第3話 剣を向ける方向

 先日の夜、リラが工房の外で氷の魔法を使っているところを見てから、僕はずっと考え込んでいた。あの時の彼女の手つきは、まるで魔法が体の一部であるかのように自然だった。ただの旅人がそんな高度な魔法を使えるはずがない。


 でも、僕は問いただそうとは思わなかった。彼女には隠さなければならない理由があるのだろう。それに、彼女が僕の工房で見せる表情は、あの夜の凛とした魔法使いの姿とは違って、どこか安らかで、まるで本当の自分を見つけているようだった。


 朝の光が工房の窓から差し込み、木屑が舞い踊っている。リラはいつものように黙々と棚の整理をしていた。その手つきには無駄がなく、どこか軍人のような規律正しさがある。でも時々、作業を止めて僕が作った木の指輪を見つめ、ほんの少し表情を和らげるのを見ると、胸が温かくなる。


「タクミさん、おはようございます」


 リラが振り返ると、朝日が彼女の銀色の髪を照らして、まるで氷の結晶のように輝いていた。


「おはようございます、リラさん。今日もよろしくお願いします」


 僕がそう答えた時、工房の扉が勢いよく開かれた。


「タクミ!いるか?」


 現れたのは村の鍛冶屋、ガリックだった。四十代半ばの彼は筋肉質で、煤で汚れた革のエプロンを身に着けている。村では数少ない職人の一人だ。


「はい、おはようございます、ガリックさん」


 ガリックは工房を見回すと、壁にかけられた工具、隅に置かれた椅子の滑らかな曲線に視線を向けた。


「相変わらず丁寧な仕事だな。道具の一つ一つに、使い手のことを考えた温かさがある」


 そして、リラに鋭い視線を向けた。


「こちらが噂の助手か。リラといったな」


「はい」


 リラは簡潔に答え、軽く頭を下げた。その仕草を見て、ガリックは少し眉をひそめた。


「タクミ、お前に頼みがある。冒険者用の短剣を作るんだが、柄の部分を木で作ってもらいたい」


 唐突な申し出に、僕は木を削る手を止めた。


「短剣の柄、ですか」


「ああ」


 ガリックは、煤で汚れた太い指で自分の手のひらを叩いた。


「俺の腕じゃ、金属を叩いて刃を鍛えるのはお手の物だが、どうにも木の細工は粗くなっちまう。だがな、タクミ。冒険者にとって、剣の魂は刃にあるかもしれねえが、命綱は柄にあるんだ」


 彼の声は、いつものぶっきらぼうな口調とは違う、真剣な熱を帯びていた。


「ただの木の棒をくっつければいいってもんじゃねえ。考えてもみろ。土砂降りの雨の中、あるいは返り血でぬめった手で剣を振るう。その一瞬、ほんの数ミリでも柄が手の中で滑ったらどうなる?」


 僕は息を呑んだ。ガリックの言葉は、工房での穏やかな作業からは想像もつかない、死線上の光景を僕の脳裏に映し出す。


「一瞬の滑りが、命取りになる。受け流すはずだった一撃が体に食い込み、突くはずだった一撃が虚空を切る。だから、柄は手に吸い付くようでなきゃならねえんだ」


 彼は続けた。今度は、完成したばかりだという刀身を手に取り、その重心を確かめるように軽く振る。


「それに、バランスだ。刀身の切れ味を殺すも活かすも、柄の数グラムの重さ、その重心の位置次第だ。柄が重すぎれば剣先は踊り、軽すぎれば振り回される。刀身と柄が一体になって初めて、剣は冒険者の腕の延長になる」


 それは、僕が前世で趣味の木工道具を作っていた時に考えていたこととよく似ていた。手に馴染むカンナやノミは、まるで自分の体の一部のように動いてくれる。だが、それが人の命を左右する武器となると、その意味の重さは比較にならない。


「責任重大ですね」


 僕がそう呟くと、ガリックは初めて少しだけ口元を緩めた。


「ああ、そうだ。だからお前に頼みに来た。お前の作るもんは、ただ形が良いだけじゃねえ。使う人間のこと、その一手一手の動きまで考えて作られてる。俺にはそれが分かる」


 人の命に関わる道具を作る。その責任の重さに身が引き締まる思いだった。だが同時に、職人としてそこまでの信頼を寄せられたことに、胸の奥から静かな高揚感が湧き上がってくるのを感じた。


 ガリックの言葉に、僕は背筋が伸びた。


「分かりました。僕でよければ、ぜひやらせてください。ただ、僕は武器の柄を作った経験がありません。もしよろしければ、一緒に作業を進めさせていただけませんか? 最高の柄を作るために、ガリックさんの知識も貸していただきたい」


「ほう、面白いことを言うな。普通の職人なら、一人で任せろと言うところだが」


 ガリックは興味深そうに笑うと、満足げに頷いた。


「僕は自分の技術を過信しません。特に人の命に関わるものなら、なおさらです」


「なるほど、謙虚だな。いや、真面目すぎるくらいだ。いいだろう。最高の刃には、最高の柄が必要だ。お前となら、それが作れるかもしれねえな」


 そう言いながら、ガリックは工房の中を見回した。僕が今まで作った作品を見て、少しずつ表情が変わっていく。


 彼が手に取ったのは、先日修理したグレース婆さんの木の鳥だった。


「これは…細工が実に丁寧だな。継ぎ目がほとんど分からない。それに、この羽根の表現…まるで本物の鳥のようだ」


「ありがとうございます。でも、まだまだです」


「まだまだだと?タクミ、お前は自分の腕を過小評価しすぎる」


 ガリックは木の鳥を作業台に戻すと、僕をじっと見つめた。


「お前は技術はあるが、自信がなさすぎる。職人にとって、技術と同じくらい大切なのは、自分の作品に対する信念だ」


 彼の言葉は、胸の奥に響いた。


「ガリックさんの言う通りです」


 いつの間にか、リラが僕たちの会話に加わっていた。


「タクミさんの作品には、技術以上に温かい心が込められています」


 リラがそう言いながら、自分の指にはめた木の指輪を見つめた。


「助手の方が主人より物事がよく見えてるな」


 ガリックは笑ったが、その笑い声に少し冷たさが混じっているのを僕は感じ取った。


「それで、短剣の柄の件ですが、木材はどのようなものがよろしいでしょうか?」


 僕がそう尋ねると、ガリックは炉の火を見つめながら、少し考えるように腕を組んだ。


「そうだな…要望はいくつかある。まず、敵の盾や鎧と打ち合った時の衝撃に耐える『粘り強さ』だ。硬いだけじゃ、いつかポッキリ折れちまうからな」


 彼は自分の拳をもう片方の手のひらで受け止め、ぐっと力を込める。


「それから、『水気への耐性』。雨の中だろうが、返り血を浴びようが、木が水を吸って膨れたり、逆に乾燥して縮んだりしちゃ話にならん。常に同じ握り心地を保ってくれなきゃ困る」


「粘りと、寸法安定性ですね」


「そうだ。最後に、これは俺の個人的な好みかもしれんが…握った時にひんやりしない『温かみ』が欲しい。鉄は良くも悪くも冷たいからな。命を預ける相棒の柄くらいは、持ち主の体温に応えてくれるような奴がいい」


 粘り、耐水性、そして温かみ。彼の要望は、単なる素材のスペックではなく、極限状況で使う道具への深い理解と愛情に満ちていた。僕は頭の中で、知っている木材の特性を一つ一つ吟味する。ウォールナットは衝撃吸収に優れるが、少し重いかもしれない。アッシュは軽くて丈夫だが、水気には弱い。マホガニーは加工しやすいが、冒険者の道具としては少し繊細すぎる。


「…それでしたら、やはり『オーク(樫)』が良いかと思います。特に、ウィロウブルックの北の森で、ゆっくり時間をかけて育ったものが手に入れば最高ですが」


「ほう、オークか。ありきたりなようで、奥が深いな。なぜそれがいい?」


 ガリックの問いに、僕は自分の考えを整理しながら答えた。


「オークは木目が緻密で、繊維が複雑に絡み合っているので、打ち合いの衝撃を芯でしなやかに受け流してくれます。そして何より、タンニンという成分を豊富に含んでいるので、水気や腐食に滅法強いんです。船やウイスキーの樽に使われるくらいですから」


「タンニン、だと?聞いたこともねえな」


「ええ。それに、オークにはもう一つ良い点があります」


 僕は自分の手のひらを見つめた。


「使い込むほどに、持ち主の手の脂を吸って、表面が滑らかでありながらも滑りにくい、独特の風合いに育っていくんです。冷たい木の塊が、長い時間をかけて、持ち主だけに応えてくれる温かい相棒になる。ガリックさんがお望みのものに、一番近いんじゃないでしょうか」


 僕の言葉に、ガリックは目を丸くして、やがて腹の底から「かっかっか」と笑った。


「木が育つ、ねえ!なるほどな!俺たち鍛冶屋は、鉄が錆びて朽ちるのをどう防ぐかしか考えねえが、お前らは逆か。持ち主と一緒に歳を重ねて強くなる、か。面白い!実に面白い!」


 彼はひとしきり笑った後、改めて感心したように僕を見た。


「タクミ、お前さん、一体どこでそんな知識を仕入れたんだ? そこらの木こりや大工でも、木材の性質をそこまで語れる奴はそういねえぞ。まるで、何十年も木と向き合ってきた古強者の職人みてえだ」


「前世…いえ、以前の経験で、少しばかり」


 僕は慌てて言葉を濁した。危うく、口が滑るところだった。


「前世?」


 ガリックは訝しげに首を傾げたが、やがてニヤリと笑った。


「はは、面白い冗談を言う。まあいい、お前のその『前世』とやらの知識、存分に貸してもらうとしようじゃねえか」


 彼は深くは追求せず、僕の肩を力強く叩いた。その手は熱く、職人としての信頼がずっしりと伝わってきた。


「それより、実際に作業してみよう」


 僕たちは工房を出て、ガリックの鍛冶場に向かった。リラも一緒についてきた。


 鍛冶場は僕の工房とは正反対の空間だった。炉の熱気と金属を叩く音、火花が散る光景は、まさに職人の戦場といった感じだ。


「これが今回作る短剣の刀身だ」


 ガリックが作業台に置いたのは、美しく研ぎ澄まされた刀身だった。


「素晴らしい出来ですね」


「三十年鍛冶屋をやってきた集大成だ。だからこそ、柄も妥協したくない」


 ガリックは刀身を手に取り、重心や長さを確認しながら説明してくれた。


「タクミさん」


 リラが僕に近づいて、小声で言った。


「この刀身、ただの武器ではありませんね」


「え?」


「金属の成分が普通とは違います。魔法の力を込めやすい合金が使われているようです」


「魔法剣?」


「おそらく。柄にも魔力を流しやすい材質を使った方がいいかもしれません」


 リラの助言は的確だった。だが、同時に新たな疑問が生まれた。


「よし、仕様は決まった。材料を選びに行こう」


 材木置き場で、リラが指し示したのは、木目が美しく、重量も適度な樫の木材だった。


「この木がいいですね」


「どうしてそう思うんですか?」


「木目が均一で、乾燥も十分。魔力の伝導率も良さそうです」


 またも魔法に関する専門的な発言だった。


「リラ、お前、何者だ?」


 突然、ガリックが鋭い声で言った。


「ただの旅人です」


「ただの旅人が魔法武器について、そこまで詳しいわけがない。それに、その立ち振る舞い…軍人の匂いがする」


「ガリックさん」


 僕は割って入った。


「僕は、リラさんを信頼しています。彼女には何か事情があるのかもしれませんが、今は詮索するべきではないと思います」


「タクミ、お前は人を信じすぎる」


「でも、僕たちがするべきことは、良い武器を作ることです」


 僕の言葉に、ガリックは少し表情を和らげた。


「まあ、それもそうだな。職人は作品で語るべきだ」


 材料を工房に運び、いよいよ制作開始だ。僕は樫の木を慎重に加工し始めた。


「すごいですね、タクミさん」


 リラが僕の隣で、感嘆の声を上げた。ふと見ると、彼女の銀色の髪に、僕が以前練習で作った木の髪飾りが挿されているのが見えた。木目が不揃いで、自分としては失敗作のつもりだったが、彼女はそれを毎日大切そうにつけてくれている。


「木が、まるで生き物のように形を変えていきます」


「リラさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」


 僕の言葉に、リラは微笑んだ。その笑顔は、いつもより温かみがあった。作業が進むにつれて、僕は前世では感じたことのない充実感を覚えた。


 ちょうどその時、工房の扉が勢いよく開かれた。


「タクミさんー!大変よ!」


 現れたのはミラだった。息を切らしながら、僕たちの方に駆け寄ってきた。


「ミラさん、どうしました?」


「村の宿屋に、すごい人が来てるの!勇者よ、勇者!」


 ミラの言葉に、リラの表情が一瞬強張った。


「勇者?」


「そう!金色の髪で、立派な鎧を着た、すごくかっこいい人!」


 ミラの言葉に、僕は思わず遠い目をしてしまった。


 金色の髪、立派な鎧、そしてイケメン。なるほど、見事なまでに勇者のテンプレートをなぞった出で立ちだ。前世で読んだ小説やプレイしたゲームの主人公も、大体そんな感じだった。まさか、この世界でその「様式美」をリアルに拝むことになるとは思わなかったが。


 …なんて、のんきなことを考えている場合じゃない。問題はその次だ。


 僕が内心で一人ごちたのと、ミラの言葉が続いたのはほぼ同時だった。


「魔王軍の幹部を追ってるんですって。なんでも、このあたりに逃げ込んだかもしれないって…あ、そういえばリラさん!」


 話の矛先が急に変わった。ミラが、まるで今思い出したかのように、ぱっとリラの方を向く。


「その髪飾り、やっぱりタクミが作った物ですよね?この前、アンナちゃんがつけてたのと同じデザインだ!リラさん、すごく似合っています!」


 ミラの無邪気な言葉に、リラは少し頬を染めて「ありがとう」と小さく呟いた。彼女のその反応に少しだけ安堵したのも束の間、ミラの言葉がさらに続く。


「氷の魔法を使う女性の魔族が、この近辺で目撃されたって、宿屋の主人が言ってたわ!」


 氷の魔法。その言葉が、工房の穏やかな空気を鋭いガラス片のように切り裂いた。僕は二日前の夜の出来事を思い出す。月明かりの下で、美しい氷の結晶を舞わせていたリラの姿を。


 僕の視線が、無意識にリラへと向かう。彼女は平静を装っているが、その顔色は明らかに蒼白になっていた。


「リラ」


 ガリックがリラを呼んだ。


「お前、氷の魔法は使えるか?」


「いえ、使えません」


 リラは即座に否定した。だが、その声は少し震えているように聞こえた。その瞬間、リラの手が震え、指輪にかけた親指に力がこもった。


――嘘をつくたびに、この指輪が、彼の温もりが、私の心を焼く。


「……ごめんなさい」


 声なき謝罪が唇の裏で震えていた。


「まあ、勇者が来てくれたなら安心です」


 ミラは屈託なく笑った。


「情報収集してるみたいですが。そのうち、ここにも来ると思います」


 リラの顔色が蒼白になった。


「大丈夫ですよ、リラさん」


 僕は彼女にそっと声をかけた。


「よし、作業を続けよう」


 ガリックが、まるで場を仕切り直すように声をかけた。


「勇者が来ようと来まいと、俺たちは職人だ。目の前の仕事に集中するのが一番だ」


「……そうですね」


 その言葉に、僕は我に返った。リラのこと、勇者のこと、考え始めればきりがない。だが、今この手の中にあるのは、人の命を預かることになる樫の木だ。雑念を振り払い、僕は再び木と向き合った。


 工房の空気が変わる。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返り、僕の呼吸と、木を削る音だけが響き渡る。


 まずは、切り出し小刀で大まかな形を削り出していく。サク、サク、という小気味良い音が、一定のリズムを刻む。刃先が木の繊維を断ち切る微かな感触が、指先から伝わってきた。ガリックに教わった刀身の重心、冒険者の手の大きさ、そしてリラが言っていた「魔力の流れ」。そのすべてを頭の中で立体的に組み立て、寸分の狂いもなく木に写し取っていく。


 形が整ってきたところで、今度は豆カンナに持ち替えた。これは僕が前世の知識を元に、ガリックに頼んで作ってもらった特注品だ。シュル、シュルル…と、息を吐くような音を立てて、カンナからリボンのように透き通るほど薄い木屑が生まれては、床に舞い落ちる。何度も、何度も、柄を自分の手に握りしめては、フィット感を確かめた。人差し指が自然に収まる緩やかな窪み。力を込めた時に支えとなる、小指側の絶妙な膨らみ。ただ握りやすいだけじゃない。まるで、柄そのものが「こう握ってくれ」と語りかけてくるような、そんな形を目指した。


 工房の隅で、リラが息を呑んで僕の作業を見つめているのが分かった。彼女の不安を少しでも和らげたい。その一心で、僕はさらに集中力を高めた。


 仕上げは、鉱石トカゲの皮で作った紙やすりだ。最初は粗い番手で、次に細かい番手で、表面を磨き上げていく。最初はざらついていた樫の木肌が、磨くほどに艶を帯び、光を柔らかく反射し始めた。指の腹でそっと撫でると、まるで赤子の肌のように滑らかで、それでいて木の持つ確かな温もりが伝わってくる。木目が美しく浮かび上がり、一本の樫の木が、唯一無二の作品へと生まれ変わる瞬間だった。


 窓から差し込む光が、白からオレンジ色へと変わる頃、柄はついに完成した。


「……できた」


 僕が呟くと、ずっと黙って見守っていたガリックが、ゆっくりと近づいてきた。彼は完成した柄を無言で受け取ると、その重さを確かめるように手のひらに乗せ、あらゆる角度から光に透かして木目を検分した。そして、刀身の茎(なかご)に、柄を慎重に合わせる。


 コツン、と硬い音がしたかと思うと、柄はまるで最初からそこにあったかのように、寸分の隙間もなく刀身に吸い付いた。


「完璧だ」


 ガリックが、心の底から感嘆の声を上げた。彼は短剣を手に取ると、軽く数回、空を切る。刃が風を切る音と、彼の腕の動きが完全に一体化していた。


「重心も握り心地も申し分ない。これなら、どんな状況でも持ち主の期待に応えてくれるだろう」


 その時、工房の扉が、控えめに、しかし確かな強さで三度ノックされた。


 コン、コン、コン。


 その音だけで、工房に満ちていた安堵の空気がピンと張り詰める。僕とガリックは顔を見合わせ、リラの肩が微かに強張ったのを僕は見逃さなかった。


「……どうぞ」


 僕が声を絞り出すと、扉が静かに開かれた。


 そこに立っていたのは、夕陽を背負った一人の青年だった。ミラの言っていた通り、陽光を溶かしたような金色の髪、そして磨き上げられた白銀の鎧が、工房の薄暗がりの中で眩しいほどの光を放っている。腰に佩いた剣の柄頭には、青い宝石が埋め込まれ、伝説から抜け出してきたかのような神々しさがあった。


 だが、僕の目を引いたのは、その装飾よりも、彼の佇まいだった。ただそこにいるだけで、周囲の空気を支配するような、圧倒的な存在感。英雄、という言葉がこれほど似合う人間を、僕は前世でも今世でも見たことがなかった。


 彼は工房の中へ静かに入ってくると、まず壁にかけられた僕の工具に、そして隅に置かれた椅子へと視線を滑らせた。それは品定めするような厳しい目ではなく、純粋に良いものを見つけた時の、職人の目に近かった。


「……素晴らしい仕事だ。道具の一つ一つが、使い手のことを考えて作られているのが分かる。木が喜んでいるようだ」


 彼の最初の言葉は、意外にも穏やかな称賛だった。


「ありがとうございます」


「私は勇者アルトと申します。あなたが、この工房の主、タクミさんですね」


 彼は僕に向き直り、丁寧に名乗った。その所作には一点の隙もない。


「は、はい。僕がタクミです」


「そして、そちらの方が…」


 アルトの視線が、僕の隣に立つリラへと移る。その瞬間、彼の瞳の奥に宿っていた穏やかな光が、すっと消えた。まるで、獲物を見つけた鷹のように、鋭く、冷たい光に変わる。


「こちらは、助手の…リラさんです」


 僕が紹介し終えるか終えないかのうちに、アルトは一歩、リラとの距離を詰めた。


「リラ、ですか」


 名前を反芻する彼の声は、先ほどとは打って変わって低く、硬質的だった。彼はリラの顔を、髪の色を、その佇まいを、まるで査定するようにじっと見つめている。リラはその視線に射抜かれながらも、必死に平静を装い、小さく頷いた。


「美しい方ですね」


 その言葉は、もはや社交辞令には聞こえなかった。美しいからこそ、疑っている。そう言わんばかりの響きがあった。


「どちらのご出身で?」


「……北の、小さな村です」


 リラの声はか細く、かろうじて言葉の形を保っていた。


「北、ですか」


 アルトはそう呟くと、再び沈黙した。工房の中には、彼の鎧が動くたびに立てる、微かなかすれ音だけが響く。それはまるで、これから始まる尋問の序曲のようだった。僕は、リラの背中を守るように、半歩前に出た。


「あの、アルトさん。僕たちに何かご用でしょうか?」


 僕が空気を変えようと口を挟むと、アルトは視線をリラから外さないまま、答えた。


「ええ。実は、魔王軍の幹部を追っているのです。氷の魔法を使う、女性の魔族が、このあたりに潜伏しているという確かな情報がありまして」


 彼は言葉の一つ一つを、まるで楔を打ち込むように、ゆっくりと、はっきりと口にした。


「……そのような方は、見かけていませんが」


「そうですか」


 アルトは初めて僕の方に顔を向けたが、その瞳は笑っていなかった。そして、彼は再び、まるで逃がさないとでも言うように、リラへと視線を戻す。


「最後の質問です、リラさん。あなたは、魔法が使えますか?」


 その問いは、静かだったが、抜身の剣よりも鋭く、僕たちの心臓に突き立てられた。


「……いえ、使えません」


 リラが絞り出した答えに、工房の温度が、さらに数度下がったような気がした。


「そうですか。それでは、失礼ながら、魔法を使えないことを証明していただけますか?」


 アルトの要求に、工房の空気が緊張に包まれた。


「あの、アルトさん」


 僕は勇気を振り絞って言った。


「疑いだけで人を尋問するのは、いかがなものでしょうか?」


「タクミさん」


 アルトは僕を見た。その目には、少し冷たい光が宿っている。


「魔王軍の幹部は、多くの人を殺している危険な存在です。慎重になりすぎるということはありません」


「それは分かりますが」


「では、なぜリラさんを庇うのですか?」


「後ろめたいことなどありません。ただ、リラさんは僕の大切な助手です。根拠もなく疑われるのを見過ごすことはできません」


「根拠がない?」


 アルトは笑った。だが、その笑みには温かさがなかった。


「氷の魔法を使う女性の魔族。美しい外見。そして、正体を隠そうとする態度。十分すぎる根拠ではありませんか?」


 確かに、状況証拠は揃っている。だが、僕は引き下がるわけにはいかなかった。


「それでも、証拠というには不十分です」


「タクミさん、あなたは魔王軍がどれほど危険な存在か理解していない」


 アルトの声に、かすかな苦しみが混じった。


「……僕は昔、魔族を信じた。結果、村ひとつが消えた」


 アルトの告白に、工房の空気が変わった。


「正しいかどうかじゃない。僕はもう、間違えられないんだ」


 アルトの手が剣の柄に伸びた。だが、その手は微かに震えていた。


「アルトさん」


 僕はアルトの痛みを感じ取りながら、それでも言った。


「でも、僕が信じるのは、今ここにいるリラさんです」


 僕はリラの方を見た。彼女の瞳には、恐怖と感謝、そして戸惑いが入り混じっている。


「リラさんは、グレース婆さんの木の鳥を修理している時、涙を流していました。他人の思い出を大切にして、心から喜んでくれる人が、本当に悪い人でしょうか?」


 アルトの手が剣の柄を握った。鞘から刃がほんの少し見えた瞬間。


「待ってください!」


 僕は咄嗟に作業台から木製の道具箱を手に取り、それをアルトとの間に投げ出した。箱は床に落ち、中から木工道具がばら撒かれた。飛び散った木くずの中、僕はリラをかばって立ち塞がった。


「感情に惑わされてはいけません」


 アルトの声が震えていた。剣を半分ほど抜いたまま、彼は自分の剣身に映った自分の目を見つめた。


「また…誰かを、間違って裁くところだった」


 そう呟いたアルトの顔には、ほんの一瞬、自嘲の笑みが浮かんだ。


「感情?」


 僕は首を振った。


「あの時のリラさんの涙は、本物でした。演技では流せない涙です」


「なぜそう言い切れるのですか?」


「なぜなら僕は、人が本当に何かを大切にする時の表情を知っているからです」


 その時、工房の扉が開き、ミラが顔を出した。


「タクミさん、勇者様がいるって聞いて…」


 ミラは工房の緊張した雰囲気に気づき、少し戸惑った。


「いえ、ミラさん。丁度良いところに来てくれました」


 僕はミラを手招きした。


「リラさんについて、何かお話しいただけますか?」


 ミラは屈託なく答えた。


「リラさんはとても優しい人ですよ。私が転んで怪我した時、手当てしてくれたし」


 ミラの証言が続く中、僕は作業台の上に置かれた短剣に目をやった。そして、さっきミラが言った言葉を思い出した。


「アルトさん、少しお待ちください」


 僕はリラの髪を指した。そこには、木目が不揃いで、僕としては失敗作のつもりだった木の髪飾りが挿されている。


「これは、僕が村の子どもに作ってやったものと、まったく同じ意匠です」


 確かに、彼女の髪に僕の作った髪飾りが挿されている。


「リラさんは、ずっとそれを大事にしてくれていました」


 リラがその髪飾りをそっと手に取った。


「これは、私が自分で選んだ鎖です」


 リラは髪飾りを外し、手のひらに乗せた。


「この木細工に封じられているのは、魔法じゃなくて、私の願いなんです」


 リラの瞳に深い慟哭が宿った。それは涙では表現しきれない、魂の底からの祈りだった。


「……あんたが作ったのか?」


 アルトの声が、少し和らいだ。


「はい。彼女は僕の失敗作でさえ、宝物のように大切にしてくれます」


 アルトはしばらく沈黙した。そして、ガリックが作った短剣に目をやった。


「……ガリック殿。その短剣、見事な出来栄えだ。作り手の魂がこもっている。そして、その柄を作ったのはタクミ殿、あなたですね」


「は、はい」


「これほど誠実な仕事をする職人が、命を懸けて庇う人間だ」


 アルトは深いため息をついた。


「……分かった。今回はあなたの『作品』と『言葉』を信じよう」


 アルトはゆっくりと剣を鞘へと戻した。カチリ、と硬質な音が工房に響く。それは、かつて仲間を失った日に抜いたままだった彼の後悔が、ようやく鞘に納まった音のようにも聞こえた。彼の肩から、見えない重荷が少しだけ下りたのを、そこにいた誰もが感じ取った。


「だが、もし万が一、この村に何かあれば、その時は私がこの剣で裁きを下す。それでいいか?」


 その声には、先ほどまでの刺々しさは消えていた。


「ありがとうございます」


 アルトが立ち上がると、工房の緊張が解けた。


「それでは、我々はこれで失礼します」


 アルトが去った後、リラは大きくため息をついた。


「ありがとうございました、タクミさん」


「当然です」


 ガリックが僕の肩を叩いた。


「タクミ。今日の短剣の柄は、お前が今まで作ったものの中で一番良い出来だ」


 ガリックは短剣の柄を撫でながら続けた。


「守るものができた職人の手は、強くなるもんだ」


 僕は頬が熱くなるのを感じた。


「大切な人を守りたいと思った時、人は変わるものなんですね」


「大切な人、か」


 ガリックが意味深に呟いた。


「タクミさん」


 リラが僕に近づいてきた。そっとタクミの作業台の上のカンナ屑を指でつまみ、丸める。そして、それを自分の手のひらに乗せて、大切そうに見つめた。


「いつか……この工房が、本当に私の居場所だと胸を張って言えるようになった時、全てをお話しします。それまで……」


「待ってます」


 僕は即座に答えた。


「ありがとうございます」


 リラの瞳に感謝の光が宿り、頬を一筋の雫が伝った。それは氷が溶けて水になるように、静かで温かだった。


 昨日とはまた違う夜になり、工房に戻って一人になると、僕は今日みんなで作った短剣をもう一度手に取った。樫の木の柄は、僕の手のはずなのに、どこか温かい。


 この世界には、勇者がいて、魔法がある。物語のような奇跡が、すぐ隣にある。

転生したばかりの頃は、そんな途方もない力の前で、木を削ることしかできない自分がひどく無力に思えた。


 だが、今日分かった。


 勇者の剣が罪を断つなら、僕の手は、誰かの涙を拭うものを作れる。魔法が凍てついた心を生むなら、僕の手は、木に温もりを宿して心を溶かすことができる。


 力が全てを解決するわけじゃない。世界を救うことだけが正義じゃない。たった一人、目の前の誰かを守り、その人が安らかに眠れる場所を作ること。それも、この世界で生きていくための、一つの戦い方であり、一つの「奇跡」なのだ。


 窓の外では、月が静かに輝いている。僕の工房で、リラが眠っている。


 それは、僕がこの手で起こした、ささやかで、かけがえのない奇跡の始まりだった。

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