕ぎ出すことになる。


「おはようございます、タクミさん」


 工房の奥から、リラの静かな声がした。彼女はもう起きていて、僕たちが今日売り出す商品を、傷がつかないように一枚ずつ丁寧に布で磨いてくれている。その指に嵌まった木の指輪が、窓から差し込み始めた朝の光を受けて、まるで蜂蜜のように透き通った琥珀色に輝いていた。


「おはようございます、リラさん。早い時間からありがとうございます」


「ええ。少し、落ち着かなくて」


 彼女のその一言に、僕と同じ緊張と、そして僕とは質の違う、別の種類の憂いが滲んでいるのを、僕は感じ取っていた。


 僕は昨夜から準備していた木工製品を確認する。手作りの小箱、木製のスプーン、そしてリラが提案してくれた木のアクセサリー類。その中には、僕が趣味で作った複雑な仕掛けの「秘密箱」も含まれていた。ただの遊び道具のつもりだったが、リラが「きっと興味を持つ方がいらっしゃいます」と勧めてくれたのだ。


 しかし、僕の胸の奥では不安がくすぶり続けている。本当に僕の作品で喜んでもらえるのだろうか。日本にいた頃の記憶が頭をよぎる。会社での査定面談、上司の「村上くん、君の仕事は几帳面だが、もう少し積極性が欲しいね」という言葉、そして常に感じていた自分の能力への疑問。


「タクミさんの技術なら、きっと村の皆さんに喜んでもらえると思います」


 リラの言葉には確信が込められていた。だが、その瞳の奥に、僕が抱く不安とは質の違う、未来の災いを予見するかのような深い憂いが一瞬よぎったのを、僕は見逃さなかった。


「リラさんがそう言ってくださるなら、信じてみます」


 僕は、彼女のその憂いの意味を問うことはせず、ただ自分の不安を押し殺して微笑んだ。彼女が何を恐れているにせよ、まずは今日の祭りを成功させることが先決だ。


 工房の外から元気な声が聞こえてきた。


「タクミさーん!準備はどう?」


 ミラが飛び込むように工房に入ってくる。彼女は祭り用の鮮やかな青い服を着て、片手には奇妙な形の焼き菓子を持っていた。


「ミラさん、手に持っている菓子はなんと言う名前ですか?」


「『豊穣パイ』ですよ! 収穫したばかりの『蜜芋』と、森で採れた『カチカチ栗』を練り込んで、大地の恵みに感謝しながら食べるんです。一つどうぞ!」


 差し出されたパイを一口かじると、濃厚な甘みと、驚くほど硬い栗の歯ごたえが口の中に広がった。


「…この栗、本当に硬いですね」


「ふふふ、『一年の苦労を噛み締める』っていう意味があるんですよ。これを食べきると、来年も健康に過ごせるって言われてるんです」


 ただのお菓子ではなく、一つ一つに意味が込められている。僕は、この村の素朴で豊かな文化に、改めて感心した。


「わあ、すごい!こんなにたくさん作ったんですね」


 ミラの目が輝き、僕の作品を一つ一つ手に取って眺めていく。秘密箱を見つけた彼女が「これ、なんですか?」と興味深そうに尋ねた。


「ああ、それは仕掛け箱です。こうやって…」


 僕が手順を示すと、ミラは「すごい!まるで魔法みたい!」と驚嘆の声を上げた。その無邪気な反応に僕の緊張も少し和らぐ。だが、リラがその箱を見つめる視線に、僕はやはり微かな憂慮を感じ取った。


「それじゃあ、会場に向かいましょうか」


 僕たちは作品を丁寧に木箱に詰めて、村の中心部へと向かった。工房を一歩出ると、いつもとは違う空気が肌を撫でる。道の脇に植えられた道祖樹どうそじゅの枝には、収穫した麦で編んだ小さな輪がいくつも飾られていた。一年の実りへの感謝と、村を訪れる人々への祝福を示す、この村の古い習わしだ。 空気中には、甘く香ばしい匂いと、微かに薬草のような、ぴりりとした香りが混じり合っている。


 村の広場は既に祭りの準備で賑わっていた。色とりどりの旗や飾り付けが風に揺れ、広場の中央にある大樹の枝からは、村人たちが作ったのだろう、動物の形をした木霊の人形がいくつも吊るされている。 食べ物の香ばしい匂いに混じって、パチパチと弾ける音と共に、不思議な青い煙が立ち上っていた。


「あれは?」


 僕が指さすと、リラが教えてくれた。


「清めの燻煙くんえんです。乾燥させた安息草あんそくそうを焚いて、収穫の間に土地に溜まった穢れを祓い、来年の豊穣を祈るためのものです」


 なるほど、魔法のある世界では、豊作祈願も実に化学的、いや魔術的なアプローチで行うらしい。


「タクミ、こっちだ!」


 ガリックの太い声が聞こえる。彼の出店の隣が僕たちの場所みたいだ。彼の作業台には、見事な剣や農具が並んでいるが、その中に一つだけ、異質なものが置かれていた。それは、金属で精巧に作られた、麦の穂の彫刻だった。


「お疲れさまです、ガリックさん。すごい品揃えですね」


「おう。今日は頑張れよ。お前の腕なら、きっと評判になる。」


「ありがとうございます。ところでガリックさん、それはどこに使うものですか?」


「ああ、これか? 職人の初穂ってやつだ。収穫祭では、職人はその年一番の出来栄えの作物を神に捧げる農民に倣ってな、自分の技術の粋を集めた作品を一つ、広場の大樹に奉納する決まりなんだ。俺からの、一年間の感謝の印ってわけよ」


 彼はそう言って、少し照れくさそうに金属の穂を磨いた。彼の無骨な指先が、その繊細な作品に敬意を払っているのが分かる。職人なりの、神聖な儀式なのだろう。


「そうだが……」


 ガリックは少し声を潜めて続けた。


「あんまり目立ちすぎるなよ。この世界には、優秀すぎる職人を疎む輩もいる。常識を超えた技術ってのは、時として身を滅ぼすことがあるからな」


 彼の言葉には、どこか予言めいた響きがあった。


 祭りが本格的に始まると、僕たちの出店にも次々と人が訪れた。特に注目を集めたのは、僕が趣味で作った木製の秘密箱だった。複雑な手順を踏まないと開かない、ただの遊び道具のつもりだったのだが。


「これは見事な細工だ。これほどの仕掛け、王都の職人でも滅多にお目にかかれない」


 隣町から来たという裕福そうな商人が、感嘆の声を上げる。しかし、その隣で会話を聞いていた村の衛兵の一人が、急に眉をひそめて僕たちに近づいてきた。


「おい、そこの職人。その箱、少し見せろ」


 衛兵の声は厳しく、僕の背筋に緊張が走る。彼は秘密箱を手に取ると、訝しげに検分を始めた。


「この複雑な構造…これは、貴族が使う『魔力封じの宝箱』の機構に酷似しているな。許可なくこのような物を作るとは、一体どういうつもりだ?」


「えっ!?いえ、これはただの木箱で、魔法の力なんて…」


 僕が慌てて否定するが、衛兵の疑いの目は晴れない。その時、リラの顔からすっと血の気が引いたのを、僕は見逃さなかった。そうだ、彼女は何らかの秘密を抱えている。もしこの場で僕が「魔法に関わる物品を製造した」と疑われれば、彼女の立場も危うくなるかもしれない。


「何を言いがかりつけてやがるんだ」


 助け舟を出してくれたのは、隣で一部始終を見ていたガリックだった。


「そいつはただの木工職人だ。魔法の知識なんざ、これっぽっちもねえよ。だいたい、本物の魔力封じなら、木材に聖銀の粉を練り込んだり、内側に封魔のルーンが彫ってあったりするもんだろうが。この箱にそんなもんがあるか?よく見てみろ」


 ガリックが専門的な知識で一喝すると、衛兵はぐうの音も出ず、バツが悪そうに箱を返してきた。


 嵐が去った後、僕はガリックにお礼を言った。


「ありがとうございます、助かりました」


「気にすんな。だがタクミ、お前の技術は、時にお前の身を滅ぼすぞ。自分の腕が、この世界の常識からどれだけ逸脱しているか、自覚しとけ」


 ガリックの忠告が、僕の胸に重くのしかかった。


 日が高くなると、祭りはさらに盛り上がりを見せた。村の長老が、中央の大樹に今年一番の出来栄えだったという巨大なカボチャを捧げると、音楽が鳴り響き、踊り手たちが広場の中央で華麗な舞を披露する。子供たちは、音鳴り虫の入った小さな籠を振って音楽に合わせ、大人たちは泡立つ木の実から作ったエールで乾杯を交わしていた。


 僕はそんな光景を眺めながら、この村に来て良かったと心から思った。


「タクミさん、踊りませんか?」


 突然、ミラが僕の手を引く。広場では、先ほどの踊り手たちに続いて、村人たちが輪になって踊る民族舞踊が始まっていた。


「え?僕は全然、踊れないですよ」


「大丈夫、簡単です!リラさんも一緒に!」


 ミラはリラの手も引こうとするが、彼女は丁寧に首を振る。


「私は見ているだけで結構です」


「えー、つまらないなあ」


 ミラは不満そうだが、諦めて僕だけを連れて行こうとする。


「本当に僕は…」


「いいから、いいから!」


 結局、ミラに押し切られて踊りの輪に加わることになった。慣れない踊りに四苦八苦する僕を見て、周りの村人たちが笑っている。しかし、その笑いには悪意はなく、むしろ温かい親しみを感じる。


 音楽が最高潮に達した瞬間、輪の中心にいた村の女性たちが、一斉に何かを空に放った。


 それは、祝福の種だった。種は夜空に舞い上がると、ふわりと弾けて、金色の光の雨となって僕たちの上に降り注ぐ。微かな魔力を帯びたその光に触れると、体の疲れがすっと抜けていくような、不思議な感覚に包まれた。


「わあ、綺麗…!」


 ミラの感嘆の声が隣で聞こえる。周りの村人たちも、皆、幸せそうな顔で光の雨を見上げていた。ただの踊りではない。これもまた、村人全員で分かち合う、魔法の儀式なのだ。


 光の雨が止むと同時に、音楽も終わり、踊りの輪は自然と解散になった。僕が興奮冷めやらぬまま出店に戻ってくると、リラが静かに微笑んでいた。


「お疲れさまでした、タクミさん」


「恥ずかしかったです…でも、少し楽しかったかもしれません」


「ええ、とても良い表情でしたよ」


 彼女の言葉には、どこか寂しげな響きがあった。まるで自分だけが輪の外にいるような、そんな感情を隠しているように思える。


 昼の部の喧騒が一段落し、夕暮れの柔らかな光が村を包み始める頃、宿屋の女将さんが数人の村人と一緒に僕たちの出店にやってきた。その手には、それぞれ小さなガラスの瓶が握られている。


「タクミさん、リラちゃんも、これから川で始まる鎮魂ちんこん光流ひかりながし》に一緒に行きましょう」


 女将さんの誘いに、僕は首を傾げた。聞き慣れない言葉だ。


「鎮魂の光流し…ですか?」


「ええ。この村の大事な儀式なのよ」


 僕が戸惑っていると、いつの間にか隣に来ていたミラさんが、目を輝かせながら説明してくれた。


「一年で収穫した麦やお野菜、お肉になった家畜さんたち、それに、この一年で亡くなった人たちの魂が、迷わずに大地の懐に帰れるように、光蟲ひかりむしの光で道案内をしてあげるんです。川が、まるで天の川みたいになって、すっごく綺麗なんですよ!」


 光蟲。その名に、僕は微かな既視感を覚えた。前世のホタルに似た生き物だろうか。しかし、魂の道案内とは、なんと幻想的で、優しい風習だろう。


「さあ、行きましょう。リラちゃんも」


 女将さんがリラの手を取る。リラは一瞬、ためらうように身を引いた。


「私は…そのような神聖な儀式に参加する資格は…」


「あら、何を言ってるの。あなたはもう、タクミさんと一緒にこの村を支えてくれてる、大事な仲間じゃないの。ねえ、みんなもそう思うでしょう?」


 女将さんが周りに声をかけると、村人たちが「そうだそうだ」「リラちゃんも一緒に行こう」と、温かい声をかけてくれる。その素朴な善意に、リラは戸惑いながらも、小さく頷くことしかできなかった。


 僕たちは村人たちと共に、村の西を流れる緩やかな川へと向かった。川辺には既に多くの人々が集い、それぞれが持ち寄ったガラス瓶の準備をしている。夕闇が迫る中、瓶の中で明滅する無数の青白い光が、辺りを幻想的に照らし出していた。


 川辺の一角では、子供たちが歓声を上げながら、特殊な網で草むらから光蟲を捕まえている。その光は、前世のホタルよりも強く、そして儚げだ。体内で魔力を光に変える生態を持つ、この世界ならではの生き物なのだろう。


 村人たちは、その光蟲を、苔や綺麗な小石を入れたガラス瓶の中にそっと移していく。僕は、そのガラス瓶の蓋が、木をくり抜いて作られた、通気性の良い精巧なものであることに気づいた。職人としての血が騒ぐ。


 ふと見ると、一人の少年が、蓋が割れてしまった瓶を手に、悲しそうな顔で立ち尽くしていた。


「どうしたんだい?」


 僕が声をかけると、少年は目に涙を浮かべて答える。


「おじいちゃんのために、一番綺麗な光蟲を捕まえたのに…蓋が壊れちゃって、これじゃあ流せないよ…」


「そうか…。よし、ちょっと見せてごらん」


 僕は少年の瓶を受け取ると、懐からいつも持ち歩いている愛用の切り出し小刀を取り出した。そして、落ちていた手頃な小枝を拾い、その場で蓋を削り始める。サク、サク、と小刀が木を削る小気味良い音だけが響く。僕の手元に、村人たちの視線が集まっているのが分かった。


 複雑な細工はできない。だが、光蟲が呼吸できるように、緻密な格子状の空気穴を彫り込み、瓶の口にぴったりとはまるように、寸分の狂いもなく縁を削り出す。それは、ほんの数分の作業だった。


「はい、できたよ」


 僕が新しい蓋を瓶にはめ込むと、それはまるで最初からそこにあったかのように、ぴったりと収まった。


「わあ、すごい!ありがとう、職人のお兄ちゃん!」


 少年は満面の笑みで駆け出して行った。その姿を見ていた少年の母親が、僕の前に来て深々と頭を下げる。


「ありがとうございました。あなた様は、先日衛兵さんに絡まれていた方ですよね。うちの亭主も『あんな腕のいい職人を疑うなんて』と怒っておりました。あなたは、本当に心優しい職人さんなのですね」


 その言葉に、周りの村人たちも「そうだそうだ」「あんたの腕は本物だよ」と口々に言ってくれる。昼間の秘密箱の一件で、僕と村人たちの間に生まれたかもしれない、見えない壁。それが、この小さな木の蓋によって、少しだけ溶けていくのを感じた。


 陽が完全に地平線の向こうに沈み、空が深い藍色に染まる頃、村の長老が掲げた松明の合図で、儀式は始まった。


 村人たちが、それぞれの想いを込めた光蟲の瓶を、次々と川へと流していく。一つ、また一つと放たれた光は、川の流れに乗ってゆっくりと下り、やがて無数の光の帯となった。


 川面は、星屑を散りばめたビロードのように輝き、静かな水音だけが響く。まるで、天の川が地上に降りてきたかのような、息をのむほど美しい光景だった。


「タクミさん、どうぞ」


 ミラが、僕のために用意してくれたらしい瓶を一つ、そっと手渡してくれた。瓶の中で、一匹の光蟲が、ひときわ強く、優しい光を放っている。


 僕はその瓶を胸に抱き、静かに川面へと近づいた。そして、そっと水の上に浮かべる。前世で、もう会えなくなってしまった両親や、友人たちの顔が、自然と脳裏に浮かんでいた。彼らの魂も、こんな風に、穏やかな光に導かれて安らかに眠れているだろうか。


 ふと隣を見ると、リラの様子がおかしいことに気づいた。


 彼女は、ただ一人、瓶を流すことなく、川面を埋め尽くす無数の光を、立ち尽くしたまま見つめていた。その瞳には、美しい光景への感動ではない、深い、深い悲しみがたたえられている。彼女の唇が、聞き取れないほど小さな声で、誰かの名前を呟いているようだった。


「……ごめんなさい……私が……」


 その声は、懺悔のようにも、慟哭のようにも聞こえた。彼女が見ているのは、目の前の幻想的な光景ではない。きっと、彼女がかつてその手にかけたか、あるいは守れなかった、数えきれないほどの命の光だ。僕は、彼女の背負う闇の、その計り知れない深さを改めて感じ、何も言えずに、ただ彼女の隣に寄り添うことしかできなかった。


 儀式が終わり、村人たちが満ち足りた表情で広場へと戻っていく。だが、僕の心は晴れなかった。


 その時だった。川の対岸、月明かりが届かない深い茂みの中で、何かが一瞬だけ、硬質的にきらりと光った。それは、柔らかく明滅する光蟲の光とは明らかに違う。もっと冷たく、無機質な光。


 ――誰かが使っていた遠眼鏡とおめがねのレンズが、月明かりを反射した光だった。


 昼間に見た、あの只者ではない男たちだ。彼らは、こんな神聖で、静かな祈りの場でさえ、リラを、あるいは僕たちを監視している。


 美しい儀式の感動とは裏腹に、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


 リラもそれに気づいていた。彼女は僕の手を、冷たくなった指先でそっと握った。その小さな震えが、彼女の恐怖を物語っている。


「……工房に戻りましょう。もう、祭りは終わりです」


 彼女は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調でそう告げた。その瞳には、先ほどの悲しみとは違う、冷徹な兵士のような光が宿っていた。


「ミラさん、悪いんだけど、出店の片付けを手伝ってもらえますか?」


「あ、はい!でも、どうして急に…?」


 ミラは快く引き受けてくれたが、僕たち二人の様子に困惑を見せている。その無邪気な表情が、かえって今の状況の異常さを際立たせていた。


 工房に戻る途中、僕はリラに尋ねた。


「あの人たち、何者なんですか?」


「…わかりません。ですが、ただの村人ではないことだけは確かです」


 リラの答えは硬かった。


 工房に着くと、リラはまず全ての窓のカーテンをきっちりと閉めた。その用心深い仕草に、事態の深刻さを改めて感じる。


「タクミさん、今夜は工房に泊まっていただけませんか?」


「ええ、もちろんですが…リラさん、本当に何も知らないんですか?」


 僕が問いかけた時、工房の扉がノックされた。僕たちはびくりと身を固くする。


「タクミさん、リラさん、片付け終わりました!」


 ミラの声にほっと息をつき、扉を開ける。だが、満面の笑みで立っているミラの様子が少しおかしかった


「お疲れさま、ミラ。ありがとう」


「どういたしまして!それより、さっき工房の裏口に、誰か立ってませんでした?私が見たら、さっと森の方に隠れちゃったみたいだったけど…」


 ミラの無邪気な報告に、僕とリラの背筋に再び冷たいものが走った。やはり、見られていたのだ。この工房が、そして僕たちが。


「きっと気のせいよ、ミラ。今日は疲れたでしょう。気をつけて帰ってね」


 リラが努めて明るく言うと、ミラは「そっかー」と納得して帰って行った。しかし、その後ろ姿を見送りながら、僕は新たな不安を感じていた。もしミラまで巻き込まれることになったら——


 ミラを見送った後、僕とリラは工房の静寂の中で顔を見合わせた。もはや、のんびりと食事を楽しむような雰囲気ではない。


「リラさん、正直に教えてください」


 僕は、壁にかかった自分の工具に目をやりながら、声を潜めて言った。鋸、鑿、金槌。いざとなれば、これらが武器になるかもしれない。


「あの人たちは何者なんですか?そして、あなたは一体——」


 僕の問いに、リラは長い間沈黙を続けた。その間、彼女の瞳には様々な感情が渦巻いているのが見て取れた。苦悩、恐れ、または何かを決意した顔色だった。


「私は…複雑な事情を抱えています」


「複雑な事情?」


「詳しくはお話しできませんが、タクミさんに迷惑をかけるかもしれません。それどころか…危険にさらしてしまうかもしれません」


 彼女の声には深い苦悩が滲んでいた。


「迷惑なんて…リラさんは僕を助けてくれています。それに、もし何か困ったことがあるなら、一緒に解決しましょう」


 僕の言葉に、リラの瞳が揺れた。


「タクミさん…あなたは本当に優しい方です。でも、私の抱える問題は、あなたが想像されるよりもずっと深刻で、危険なものなのです」


「それでも構いません」


 僕ははっきりと言った。


「僕はリラさんを信頼しています。だから、何があっても一緒にいたいんです」


 その言葉を口にした瞬間、僕は自分の気持ちの変化に驚いた。いつの間にか、彼女への感情が単なる信頼を超えて別の何かになっていることに気づく。


「ありがとうございます」


 リラは目に涙を浮かべながら微笑んだ。その表情には、感謝と同時に、深い悲しみも混じっているように見えた。


 夜が更けて、僕たちは工房で休むことにした。リラは椅子で一夜を過ごすと言ったが、僕は作業台に毛布を敷いて簡易ベッドを作り、彼女にそちらを使ってもらった。


 暗闇の中で、僕は今日の出来事を振り返っていた。祭りの成功、村人たちの温かい反応、そして商人からの高い評価。自分の作品が認められた喜びは確かにある。しかし、同時にガリックからの忠告も心に重くのしかかっていた。


 そして何より心に残っているのは、リラとの会話だった。彼女が抱えている秘密。それがどんなものであれ、僕は彼女を支えたいと思っている。転生してから初めて、誰かを本気で守りたいと思った。


 隣からは静かな寝息が聞こえる。リラが眠っているようだった。しかし、時折聞こえる小さなため息に、彼女の心の重荷を感じる。


 その日から、僕たちの生活は表面的には静かな日常に戻った。しかし、昨夜の出来事は僕たちの関係に決定的な変化をもたらしていた。


 リラは以前にも増して僕を気遣うようになり、僕もまた、彼女への気持ちを強く意識するようになった。二人の間には、言葉にならない理解と信頼が芽生えていた。そして同時に、迫り来る危険への覚悟も。


 祭りの成功により、工房への注文も増えた。隣町からの商人や、遠方からの客も訪れるようになる。僕の作品が広く認められることの喜びと同時に、それが招く危険への不安も感じていた。


 でも、リラがいてくれる限り、僕はきっと頑張れる。彼女の秘密が何であれ、二人で乗り越えていける。そんな確信が、僕の心に静かに根を張っていた。


 ウィロウブルックの小さな工房で始まった僕たちの物語は、新たな局面を迎えようとしていた。これから先、どんな困難が待ち受けているのかはわからない。でも、この瞬間の絆を、僕は何があっても守り抜きたいと思った。


 村の祭りが運んできた変化は、僕たちの関係に新しい章を開いた。そして、その章には希望と危険が等しく書き込まれているのだった。

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