第4話 旅人の掟

 朝の光が工房の窓を通り抜け、カンナくずが舞い踊る。僕は昨夜から気になっていた木材の反りを確認しながら、リラが淹れてくれた茶の香りに包まれていた。


「タクミさん、お客様がいらっしゃいました」


 リラの落ち着いた声に振り返ると、工房の入り口に三人組の冒険者が立っていた。先頭の男性は革の胸当てを身に着け、腰には見慣れた剣を下げている。その後ろには弓を背負った女性と、杖を握りしめた若い男性が控えていた。


「失礼します」


 工房の扉を開けて入ってきたのは、歴戦の空気をまとった三人組だった。先頭に立つ男性の革鎧には、生々しい爪痕が刻まれている。僕は思わず身構えたが、彼は意外にも丁寧な口調で尋ねた。


「すみません、ここがウィロウブルックで一番腕の立つ職人さんがいるという木工房で間違いないでしょうか?鍛冶屋のガリック殿に紹介されて参りました」


 ガリックの名前が出たことに、僕は少し驚いた。あのぶっきらぼうな鍛冶屋が、僕の工房をそんな風に紹介してくれていたとは。


「は、はい。僕が職人のタクミと申します」


 慌てて立ち上がり、作業台の木屑を手で払いながら応える。


「私はレオン、こちらの弓使いがアリス、そして魔法使いのマルクです。実は、非常に厄介な事態になってしまいまして…タクミ殿のお力をお借りできないかと」


 レオンと名乗った男性の真剣な表情に、ただ事ではない雰囲気が伝わってくる。彼の後ろから、マルクと呼ばれた若い魔法使いが、布に大切に包まれた何かを差し出した。


「これなんですが、昨夜のゴブリンシャーマンとの戦闘で、不覚にも……」


 マルクが悔しそうに布を解くと、現れたのは一本の杖だった。いや、杖だったもの、と言うべきか。中央部分で無残にも真っ二つに折れ、かろうじて内部の何かが繋ぎ止めている状態だ。


「これは?」


 僕は慎重に杖を受け取り、じっくりと観察した。木材は、美しい光沢を持つ紫檀ローズウッドだろうか。しかし、書籍に記載されているローズウッドとは明らかに違って、特有の甘い香りが微かに漂っている。そして、折れた断面からは、まるで血管のように、極細のミスリル銀線が数本覗いていた。


 杖の表面には、ただの装飾ではなく、幾何学的な紋様が隙間なく彫り込まれている。それは前世で見た電子機器の基盤のようでもあり、古代遺跡の碑文のようでもあった。その紋様自体が、淡い青白い光を放ち、魔力がまだ死んでいないことを示している。


「大きな損傷はなさそうですが、杖の本体がこれでは……」


「はい。この杖は、王都の魔法具ギルドが認定した『第三等級・火系統増幅杖』です。木の部分が完全に折れてしまったことで、魔力の安定供給ができず、今やただの燃え木の棒にも劣る代物でして」


 マルクは、まるで我が子を語るように悲痛な表情で説明する。『等級』『増幅杖』、そして『魔力回路』。僕の知らない概念が次々と出てくる。この世界の魔法道具は、僕が想像していたよりも遥かに体系化されて、精密な工業製品に近いものなのかもしれない。


「見たところ、芯材には『歌う木のソングウッド』の枝が使われていますね。また、このミスリル銀線は、魔力の指向性を高めるためのものです。修理するには、ただ繋ぐだけでは不十分だと見られます」


 いつの間にか隣に来ていたリラが、こともなげに言い放った。その言葉に、冒険者三人が驚愕の表情で彼女を見る。


「なっ…なぜそれを?ソングウッドも、ミスリル銀線の用途も、普通は魔法具師マギ・クラフターでもなければ知らないはずですが——」


 レオンが、腰の剣に手をかけんばかりの勢いで警戒心を滲ませる。無理もない。彼の仲間である魔法使いのマルクでさえ、目を丸くしてリラを見つめている。


 僕も内心では驚いていた。歌う木、ミスリル銀線。その単語の組み合わせに、前世の記憶が警鐘を鳴らす。それは、物語やゲームの中で、国家レベル、あるいは神話レベルのアーティファクトに使われる素材の組み合わせだ。


 つまり、リラが当たり前のように持っている知識は、この世界の「常識」を遥かに逸脱している。彼女が関わってきた「世界」は、僕が今いるこののどかな村とは、次元が違うということだ。


 だが、その分析はそこで打ち切った。


 数日前に勇者と対峙したあの日、僕は彼女の秘密を詮索するのをやめたのだ。彼女が何者であれ、この工房で僕の隣にいてくれる。それだけで十分だった。彼女の知識が、今まさに困っている冒険者たちの助けになるのなら、僕はそれを信じて受け入れるだけだ。


 僕は、レオンとリラの間に割って入るように、穏やかに口を開いた。


「僕の助手は、少々物知りでして。以前、魔法使いの旅人と長く行動を共にしていたことがあるそうです。おかげで、僕も助かっています」


 僕がそう言ってにっこり笑うと、レオンはまだ納得しきれない顔つきではあったが、ひとまず警戒を解いたようだった。


「……そうでしたか。失礼を。しかし、これほどの知識をお持ちの方がいるとは、さすがはガリック殿の紹介だけのことはありますね」


 彼は僕とリラを交互に見ながら、改めて感心したように頷いた。


 リラが、僕にだけ聞こえるような小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。その声には、安堵と、ほんの少しの罪悪感が混じっているように聞こえた。


 前回の短剣の件でもそうだったが、魔法に関わる道具は僕にとって未知の領域だった。日本では魔法なんて存在しなかったのだから当然だ。


「拝見してもよろしいでしょうか」


 リラが静かに前に出て、僕から杖を受け取った。彼女はそれをただ見るのではなく、まず折れた断面にそっと指をかざす。目を閉じ、集中すると、彼女の指先から微かな魔力の粒子が溢れ、杖の内部を探るように流れていくのが見えた。


「――魔力回路の断線はなし。ミスリル銀線の歪みも許容範囲内。ですが、杖本体の木材が完全に魔力を弾いてしまっていますね。これでは回路が生きていても、術者の魔力を増幅器まで届けられないですね」


 彼女の診断に、魔法使いのマルクが驚きと尊敬の入り混じった表情で頷いた。


「おっしゃる通りです。僕の魔力を注いでも、この亀裂の部分で霧散してしまう感覚で……」


「この杖のシャフトは、ソングウッドの中でも特に魔力親和性の高い『月歌の枝』でしょう。これを修復するには、ただの接着では不可能です。接合部が魔力の『抵抗レジスト』になってしまう」


「やはり、そうですか。王都のギルドまで戻らないと修理は不可能かと諦めかけていたんですが――」


 マルクが落胆したように肩を落とす。だが、リラは落ち着いた声で続けた。


「いいえ、代替案はあります。接着剤として使うのは、『月桂樹の涙』に『火蜥蜴サラマンダーの鱗粉』を混入させた特殊な合成樹脂。これならば、接合部の魔力伝導率を80%以上まで回復させることが可能です」


「月桂樹の涙に、サラマンダーの鱗粉…?そんな配合、どの魔導書にも載っていなかった。まさか、失われた古代の技法では……」


「古い友人に、少し変わった知識を持つ者がいただけです」


 リラはそう言って話を打ち切った。専門用語が飛び交う会話に、レオンとアリスは完全に置いて行かれている。


 僕も魔法の知識はさっぱりだが、二人のやり取りを聞きながら、冷静に頭を切り替えていた。


 問題点は二つ。


 一つは、折れた杖の物理的な接合強度をどう確保するか。


 もう一つは、リラの言う特殊な樹脂で、魔法的な性能をどう再現するか。


 僕は横の棚から、ペッパーと黒鉛の芯を取り出した。そして、折れた杖の構造をスケッチし始める。


 断面は複雑だが、木目は読み取れる。この木目に沿って、互い違いに細い『くさび』を打ち込む形で接合すれば、物理的な強度は確保できるはずだ。問題は、その楔の素材と、樹脂を流し込むための微細な溝をどうやって彫るかである。


 僕が魔杖の設計図を描き始めたことに気づいたレオンが、感心したように覗き込んできた。


「タクミ殿は、もう修理の算段を?さすがですね」


「いえ、まだ構想段階です。ミラさんの言う『特殊な樹脂』とやらが手に入らなければ、始まりませんから」


 僕がそう言ってリラを見ると、彼女は自信ありげに頷いた。


「月桂樹はこの村の森に。サラマンダーの鱗粉は…鍛冶屋のガリック殿なら、武具の熱処理用に少量持っているかもしれません」


 リラの言葉に、マルクの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか!?もし、本当にこの杖が直るなら…!」


 僕とリラは、顔を見合わせた。専門分野は違えど、目指すゴールは同じだ。一人の魔法使いの、大切な相棒を救うこと。僕たちの工房にとって、それは新たな、そして大きな挑戦の始まりだった。


「それでは、まず材料を集めてから作業に入りましょう。完成まで二日ほどいただけますか」


「もちろんです。それで、報酬はいくらでお考えでしょうか」

 レオンが実直な目で僕を見つめる。報酬。その言葉に、僕は内心で冷や汗をかいた。


 魔法の杖の修理代金なんて、見当もつかない。前世の骨董品修理の感覚で言えば高額だろうが、この世界の相場は全くの未知数だ。下手に安い値段を言って職人としての価値を下げたくないし、かといって法外な値段をふっかけるのも性に合わない。


 僕が言葉に詰まり、視線をさまよわせた、その瞬間だった。


 隣に立っていたリラが、まるで僕の服についた木屑を払うかのような、ごく自然な仕草で僕に近づいた。そして、冒険者たちには聞こえない絶妙な声量で、僕の耳元にそっと囁く。


「――この等級の杖の修理相場は、通常、銀貨十五枚から二十枚。素材の希少性を考えれば、もう少し上乗せしても問題ありません」


 その声は、いつもの穏やかな響きとは違う、まるで辣腕の商人のように冷静で的確だった。僕は彼女の助け舟に内心で感謝しつつ、平静を装って頷いた。


「なるほど、それなりにするものなんですね」


 僕はあえて独り言のように呟き、少し考える振りをする。そして、改めて冒険者たちに向き直った。


「そうですね。本来であれば、それなりの金額をいただく仕事ですが――」


 僕はにっこりと微笑んだ。


「今回は、僕にとっても初めての魔法杖の修理です。ガリックさんのご紹介でもありますし、何より、マルクさんの大切な相棒を直すという経験は、お金には代えがたい。ですので、今回は勉強も兼ねて、特別に銀貨十二枚でいかがでしょうか」


 リラが教えてくれた最低ラインよりも、さらに少しだけ値を引いた。これは、僕なりの誠意であり、挑戦への意気込みでもあった。


 僕の提示した額に、レオンたちは驚いたように顔を見合わせている。


「銀貨十二枚で本当に大丈夫ですか?王都の半値以下じゃないですか!破格すぎですよ」


「はい。値段は勉強させていただきますが、仕事に手心を加えるような真似はいたしません。この工房に預けてくださったからには、今僕にできる、考えうる限りの最善を尽くさせていただきます」


 僕が自信を持ってそう言うと、レオンの表情が、驚きから深い感心へと変わった。


「…分かりました。あなたのその心意気、買わせていただきます」


 彼は懐から革袋を取り出し、重みのある銀貨を十二枚、丁寧にカウンターへと並べた。


「では、改めてよろしくお願いします。我々の相棒を、どうかお願いします」


 レオンたちは、僕とリラに深々と頭を下げた。その姿に、僕は職人としての誇りと、新たな挑戦への武者震いを同時に感じていた。


 冒険者たちが工房の外に出た後、僕はリラに向き合った。


「リラさん、先ほどはありがとうございます。おかげで無事依頼を受注できました」


 僕が頭を下げると、リラは慌てたように首を横に振った。


「いえ。私の知識を信じて、活かしてくださったのはタクミさんです。こちらこそ、ありがとうございます」


 彼女はそう言って、自分の手元にある木の指輪をそっと撫でた。その仕草に、彼女がただ言葉を返しているのではないことが伝わってくる。


「それに…」


 リラは少しだけ言葉を探すように視線を彷徨わせた後、僕を真っ直ぐに見つめた。


「こうして、誰かの助けになるものを作れるのは……嬉しい、ですから」


 その笑顔は、どこか寂しげで、それでいて、心の底からの喜びが滲んでいた。彼女の過去に何があったのかは分からない。だが、この工房での仕事が、彼女にとって特別な意味を持っていることだけは、確かだった。僕はそれ以上何も聞かず、ただ静かに頷き返した。


「ところで、リラさん。せっかく魔法に詳しいなら、他にも何か作ってみませんか?例えば、お湯がすぐに沸くポットとか、部屋をずっと明るくしてくれるランプとか。結構な需要があると思いますが」


 僕が前世の家電製品を思い浮かべながら提案すると、リラの表情がさっと曇った。隣で話を聞いていた冒険者たちの顔も、どこか引きつっている。


「タクミさん、それは…あまり大きな声ではなさらない方がよろしいかと」


「え、なぜでしょう」


「この王国では、魔法は『対魔族兵器』として厳重に管理されております。生活を便利にするための魔法具の開発と所持は、原則として禁じられているのです」


 思わぬ事実に僕が絶句していると、冒険者のリーダーであるレオンが、ため息混じりに口を開いた。


「リラさんのおっしゃる通りです。タクミ殿、あなたは腕のいい職人ですから、悪気がないのは承知しております。ですが、その『お湯が沸くポット』が、この国では下手をすれば反逆罪に問われかねない代物なのですよ」


 彼の言葉に、弓使いのアリスがうんざりした顔で付け加える。


「本当に馬鹿げた話ですわ。私も以前、狩りの際に矢の先に『風切り』の魔法を付与しましたら、『未認可の魔法武具製造』として騎士団に一日拘束された経験がございますの。ほんの少し矢の飛距離を伸ばしたかっただけですのに」


「そこまで厳しいのですか…」


「戦争が、まだ終わっておりませんから」


 レオンは、革鎧に残る古い傷跡を撫でながら、遠い目をした。


「いつ、どこで魔族の息がかかった者が、その『便利なポット』を改造して、街中で蒸気爆発を起こさないとも限りません。騎士団の方々の言い分も、理解できなくはないのです。悲劇を繰り返したくないというお気持ちは」


 彼の言葉には、単なるルールへの不満だけでなく、この世界が抱える根深い痛みと恐怖が滲んでいた。


「治癒魔法でさえ、神殿の許可がなければ使用できません」


 リラが静かに補足する。


「怪我をなさった仲間を助けたい一心で初級治癒魔法をお使いになった魔法使いの方が、『神官の権益を侵害した』として捕らえられたという話も耳にします。ここでは、力は常に管理され、縛られるものなのです」


 僕は言葉を失った。技術は、人を幸せにするためにある。それが僕のいた世界の常識だった。だが、ここでは、魔法という強大な力は、人々を縛り、恐怖を再生産する鎖にもなっている。


 この世界の歪んだ常識を前に、僕の「ものづくり」は、一体何ができるのだろうか。僕は改めて、この異世界の複雑さと向き合う覚悟を迫られていた。


 そのとき、工房の扉が勢いよく開いた。


「タクミさん、おはようございます!」


 ミラの元気な声が工房に響く。彼女は冒険者たちを見て、目を輝かせた。


「わあ、本物の冒険者パーティーですね!」


「本物って、失礼だな」アリスが苦笑いを浮かべる。「私たちはまだ駆け出しよ」


「でも、魔物と戦うんでしょう?かっこいいなあ」


 ミラの憧れの眼差しを受けて、マルクが少し照れたような表情を見せた。


「そんなに華やかなものじゃないよ。危険だし、給料も安いし」


「でも、人々を守る大切な仕事ですよね」


「そうだね。それが僕たちのやりがいかな」


 ミラと冒険者たちが談笑している間、僕は月桂樹の樹脂を探しに行くことにした。リラに場所を教えてもらい、村の外れにある小さな森へ向かう。


 月桂樹は思ったより簡単に見つかった。樹皮に小さな傷をつけると、透明な樹脂が滲み出てくる。これを集めて、魔石の粉と混ぜれば特殊な接着剤になるらしい。


 魔石の粉は、ガリックの鍛冶場で分けてもらった。彼も魔法の武器を作ることがあるため、常備しているという。


「魔法杖の修理か。なかなか難しい仕事だな」


「ガリックさんは魔法の武器も作るんですか」


「たまにな。といっても、魔法の回路を組み込むのは専門の魔法使いに頼む。俺は金属部分を作るだけだ」


「分業制なんですね」


「そうだ。魔法の武器は一人では作れん。職人同士の連携が重要なんだ」


 ガリックの言葉を聞いて、僕は改めてこの世界の複雑さを理解した。それぞれの専門分野があり、お互いに協力し合っている。


 工房に戻ると、ミラがまだ冒険者たちと話し込んでいた。


「タクミさん、お帰りなさい!」


「材料は集まりましたか」リラが尋ねる。


「はい、これで作業に入れます」


 僕は作業台に杖を置き、まず折れた断面を詳しく観察した。綺麗に割れているが、木目の方向が複雑で、単純に接着するだけでは強度が足りないだろう。


 まずは、拡大鏡ルーペを片手に、折れた断面の物理的な損傷をミリ単位で観察していく。


 マルクは「綺麗に割れている」と言っていたが、職人の目から見れば、その断面は複雑な断層そのものだった。衝撃で押し潰された木の繊維、ささくれ立った木目、そして二種類の木材――柔軟な芯材と硬い外装材――の境界面。


「…なるほど。物理的な接合だけでも、かなり厄介ですね」


 僕が呟くと、隣に立ったリラが、そっと杖に手をかざした。彼女の指先から、淡い魔力の光が溢れ、まるでレントゲン写真のように杖の内部を透かし見ていく。


「問題はそれだけではありません、タクミさん。見てください、この部分」


 リラが指し示したのは、断面の中心にあるミスリル銀線の周囲だった。


「魔力の奔流の痕跡です。強い衝撃で回路が乱れ、魔力が暴走して周囲の木材を内側から焼き焦がしています。この『炭化層』を取り除かなければ、樹脂を流しても魔力の流れが滞ってしまいます」


 彼女の言葉を受け、僕は再び拡大鏡を覗き込む。確かに、言われた箇所は黒く変色し、微かな異臭を放っていた。魔法の知識がなければ、絶対に見過ごしていただろう。


「炭化層の除去…か。となると、接合強度をどう確保するかがさらに難しくなりますね」


 リラの言葉を借りると問題になる部分は、ただ木を繋ぐことではないらしい。この杖は、ソングウッドという柔軟性に富む芯材を、ローズウッドという硬く緻密な外装材で覆っている状態の、いわば複合素材だった。それぞれの木の膨張率も、魔力への反応も異なる。


 単純に接着しただけでは、次に大きな魔法を使った時、二つの木の歪みの差に耐えきれず、今度こそ木っ端微塵になるみたいだ。


 僕は頭の中で設計図を高速で描き直し始めた。物理的な強度と、魔法的な性能。その二つを両立させなければならない。


 先に炭化層を特殊な薬品で慎重に溶かして、洗浄する。次に、潰れた繊維を削り取り、断面を完璧な平面に。物理的な強度は、外からは見えないように、木目に沿って極細の黒檀の『木釘』を補強材として埋め込むことで確保する。そして、リラの言う特殊な樹脂を流し込むための微細な溝を、魔力回路を避けながら彫り進める。


 それは、精密機械の修理と、宮大工の伝統技術と、そして未知の魔法科学を融合させるような、途方もない作業だった。僕の思考が、完全にものづくりの世界に没入していく。


「すごい…二人とも、何を言っているのかは分からないけど、とんでもないことをしようとしているのは伝わってくる」


 後ろでアリスが呆然と呟くのが聞こえた。僕が顔を上げると、いつの間にか工房にいる全員が、息を殺して僕とリラの手元を交互に見つめていた。


「タクミさんとリラさん。急に作業中に話しかけて申し訳ございません」


 その静寂を破ったのは、ミラの真っ直ぐな声だった。彼女は、僕の隣までやってくると、キラキラした目で僕たち二人を見上げた。


「そのすごい技術、私にも教えてください!」


 その真っ直ぐな声に、極限まで集中していた僕の意識が現実に引き戻された。見ると、ミラの瞳が、僕とリラ、そして僕たちの手元にある杖を、憧れの眼差しでキラキラと輝かせながら見つめている。


「ミラさん。でも、今からとても繊細な作業に入るので…」


 僕がやんわりと断ろうとすると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。


「分かってます!作業の邪魔はしません!だから、今は見てるだけでいいんです。でも、この依頼が終わったら、必ず教えてください!私も、冒険者になるために、自分の身を守る技術が欲しいんです!」


 ただの憧れではない、切実な響きが彼女の声にはあった。武器の手入れ、罠の製作、野営地の設営。彼女の頭の中では、僕の木工技術が、過酷な冒険を生き抜くための「サバイバル技術」として映っているのかもしれない。


「……分かりました」


 彼女の熱意に、僕は頷かざるを得なかった。


「この仕事が終わったら、僕でよければ。その代わり、今は静かに見学していてください。それも、きっと勉強になりますから」


「はいっ!」


 ミラは嬉しそうに、しかし、僕との約束を守るように、静かに一歩下がり、真剣な表情で作業台を見つめ始めた。レオンたちも、ミラのその様子に微笑ましそうな視線を送っている。


 工房に、再び心地よい静寂と緊張感が戻ってきた。


「では、リラさん。まずは炭化層の除去から始めましょうか。何か、木を傷つけずに炭だけを取り除く良い方法はありますか?」


「ええ。弱い酸性の液体で中和させるのが定石ですが…ここでは手に入りませんね。代用品として、『嘆き茸』の胞子を水で溶いたものが使えます。幸い、この村の湿った日陰なら見つかるはずです」


「嘆き茸…。分かりました、探してきます」


 僕が森で嘆き茸を探し出し、リラがそれを調合して炭化層の除去に成功した頃には、陽が傾き始めていた。次はいよいよ、物理的な接合だ。


「リラさん、杖を固定します。僕が合図をしたら、その樹脂を流し込んでください」


「分かりました」


 僕は万力で杖の片側を固定し、もう片方を手で支え、寸分の狂いもなく断面を合わせようと試みる。だが、ここで問題が発生した。


「くっ…だめだ。片手で支えながらだと、ミクロン単位のズレが生じてしまう…!」


 杖の内部構造が複雑なせいで、単純な万力では両側を完全に固定できない。僕が杖を支え、リラが樹脂を流す。二人とも両手が塞がってしまう。誰かもう一人、僕が削り出した『木釘(き釘)』を、正確な角度で打ち込むための補助が必要だった。


「誰か、手を貸せる者は——」


 ガリックさんは体格が良すぎてこの繊細な作業には向かない。レオンたち冒険者は、もちろん素人だ。僕が焦りの色を浮かべた、その時だった。


「私に、やらせてください!」


 声の主は、ずっと息を殺して作業を見守っていたミラだった。


「ミラさん?でも、これはとても繊細な作業で…」


「見てるだけじゃ、何も学べないって分かりました!冒険者になったら、もっと大変な状況で、仲間を手伝わなきゃいけない時が来るはずです。今、ここでタクミさんたちの役に立てないで、何が冒険者ですか!」


 彼女の瞳は、ただの憧れではなく、覚悟を決めた戦士の光を宿していた。僕とリラは顔を見合わせる。迷っている時間はない。


「仕方がありませんね、分かりました。お願いします」


 僕は頷き、小さな木槌と、髪の毛ほどの細さに削り出した黒檀の木釘を彼女に手渡した。


 僕とリラは、まるで長年連れ添ったパートナーのように、自然に役割を分担し、作業を進め始めた。僕が最終的な固定位置を定め、リラは樹脂の粘度を最終調整する。そして、ミラにはこれから打ち込む木釘の角度と、その意味を簡潔に、しかし的確に伝える。


 その一つ一つの手順を、ミラが食い入るように見つめている。彼女のその真剣な眼差しは、僕にとっても、これから始まる困難な作業への、心強いエールのように感じられた。


 チームの準備は整った。僕は彼女に改めて、静かに、しかし力強く語りかける。


「いいですか、ミラさん。木には繊維の方向、木目があります。この木釘を打ち込む時、木目に逆らってはいけません。流れに沿って、優しく、しかし真っ直ぐに力を伝えるんです」


「はい…!」


「僕が『今だ』と言ったら、この穴に木釘を差し込み、木槌の重みだけで、コン、と一度だけ打ち込んでください。力は要りません。大切なのは、正確さとタイミングです」


 僕は再び杖を構え、全神経を集中させる。リラも樹脂を構え、息を止める。工房の空気が、極限まで張り詰めた。


「……今だ!」


 僕の合図と同時に、リラの樹脂が流し込まれ、そして、ミラの打ち込む小さな木槌の音が響いた。


 コンッ。


 乾いた、しかし迷いのない、完璧な一撃だった。


 木釘は吸い込まれるように木に収まり、二つに折れていた杖が、完全に一つになった。


「……できた」


 僕が安堵の息を吐くと、ミラはその場にへなへなと座り込んだ。


「はあ…心臓が飛び出るかと思った…」


「上手でしたよ、ミラさん。素晴らしい集中力でした」


 僕が声をかけると、彼女は顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。


「本当ですか!?私、役に立てましたか!?」


「ええ。ミラさんがいなければ、この修理は成功しませんでした。ありがとうございます」


 僕の言葉に、ミラは嬉し涙を浮かべていた。それは、彼女が「見習い冒険者」として、初めて仲間と共に困難を乗り越えた、記念すべき瞬間だった。


 ミラの笑顔を見ていると、僕も嬉しくなってきた。教えることの喜びを感じる。


 一方で、リラは魔石の粉と樹脂を混ぜる作業を進めていた。その手つきは、もはや「手慣れている」という次元ではなかった。


 彼女は、僕が渡した乳鉢と乳棒を、まるでそれらが自分の手の一部であるかのように正確に操る。樹脂を一滴、また一滴と、寸分の狂いもなく滴下していく。その間、彼女の瞳は普段の穏やかな青色から、あらゆる光を吸い込むような深い瑠璃色へと変わっていた。それは、職人の目というより、戦場で爆薬を調合する工兵や、禁断の秘薬を練り上げる錬金術師の目に近かった。


 混ぜ合わされた樹脂は、最初は濁った琥珀色をしていたが、彼女が特定の呪文のようなものを小声で呟くと、ふっと青白い燐光を放ち始めた。魔力が目に見える形で活性化していく。


「リラさん?」


 僕が声をかけると、彼女の肩が小さく震えた。まるで、深い夢から無理やり引き戻されたかのように。瞳の色が、いつもの穏やかな青に戻る。


「…ああ、タクミさん。すみません、少し考え事をしていました」


 そう言って曖昧に微笑んだが、その笑顔は、あまりにも多くの秘密を隠すための、完璧すぎる仮面のように見えた。リラの過去には、僕の知らない秘密がある。いや、違う。彼女の過去そのものが、僕の知らない「世界」なのだ。


 夕方になり、冒険者たちは宿に向かった。明日の夕方に完成品を取りに来るという。


「それでは、お疲れ様でした」


 レオンたちを見送った後、ミラも帰って行く。


「明日もまた木工を教えてくださいね」


「はい、楽しみにしています」


 ミラが去り、工房には僕とリラだけが残った。夕日が工房を赤く染めている。


 その時、工房の外で何かの気配を感じた。リラも同じように振り向く。


「何か聞こえませんでしたか」


「……風の音でしょう」


 リラの答えは少し不自然だった。まるで何かを隠しているような様子に見えた。


 夜が更けて、僕は二階の部屋で休んでいた。しかし、なかなか眠れない。階下から小さな音が聞こえてくる。


 気になって階段を降りると、工房の奥でリラが誰かと話しているのが見えた。相手は黒いローブを着た人物で、顔は見えない。


「……任務はどうなっている」


 低い男性の声が聞こえる。


「順調に進んでいます」


 リラの声は普段とは違って冷たかった。


「いつまでその工房にいるつもりだ」


「もう少し時間が必要です」


「魔王様はお待ちになっている。計画が遅れることは決して許さん」


 魔王?僕は息を詰めて聞き耳を立てた。


「分かっています。しかし、今は」


「情に流されているのではないか」


「そんなことは——」


「では、明日までに答えを出せ。工房を離れるか、それとも」


 黒いローブの人物はそこで言葉を切った。


「分かりました」


 リラの返事は小さかった。黒い人影は窓から外に消えていく。まるで煙のように、不気味な跡を工房の床に残しておいた。


 僕は慌てて階段を上がり、部屋に戻った。心臓が激しく鼓動している。リラは一体何者なのか。魔王という言葉が頭の中でぐるぐると回る。


 翌朝、僕は普段通りを装って工房に降りた。リラはいつものように朝食の準備をしている。


 しかし、そこには明らかな変化があった。彼女の目の下には、一睡もしていないことを示す深い隈が刻まれている。そして、彼女の銀色の髪には、いつもつけていたはずの木の髪飾りがなかった。


「おはようございます、タクミさん」


「おはようございます」


 僕がそのことに気づいた視線を察したのか、彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「少し、失くしてしまいまして」


 嘘だ、と直感的に分かった。彼女は失くしたのではない。捨てたのだ。あるいは、何かと引き換えに、手放したのだ。昨夜、僕の知らない場所で、彼女はたった一人で戦い、そして、ここにいることを選んだのだ。


「今日は杖の修理を仕上げましょう」


「はい」


 僕たちは黙々と作業を進めた。樹脂と魔石の粉を混ぜた特殊な接着剤で杖の断面を繋げ、魔法の回路が正常に流れるかを確認する。


「魔力の流れは問題ないようです」


 リラが杖に手をかざすと、微かに光が宿った。やはり彼女は魔法を使えるのだ。


「完璧ですね」


 僕は素直に感心した。たとえリラの正体が何であれ、彼女の技術と知識は本物だ。


 午後になって、ミラがやってきた。


「今日も木工を教えてください!」


「はい、今度は違う技術を覚えましょう」


 今日は彫刻刀の使い方を教えることにした。木に簡単な模様を彫る技術だ。


「うわあ、難しいです」


 ミラは苦戦していたが、諦めずに挑戦し続ける。その姿勢に好感が持てた。


「ミラさんは冒険者に本気でなりたいんですか」


「はい!村を出て、いろんな場所を冒険してみたいんです」


「危険ですよ」


「分かってます。でも、ずっと村にいるだけじゃつまらないじゃないですか」


 ミラの瞳は輝いていた。僕にはない冒険心を持っている。


「一応は基本的な技術を身につけないといけないです。時間と努力だけではなく、命にも関わることだから慎重にしてくださいね」


「はい、だからタクミさんに教えてもらってるんです」


「木工だけじゃ冒険者にはなれませんよ」


「分かってます。剣術も習うつもりです。あと、薬草の知識とか、野外での生存術とか」


 ミラの計画は具体的だった。本気で冒険者を目指しているらしい。


「応援しています」


 僕の言葉に、ミラは嬉しそうに笑った。


 夕方、冒険者たちが約束通りに工房を訪れた。


「完成しました」


 僕が修理した杖を差し出すと、マルクは慎重にそれを受け取った。


「おお、完璧に直ってる」


 杖に魔力を込めると、先端に小さな炎が灯った。魔法の回路は正常に機能している。


「素晴らしい出来栄えです。ありがとうございます」


 レオンが感謝の言葉と一緒に追加で報酬の銀貨を差し出した。僕はそれを断ろうとしたが、後に立っていたリラが断ることは礼儀ではないと言ってくれた。どうやら、冒険者の中ではアメリカのようにサービスを受けたことに対する感謝の気持ちとして、最初の金額とは別に渡す報酬があるみたいだ。


 追加補修は、元々貰った金額の半分の銀貨六枚だった。僕はそれを受け取りながら、少し誇らしい気持ちになった。


「また何かありましたら、お気軽に訪問してください」


「必ずまた来ます。それと、仲間にもこの工房のことを話しておきますね」


「ありがとうございます」


 冒険者たちが去った後、僕は改めて自分の技術に手応えを感じた。異世界に来てから、少しずつ自信がついてきている気がする。


「お疲れ様でした、タクミさん」


 リラさが温かい茶を淹れてくれる。その優しい仕草を見ていると、昨夜のことが信じられなくなる。


 僕は、彼女の淹れてくれた温かい茶を一口飲んだ。そして、意を決して顔を上げる。


「リラさん」


「はい?」


「僕は、リラさんの過去も、リラさんが抱えている事情も、何も知りません。リラさんが話してくれるまで、それを聞こうとも思いません」


 僕の真っ直ぐな言葉に、リラさんは少し驚いたように目を見開いた。


「でも、一つだけ聞かせてください」


「……なんでしょうか」


「リラさんは、今、この工房で過ごす時間が……幸せですか?」


 それは、彼女の任務や正体を問う言葉ではなかった。ただ、彼女自身の心を問う、僕にできる精一杯の質問だった。


 リラの瞳が、大きく揺れた。長い沈黙の後、彼女の唇から、か細い、しかし確かな声がこぼれ落ちる。


「……はい」


 その一言に、万感の想いが込められているのが分かった。


「幸せ、です。私が今まで知らなかった……温かくて、穏やかな時間が、ここにはありますから」


 その答えを聞いて、僕の心は決まった。今は、これで十分だ。


「承知しました。答えてくれて、ありがとうございます」


 彼女の微笑みは、何か特別な意味を含んでいるようだった。


「こちらこそ、いつもありがとうございます」


 僕たちは顔を見合わせて笑った。言葉では表現しきれない信頼関係が、そこにはあった。


 秘密があっても構わない。大切なのは今この瞬間の気持ちだ。


 夜が深くなり、工房は静寂に包まれた。今夜は昨夜のような密会は起こらないだろう。きっと、リラは自分なりの答えを見つけたのだ。


 工房の窓から見える月明かりが、僕たちの影を優しく照らしていた。


 明日もまた、新しい一日が始まる。リラと一緒に、この小さな工房で。


 僕は初めて、この異世界での生活に本当の手応えを感じていた。そして、もう一つ大切なことを学んだ。


 人は皆、背負っているものがある。それでも、その人自身を信じることはできるのだ。


 翌朝、ミラが興奮した様子でやってきた。


「タクミさん、大変です!」


「またどうしたんですか?今度はドラゴンでも村に現れました?」


「違いますよ!昨日の冒険者の人たちが、村中でタクミさんの工房の話をしてるんです」


「へぇ、まだウィロウブルックにいたのですね。もう旅に出たと思いました」


「ううん、ちょうど今から村を出たところです!それよりも、魔法杖を完璧に修理してくれた凄腕の職人がいるって」


 僕は困惑した。そんなに大げさに話されても困る。


「宿屋のおじさんも、『この村にあんな腕の職人がいたとは知らなかった』って言ってました」


「参ったな」


 注目を集めるのは苦手だ。静かに工房を営んでいたいのに。


「でも、いいことじゃないですか。お客さんが増えるかもしれませんよ」


 ミラの言葉は確かにその通りだが、僕としては複雑だった。


「そういえば、街の商人も興味を示してるって話です」


「商人?」


「はい、冒険者向けの装備を扱ってる商人が、タクミさんの工房と取引したいって」


 話が大きくなりすぎている気がした。僕はただの木工職人なのに。


「まあ、その時はその時で考えましょう」


「はい!私もタクミさんの弟子として誇らしいです」


 ミラの屈託のない笑顔に、僕も思わず笑ってしまった。


 リラも、僕たちの会話を聞いて微笑んでいる。昨日の決断の後だからか、彼女の表情にはどこか清々しさがあった。


「これからも、よろしくお願いします」


 僕がそう言うと、リラは深々と頭を下げた。


「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」


 その言葉には、彼女の新たな決意が込められていた。


 工房に差し込む朝の光が、三人の影を暖かく包んでいた。新しい日常の始まりを告げるように、胸の鼓動が静かに、しかし力強く脈打った。

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