第九話 繋がる心


晨明の意識は、死の泥に溶けていた。

音も光も、体の感覚もない。全身の輪郭がほどけて消える感覚は、以前にも感じたことがある気がした。何処でだったろうか。

ぼんやりと、記憶のようなものだけが、晨明の自己を確立させてくれる。不意に浮かんだのは、養父の八雲の背中だった。

日が変わる前には帰るといったのに、結局、約束を破ってしまった。今頃、とても悲しんでいるかもしれない。怒っているかもしれない。


「ああ、俺。そういえば、死んだのか。死んだら俺は地獄にいくのだろうか。親不孝者は賽の河原に行くんだったか。あれ、でもあれは子供だけだっけ?」


不思議と、死の世界は白だけで出来ていた。真っ暗闇とどちらがましだろう。

自分はどこへ向かうべきなのかも分からず、とりとめもなく、過去の思い出ばかりが浮かんでは消える。

そんな晨明の記憶を反映させるかのように、鉛筆で擦って描いたかのような情景が、目の前に広がる。


「私たちは、世界に嫌われている」


寂しい声が、晨明の意識に強く呼びかけた。

誰も居ない、夕陽の差す喫茶店の店内。シミだらけの壁に一台の白いピアノが置かれ、一人の少女が晨明に背を向けて、鍵盤を奏でている。

少女と呼ぶには、彼女の背丈は大きすぎる。逞しく筋骨隆々で、可憐や愛らしいという言葉とは無縁の、男と見紛うような広い背中。

穏やかなピアノの旋律が鼓膜を揺さぶる。晨明はこの旋律の名を知っている。

確かショパンの練習曲集第3曲──人呼んで「別れの曲」。


「誰も、私たちが生きていることを歓迎しない。誰も、私たちが倖せになることを望まない。だから私は、怒ってる。いつだって、憎んでる」


クロッカスの花に似た紫の髪が、少女の演奏の動きに合わせて、ふらふら揺れる。

曲のメロディは物静かで望郷を思わせるはずなのに、少女が奏でる「別れ」は、苛烈で悲しみに溢れていた。

その背中を、晨明はカフェの椅子に腰掛けて、ぼんやり見つめた。夏の斜陽が、カフェの窓ガラス越しに、じりじりと晨明の頬を焼く。

この記憶を知っている。七年前の、七月の半ばだった。


「この町が嫌いだ。何にもなくて、つまんないくせに、さも特別に大切だってえばりくさる、この町の全部が嫌いだ。私を不細工って、邪魔者だって、のけ者にしたがるみんなが嫌いだ。家族に泥を塗った兄貴が嫌いだ」


ピアノを奏でる少女の指から、憤怒が生み出される。

白い目を向ける登輝畑の町の住民に、自分を腫れ物のように扱う学校の皆に、唯一の家族である兄に、苦労など知らなさそうな余所者に、そして自分自身に、燃え盛るような激情を抱えていた。

怒りを指先に乗せて、目の覚めるような調べを叩き込んで、訴えていた。たとえ聴衆が、たった一人しかいなくても。

それを知っているのは、きっと晨明だけだった。


「この世界が嫌いだ。お前も私も、ただひっそり息をして、細やかな倖せを願って生きているだけなのに、この世界から要らないもの扱いされる。燃えないゴミとして捨てられるプラスチックの人形みたいに扱われる。

なんでそんな世界を愛さなくちゃいけないんだ。誰も私になんか、振り向いてくれないくせに。消えろって思ってるくせに。

それなのに、怒ることすら諦めて、当たり前のように、誰からも拒絶されることを受け入れている、お前のことも嫌いだ」


音色の合間に、少女の恨めしさが入り交じる唸り声が、鮮烈に聞こえる。

だけど、だんだんピアノの勢いが弱まっていく。……違う、遠のいていく。少女の背中も、喫茶店の景色も、晨明自身の意識も。

不躾な黒に塗り潰されて、消えていく。夜から削りとった墨を、乱暴にぶちまけるみたいに──。


「でも、お前が付けてくれた名前だけは、嫌いじゃなかったよ。おトキ。だから、こっちに来ちゃダメだ」



やけに息苦しい。

ゆっくり、晨明の瞼が開くと、視界が白かった。息苦しいのは、顔に被った布のせいだったらしい。

ゆっくり首を振るって布を振り払うと、まだら模様の白い天井が広がっていた。

まだ意識がぼんやりする。つんと鼻腔をつく薬液や冷たいシーツの匂いで、ここが八日吹の診療所だと気づいた。だが病室ではないようだ。やけに暗すぎる。

身動きしようとした途端、全身の筋肉が悲鳴を上げる。全身を針で刺されたみたいだ。思わず「うぐっ」と小さく声が漏れる。

死後の世界にも痛みはあるんだろうか?そんな疑問は、視界のすぐ右横から覗き込んでくるアスナの顔を見て打ち消された。


「起きたか。名前は言えるか?」

「……こまえだ、ときあけ」

「よし。記憶はあるか」

「……えっと……若様を助けるために……K町までバイクをぶっ飛ばして……それから、半グレたち相手に大暴れして……撃たれた……んだっけ?」

「そこまで明瞭なら問題ないな。確かにお前は、心臓と肺を一度に撃たれて絶命した。全身が強烈に痛み、息苦しいだろうが、あと二時間は我慢しろ。回復の最中だ」


アスナは頷き、淡々と説明する。回復とは何だろう。

普通、人間は心臓と肺を銃弾で撃ち抜かれたら、ほぼ即死するはずだ。寧ろ数秒生きていただけ、自分は本当に頑丈だったなと感心して良いくらいだろう。

痛む首筋をどうにか動かして、視線を胸元に向け、ぎょっと目を見開く。晨明の心臓部が「ない」。文字通り、左胸の部分だけが喪失しているのだ。

かわりに、穴には銀色の円錐や球体や棒状の奇妙な煌めきが、穴の部分から突出して、蠢き、膨張したり縮小し、うぞうぞと蠢いている。


「んなあッ、な、何これ、気色悪ッ!?」

「文句を抜かすな。お前の体内にあるエネルギーを総動員させ、肉体の損傷を逆再生する形で回復させているんだ。死ぬのはこれが初めてだから、肉体がまだ適応に時間がかかっているようだがな」

「え、えええ……?ど、どういうこと?おれ、死んでるの?生きてるの?」

「簡潔に言えば、一度肉体は絶命した。だが私がお前の体にあるエネルギーを利用して蘇生させた。間一髪だったが、上手くいったようだな」


アスナは脱力するように話す。

彼女の肌にも玉のような汗が浮かび、時折手ぬぐいで拭っている。つまりは、方法こそ理解できないが、彼女が助けてくれたということなのだろう。

蘇生のためには彼女も力を酷使しているらしく、表情には疲労が滲み出ている。


「えっと、つまり、認めてくれたから、助けてくれたってこと?」

「ふん。お前は身を挺して私の出した条件を突破した。だから私もお前の覚悟に応えることにした。それだけだ」

「そっか……ありがとう。助かった」


言葉を振り絞って、そう返すと、アスナはぎょっとした顔で晨明を見やった。

信じられないものを見る目を向けて、少しばかり少女の耳が赤くなったさまを見て、晨明は微笑みを零す。

自分が殺そうとした相手から感謝されれば、動揺もするか。大人びて見えるが、やはり年若い少女らしい情緒はあるようだ。


「正直、あそこで死んでも良かったけど……父さんと約束破るところだった。それは寂しいことだから」

「……八雲さんのことか」

「うん。優しい人だから、悲しい思いはさせたくないよ」

「他人を庇って死んだ男の言う台詞か、それが」

「あはは……あの時は守らなきゃって一心だったから……」


暫く話をしていると、病室の扉が開く。

二条院瑆と八日吹、それに噂をすれば八雲だ。三人とも、神妙な顔で話をしていたようだが、起きている晨明を見るなり、全員がびたっと動きを止めた。

八日吹は手にしていたカルテを取り落とし、普段は眉一つ動かさない二条院ですら、目を丸くして、ぽかんと口を開けて言葉を失っている。

八雲に至っては、よろよろと震えながら駆け寄ってきて、「晨明!?晨明……本当に!?生きてる!」と強く抱きしめ、大声を上げて泣き始めてしまった。

晨明も面食らったが、やっと状況を理解した。入ったことがなかったので気づかなかったが、ここは霊安室だ。死者が蘇って平然としているのだから、そりゃあ度肝を抜かれるわけである。


「よかった……晨明、生きていてくれて本当に良かった……!お前までいなくなってしもうたら……どうすれば……」

「父さん……。ごめん、ごめんね。おれ、大丈夫やから。泣かんといて……」


そしてやはり、三人とも脇にいるアスナには目もくれない。

アスナは隣にいるというのに、咎めることも、なぜここにいるのかを尋ねることもしない。筑紫の時と同じく、彼女の姿は見えていないようだ。

ひとまず我にかえった八日吹が看護師を呼び(呼び出された看護師は、生き返った晨明を見て絶叫しながら気絶した)、ストレッチャーで晨明を運んで、空いている病室へと連行され、深夜にも関わらずいくつもの検査を受ける事になった。


「……信じられません。心臓と左肺には穴が空き、確実に心停止していました。なのに穴がもう塞がって修復されているなんて……」


検査した八日吹はこの異常現象に首を傾げ、慄いてすらいた。

しかし治っているものは治っているのだ、受け入れるほかない。二時間かけてやっと冷静になった八雲は、目を腫らしたまま、一度戻って休息するよう強く勧められ、やっと晨明から離れた。

「少し休んだら、また様子を見に来るから、絶対に安静にしているんだよ」と何度も念を押され、二条院も「ひとまず今は休め。事情は後日、お前の口から聞くとしよう」と告げて出て行く。静けさを取り戻すと、アスナは「やっと居なくなったか」と腕を組んだ。


「ねえ、どうしてアスナの姿は誰にも見えてないんだろう?筑紫先輩も、アスナの声も姿もまるで最初から居ないように感じてたみたいだけど」

「簡単なことだ。イデアの力で、彼らの意識から、私の存在そのものをズラしているのだ。人間の見える世界には限界がある。視界に赤のフィルターをかけたら、赤い字が読めなくなるのと似たような要領さ。今の私が彼らに見えていると、色々面倒だと判断したんでな」

「へえ~……おれにも出来る?」

「やろうと思えば出来るだろうが、今のお前には無理だろうな」


ふふん、と得意げに病室の椅子に腰掛け、粗野に足を組む。

ますますこの少女が分からなくなってくる。彼女曰く、銀に輝く晨明とアスナの瞳は、二人が接続されている証だという。

晨明の体に干渉し、他人の不可視領域に平然と位置するこの少女は、いかにしてこの力を身につけたのだろうか。とにかく彼女は、奇々怪々なブラックボックスだ。

だが晨明が質問するより早く、アスナがすっと掌を向けた。


「私の今後の方針について話そう。お前は世界を壊す気はないと、二条院更衣への忠誠心を命懸けの体を張った行動で示した。

だから当分は、お前のことは殺さないでおいてやる。だが、お前の行動は監視する。

第一のターニングポイントは切り抜けたが、お前が厄災となるには、まだまだ沢山のきっかけがお前の前に現れる。その時、お前が何を選択するかで、私がお前を殺すか、それとも生かし続けるかを決めることにする」

「それは良いとして。その「きっかけ」が何かは教えてもらえるの?」

「お前の行動と状況次第だな。私も、出来る事ならこれ以上、人が死ぬ姿は見たくないが、未来の情報を与えすぎた場合、私すら制御出来ない状況が出現するおそれがある。それは避けたい。だがお前の未来だけは確実に変えねばならない」

「……そこまでして、おれの未来を変えようとする理由はなに?」


思い切って、踏み込む。アスナの言葉には、奇妙な必死さがある。

ただ世界を滅ぼすだけの人間に、ここまで入れ込む理由が分からない。だからこそ、今知らねばならない気がした。


「きみ、本当にただの未来からの刺客なの?おれの右目と、きみは繋がっているって言ってた。それは、ただの偶然じゃないんだよね。本当は、おれと深い関係にあるんじゃないの?」


それは、ある意味で、確信にも似た疑問だった。

しばし沈黙が二人の間に満ちる。アスナはここにきて初めて、ひどく狼狽しているようだった。

ベッドの脇に置いてあるコップの水を、勝手にぐびぐびとアスナは飲み干して、やっと覚悟が決まったといわんばかりの表情で、晨明に向き直る。


「……そこまで知りたいなら、教えてやる。私は──狛枝晨明。お前の、実の娘だ」


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