第七章 記憶の庭師として

翌週、美咲が最後の診察に来た。

彼女の表情は、初めて会った時とは全く違っていた。記憶を取り戻した安らぎと、新しい決意に満ちている。


「先生、ありがとうございました」

美咲は深々と頭を下げた。

「おかげで、健太との記憶を取り戻すことができました」


「それは良かった」

僕は微笑んだ。

「健太さんも、きっと安心されているでしょう」


「はい」

美咲は幸せそうに頷いた。

「昨夜、彼にプロポーズの返事をしました。改めて、結婚させてくださいと」


僕の胸に、複雑な感情が渦巻いた。

嬉しさと、少しの寂しさと。そして、深い安堵感。


「おめでとうございます」

僕は心から言った。

「君たちなら、きっと幸せになれる」


美咲は僕を見つめた。その瞳には、恵の記憶から来る深い理解があった。


「先生」

「はい」

「私の中にある、あの記憶について……」


僕は身を乗り出した。


「その記憶は、私が大切に保管させていただきます」

美咲の声は静かで、でも確信に満ちていた。

「その人の愛を、私なりの形で受け継いでいきたいと思います」


「美咲さん……」

「その人が愛した『愛は与えることで増える』という言葉。私も、その言葉を生きていきたいと思います」


僕の目に涙が浮かんだ。

恵の愛が、美咲を通して新しい形で開花しようとしている。


「ありがとう」

僕は美咲に言った。

「君がその記憶を大切にしてくれるなら、彼女も安心するでしょう」


美咲は立ち上がり、窓辺に向かった。


「先生、私にお聞きしたいことがあります」

「何でしょう?」

「その人は、先生に何を望んでいると思いますか?」


僕は少し考えてから答えた。


「きっと……僕が幸せになることを望んでいるでしょう」

「では、先生はこれからどうされるのですか?」


その質問に、僕は即座に答えることができなかった。


三年間、僕は記憶を封印して生きてきた。

感情を殺し、機械的に治療を行ってきた。

だが、美咲の治療を通して、僕自身も変わり始めている。


「分からない」

僕は正直に答えた。

「でも、少なくとも記憶から逃げることはやめようと思います」


「それが最初の一歩ですね」

美咲は振り返って微笑んだ。

「きっと、その人もそれを望んでいるはずです」


美咲は診察室を去る前に、もう一度僕を振り返った。


「先生、私たちの結婚式にいらしてください」

「結婚式に?」

「はい。その人の記憶を受け継いだ私の結婚式です。きっと、その人も喜んでくださるはずです」


僕は少し迷ったが、やがて頷いた。


「ありがとうございます。ぜひ、参加させていただきます」


美咲が去った後、僕は一人で診察室に残された。

左手の薬指は、もう疼いていなかった。

代わりに、温かな感覚が宿っている。


恵の愛が、新しい形で続いていく。

美咲と健太の愛の中で、形を変えて生き続ける。


愛は与えることで増える。

その言葉の本当の意味を、僕はやっと理解した。

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