第六章 魂の約束
その日の夕方、僕は久しぶりに健太に電話をかけた。
三年間、ほとんど連絡を取っていなかった親友に。
「凛太郎? 珍しいじゃないか」
健太の声は、昔と変わらず明るかった。
「どうしたんだ、急に」
「美咲さんのことで、話がある」
僕は簡潔に言った。
「今夜、時間は取れるか?」
健太は少し沈黙した。
「……美咲のことを、君が知っているのか?」
「僕が彼女の担当医だ」
「担当医って……まさか」
「記憶障害の専門医として、彼女を診ている」
健太は驚いたようだった。
「なんて偶然だ……いや、偶然じゃないのかもしれないな」
「どういう意味だ?」
「実は、美咲が記憶を失った日……あれは恵の命日だったんだ」
恵。
僕の妻の名前。
健太は僕の妻のことを、そう呼んでいた。
「命日に……」
「ああ。3月15日。あの交通事故から、ちょうど3年目の日に、美咲は記憶を失った」
僕は電話を握る手に力がこもった。
やはり、これは偶然ではない。すべてが繋がっている。
「今夜8時に、いつもの喫茶店で会えるか?」
「もちろんだ」
電話を切った後、僕は一人で考えていた。
健太は美咲の記憶障害の原因を知らない。
彼女の中に恵の記憶が宿っていることも知らない。
どこまで話すべきか。
健太にとって、それは受け入れがたい真実かもしれない。
だが、真実は話さなければならない。
美咲のためにも、健太のためにも、そして恵のためにも。
夜8時。いつもの喫茶店。
健太は僕の向かいに座り、コーヒーカップを両手で包んでいた。
「美咲の記憶は、戻ったのか?」
健太の最初の質問は、それだった。
「ああ。君との思い出は、完全に戻った」
「それは……良かった」
健太の表情には、安堵と複雑さが混じっていた。
「でも、君は何か心配事があるようだな」
「凛太郎……実は、美咲が時々変なことを言うんだ」
「変なこと?」
「海の話をするんだよ。僕たちは海にはほとんど行ったことがないのに、とても詳しく海辺のことを話す」
僕は静かに聞いていた。
「それに、『愛は与えることで増える』なんて言葉も使う。僕が教えた覚えはないのに」
健太は困惑していた。恋人の変化に戸惑っていた。
「健太」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「君は魂の転生ということを信じるか?」
「魂の転生? 何だよ、急に」
「答えてくれ」
健太は少し考えてから答えた。
「分からないな。あるかもしれないし、ないかもしれない。でも、恵が死んだ時……僕は確かに感じたんだ。彼女の魂が、どこかに旅立っていくのを」
恵が死んだ時、健太も病院にいた。
僕の親友として、僕を支えてくれていた。
「その魂が、もし誰かの中に宿ったとしたら、君はどう思う?」
「……まさか」
健太の顔が青ざめた。
「美咲の中に、恵の記憶が……?」
「すべてではない。でも、確かに一部は宿っている」
健太はコーヒーカップを机に置いた。手が震えていた。
「それは……それは本当なのか?」
「僕も最初は信じられなかった。でも、美咲の口から恵の言葉が出てくる。恵の記憶が語られる」
健太は頭を抱えた。
「どうして……どうして美咲なんだ?」
「美咲と恵は、同じ日の同じ時刻に生まれている。魂の波長が似ているらしい」
「魂の波長……」
健太は呟いた。
「じゃあ、僕が美咲を愛するのは……」
「違う」
僕は断言した。
「君の美咲への愛は本物だ。恵の記憶があるからではない。美咲自身を愛しているんだ」
健太は僕を見つめた。
「どうして、そう断言できる?」
「君の目を見れば分かる」
僕は微笑んだ。
「君が美咲の名前を呼ぶ時の表情。それは恵を見ていた時とは違う。美咲だけに向けられた、特別な愛だ」
健太の目に涙が浮かんだ。
「でも、恵の記憶が美咲の中にあるなんて……僕はどう接すればいいんだ?」
「普通に接すればいい」
僕は言った。
「美咲は美咲だ。恵ではない。恵の記憶を少し受け継いでいるだけで、美咲自身の人格、美咲自身の魂がある」
「でも……」
「健太、君は美咲の何を愛している?」
健太は少し考えてから答えた。
「彼女の優しさ、彼女の笑顔、彼女の強さ……」
「それらは美咲のものだ。恵のものではない」
健太は頷いた。
「そうだな……美咲は美咲だ」
「ああ。そして、恵の記憶は美咲をより豊かにしている。恵の愛も、美咲の愛の一部となって、君に注がれている」
健太は僕を見つめた。
「凛太郎、君はそれで良いのか?」
「何が?」
「恵の記憶が、美咲を通して僕に向けられることを」
僕は少し考えてから答えた。
「愛は与えることで増える」
僕は恵の言葉を口にした。
「恵がそう教えてくれた。愛は独占するものじゃない。分け与えるものだ」
「でも、辛くないか?」
「辛い」
僕は正直に答えた。
「でも、恵の愛が無駄になるよりはいい。君と美咲が幸せになることで、恵の愛も生き続ける」
健太は深く息をついた。
「分からないことだらけだ。でも、一つだけ確かなことがある」
「何だ?」
「僕は美咲を愛している。恵の記憶があろうとなかろうと、僕は美咲を愛している」
僕は微笑んだ。
「それで十分だ」
喫茶店を出る時、健太は僕に言った。
「凛太郎、君も新しい愛を見つけろよ」
「美咲にも同じことを言われた」
「恵もきっと、同じことを思っているはずだ」
僕は夜空を見上げた。星がきれいに見えている。
「いつか、そうできるかもしれない」
「『いつか』じゃなくて、『きっと』だ」
健太は僕の肩を叩いた。
「恵の愛を受け継いだ美咲が言うなら、間違いない。君にも新しい愛が訪れる」
その夜、僕は一人でアパートに帰った。
部屋の机の上に、恵の写真立てを表向きに置いた。
もう、隠す必要はない。
「恵」
僕は写真に語りかけた。
「君の愛は、美咲の中で生き続けている。健太の中で育まれている」
写真の中の恵が、微笑んでいるように見えた。
「愛は与えることで増える。君が教えてくれた言葉の意味が、やっと分かったよ」
僕は写真を胸に抱いた。
もう、記憶を封印する必要はない。
恵への愛も、恵の死の悲しみも、すべて僕の一部として受け入れよう。
そして、いつか新しい愛が訪れた時、今度はその愛を大切に育てよう。
恵の愛と一緒に。
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