第八話 優しい彗星
夜のネオンが煌めく、K町の片隅。
びかびかと輝く電飾看板が、アリの巣が如き細い路地を安っぽく照らす。雑居ビルが立ち並ぶなか、ひときわ色褪せたビルの地下に続く階段をくだると、黒塗りの壁に、羅針盤のような輪がデザインされた扉がちょこんと出迎えてくれる。
ここは会員制のバー「フォーチュン・スター」。その扉の奥は、ムーディーで軽快なジャズが流れ、老いも若いも酒に飲まれる、広々とした異空間。
ダンディなマスターが酒をこさえ、美女が厨房でつまみを作り、客は良い酒を片手に談笑し、麗しい女性キャストたちが客にお酌する。
忙しなく蒸し暑い夏の現実から切り離されたこの開放空間で、もれなく更衣も酒を浴びるように飲んでいた。
「ましゅた~、もう一杯~」
「若、そろそろお休みになったほうが」
「あ~ん、
「二升目になろうとしています、若!このまま酒を摂取するとそろそろ便座とマッチングすることになるかと!」
「便座にマッチはらめだよお~、火事になっちゃうよお~」
「うむ!見事に意思疎通のいの字も通らないな!店主、水を用意してもらおう!」
更衣が空のグラスを右手でくるくる回すと、傍らに控えていた男達のうち、朧月と呼ばれた長髪に黒マスクの美丈夫が、グラスをひょいっと取り上げた。
反対側から同じく諫めるは、暁天という青年。この薄暗がりの中、燃え盛るような赤髪に黒い目隠しという出で立ちもあいまって、バーの中では大変目立つ。
どちらも別々に目立つ二人に挟まれる更衣もまた、儚げな美青年ということもあって、店内では注目の的だ。なお、視線の渦中にある更衣はというと、酩酊して無様に前後不覚もいいところを曝け出しているのだが。
そんな時、ぴりりりり、と更衣の電話が着信を伝える。更衣は何も考えていない顔で電話に出ると、片耳を指で塞ぎながらへらへらと話し始める。
周りのやかましいジャズミュージックのせいで、相手の声は聞こえない。
「あれえ、おシンどうしたの?もう寝てる時間じゃないのお。……今ね~K町の地下バーにおるよお。なに、もしかして来る気になった?……あんだってえ、まだいとカクテルにあんみつぶりかま?ぶはは、まずそ~!
……酔ってへん酔ってへ~ん、まだ一升くらいしか飲んでへ~ん。マジで大丈夫じゃけえ~、おシンも来いや~。住所送っとくけえ~」
何の話をしているんだ。
朧月は片眉をあげ、暁天は苦笑しつつ肩と両手をすくめる。電話を切ると、「おシンからやったわ~。飲み会混ざりたいってさ」と陽気に笑う。
だが二人は、酔いどれる更衣の左手が、すかさず指文字を二人に向けて送る瞬間を見逃さなかった。
「麻薬カルテル」「暗殺」「危険」「注意」。その4単語だけで朧月と暁天は意図を理解し、静かに身構えた。あの電話は危険を知らせるメッセージだと。
一瞬だけ表情が曇ったが、二人はすぐに素知らぬ顔をして、「それはそうと若、確かに飲み過ぎです」とたしなめる。
「やらあ~、もっと飲むぅ、アルコールに溺れるのぉ~」
「駄目です。明日からの仕事に響きますよ」
「ワシ、酒が翌日に響かんタイプやからええの!むしろ目がさえてしゃっきりするから
「ザル親子め……いや寧ろワクの域か」
「組長も、酒を水のように召し上がって涼しい顔をなさるからな。極めし肝臓の血筋なのだろう」
「ますたぁ、しょーちゅーください、しょーちゅーを!とびきり美味しいやつ!」
朧月が目配せすると、マスターは分かっていますとばかりに頷く。
焼酎用のグラスにレモン汁を混ぜただけの水を注ぎ「どうぞ、おすすめの極楽というお酒になります」と差し出した。更衣はニコニコと「うわぁい、美味しそう」と煽るように飲み始める。もはや酔いすぎて酒の味すら分かっていないらしい。
更衣が呑気にがぶがぶ水を飲む横で、二人は時計を確認する。既に日を越えて、それなりの時間が経っている。
朧月がカウンターテーブルの下で、指を器用にクイクイと動かし、印を結ぶ仕草を見せる。これは暁天たちにだけ通じる指文字だ。
『<朝顔>から連絡。
『先夜の襲撃が効いているのだろう。流石に白昼堂々、商品を売りつける度胸はないと見た。あるいは在庫切れか?』
『なんにせよ、痛手を受けたにしては、相手の動きが妙に大人しすぎる。ここは連中の縄張りだ、引き続き警戒を怠るな』
『言われずとも。<朝顔>には一度、<胡蝶>様と合流するよう伝えてくれ』
更衣たちは元々、表向きは若者同士の飲み会と称しつつ、件の麻薬カルテルの足取りを掴むため、このバーに赴いていた。
このバーは麻薬カルテル<玉蟾鏡会>の縄張り下にあるらしく、売買人たちはバーの最奥にある個室を用いて、薬の取引を行っているそうだ。マスターと店員は雇われであるためか、個室での取引に関してはノータッチであるらしい。
売買人を何度か目撃したという情報を掴んだため、何食わぬ顔で潜ってみたが、襲撃を受けた昨日の今日で、変わらず商売をする程、相手も愚かではないらしい。
とはいえ、泳がせておいた売人を見張り続けていれば、そのうちボロを出すだろう……そう思い、あえて「敵陣の縄張りに堂々と現れた放蕩若頭とそのお付き」を演じている。更衣たちはいわば囮役というわけだ。
「(想定外なのは、若が思いの外飲み過ぎということなのだが……)」
「(緊張なされているのだろうな。少し羽目を外させすぎたか)」
ステージの上では、売れないシンガーが下手くそな英語で歌を披露している。
しばらく監視を続けるが、店内は穏やかそのもの。時折、別々の席に座っていたはずの二人の客が、同じ個室のほうへと何度か消えていく。怪しい動きだが、最奥の部屋は、遠方から別の構成員たちが監視しているはずだ。動きがあれば連絡が来る。
しばらく更衣に食事だけ摂らせていると、朧月のスマートフォンに通知が来た。メッセージがきている。
ざっと中身を見ると、目にも留らぬフリック操作で返事し、再びスマートフォンを懐にしまう。
晨明の電話が来てから二時間ほどが経過していた。そろそろ潮時だ。一度引くか、と勘定を頼もうとした時だ。
「そろそろホテルに戻りましょうか、若。晨明も心配していることですし」
「パーティーなら明日も出来ますからな!」
「ちぇ、はぁい。マスター、お勘定……」
刹那のことであった。後方のテーブルで飲んでいた客のサラリーマンから、やおら表情が消え、懐から拳銃がするりと抜かれる。
その銃口が向けられるより早く、朧月の手が素速く、グラスを投擲。顔面に直撃し、客は白目を剥いて倒れる。隣にいた女性キャストが悲鳴を漏らし、すかさず別の席にいた男性客が、ナイフを手にして突進する。
飛び掛かる男に暁天が「おお、酔っ払いがここにも」と軽快に蹴り飛ばした。鳩尾に強烈な突き蹴りを食らった男は、ナイフを取り落とし嘔吐する。すかさず爪先で顎を蹴り抜き、男は白目を剥いてゲロの海にダイブ。
「覚悟しな麟胆組!ここで仕留めてやる!」
「待て、若頭は生きたままシャブ漬けにして変態に売り飛ばすんだ。他は縊り殺しちまえッ!」
「おうおう!思いの外、直球手段に出たな!嫌いじゃないぞ!」
「撤退します。立てますか、若。かなり飲んでいますが」
「平気平気~」
相変わらずへらへらとした笑顔を崩さぬまま、酒瓶を手に更衣は立ち上がる。
死角からチンピラが一人、猿もかくやの挙動で飛び掛かってくる。ご丁寧に「くたばれ!」と叫びながらバットを振るってくるが、更衣の細身がひょい、とその軌道から逸れる。そのまま酒瓶を振るい、派手な音を立てて酒瓶はチンピラ男の頭部にめり込む。男が襲いかかって地面に叩き落とされるまで、僅か二秒の出来事だった。
砕け散った酒瓶を見て、更衣はきゃたきゃた愉快そうに笑う。
「あ~、びっくりしたあ~。飛び出してきたら危ないよお」
「素晴らしい手並みだ、若!これは負けておられん!」
「さっさと出て行け、疫病神ども!お前等のせいで店が滅茶苦茶だ!」
「おっと申し訳ないな、店主。修繕費は向こうに請求してくれ!」
マスターが怒号をあげるのも構わず、暁天も愉快げに一笑する。
地面に倒れた金属製の丸テーブルを軽々掴むや、襲い来る男達を前に、盾術の要領で振り回す。
襲い来る面々は、テーブルの角にしこたま顎や胴体をぶつけ、壁に叩きつけられ、あるいは床に熱烈なキスをかます。
丸テーブルで吹き飛ぶ面々を見やっていると、更衣のスマートフォンがまた鳴った。
空いた酒瓶を手に「やれやれー!」と観戦する更衣を横目に、朧月が代わりに操作すると、晨明からの電話だった。
『連絡遅れてすみません!もうすぐバーに到着するんですけど!えげつない数のチンピラたちが通路を塞いでいます!』
容易に想像がつく。
おそらく今、バーの出入り口に彼らの仲間が居座っているのだろう。迂闊に外に出れば、挟みうちで苦戦を強いられることになる。
指文字で更衣に状況を伝えると、「晨明に任せろ」と更衣は指文字で返した。
正直頼りないが、彼が言うならば、と再び電話口に呼びかける。
「かなり統率の取れた襲撃ですね。こちらは無事ですが、退路は地上への出入り口のみです。突破しますので、退路を確保してください。やれますか?」
『わ、分かりましたッ!任せてください!筑紫さんもいるはずですから、脱出の準備が出来たら合図を!うおおおッ!』
間もなく、出入り口の方からいくつもの怒号が響き始めた。
ジャズの音が止んだせいで、外の喧噪がよく聞こえてくる。外は乱戦状態だ。店内もまた阿鼻叫喚。大半の襲撃者は暁天と更衣がぶちのめしてしまったらしい。朧月は改めて財布を出して、マスターにお勘定と万札を何枚か差し出す。
「おつり要らないんで。行きましょう、若、暁天」
「わはは、ほなね~。お酒もご飯も美味しかった~」
「お騒がせしたな!今度またゆっくり飲み直しに来よう!」
三人は蹴破るようにドアを開けた。
階段を駆け上がると、色とりどりのネオンに照らされた路上では、大混戦が繰り広げられている。
晨明は身一つで、がらの悪い男達を相手に立ち回っていた。ナイフ、釘バット、バールと思い思いの得物を持った男達を、次々にノックアウトしていく。
その中には、どさくさに紛れて同士討ちを装い、半グレたちの数を減らす筑紫の姿もある。作戦と集めた兵隊の数こそ悪くないが、所詮は寄せ集めだ。晨明と筑紫という手練れを前に、彼らは太刀打ち出来ないらしい。
「若様!皆さん!」
「おうおう、往来で仕掛けるとは肝が太い!若、助太刀しても?」
「ああ。おシン、よく駆けつけてくれたの」
「若様のためですから!」
朧月が吹き飛んできたチンピラの一人を掴むと、気絶したチンピラを棒代わりにして薙ぎ払っていく。晨明は更衣の元に駆け寄った。
晨明は更衣の呑気そうな笑顔を見て、安堵したようにニヘッと笑う。
だが、更衣の背後にいる人影をすぐに見つけ、はっと息を飲んだ。死角から、バーのキャストらしい若い女が一人、拳銃を手にぎらついた目で更衣を狙っている。
「危ないッ、若様!」
「へ……」
暁天と朧月もすかさず、女に気づいてそれぞれ駆け寄る。
だが晨明の右目には見えていた。暁天が女を取り押さえようと駆け寄り、怯えた女が反射的に拳銃を撃ってしまう瞬間──そのほんの数秒先の未来が。
朧月の位置では、銃弾から更衣をかばえない。
咄嗟に晨明は射線に飛び出していた。腕を引いても押し倒しても、確実に弾丸は更衣の心臓か頭を貫くだろう。
考えている余裕はなかった。ドン、という重たい音の直後、晨明の左胸を、灼熱が貫く。熱と、遅れて声すら出せないほどの激痛が胸に広がり、血の花を咲かせる。
「あ──!」
一瞬の出来事で、誰もが呼吸すら忘れた。
晨明は咄嗟に、背後の更衣へ振り返る。やけに世界がゆっくり動いて見えた。
驚愕を貼りつけてこそいるが、彼にまで弾丸は至っていない。
「……良かった……」
痛みが意識を全て連れ去っていく。
膝から力が抜けて、晨明の巨躯がゆっくり崩れ落ちると、その場に倒れ伏す。
更衣の叫ぶ声が聞こえるが、何を言っているか聞き取れない。世界が遠のいていく。
不意に視線を上に向けると、アスナの凍りついたような表情と目が合った。
「おれ……証明、できたよ……」
その言葉を振り絞って、アスナに向けた直後、晨明の意識はそこでふっつり途切れた。
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