第四話 あすなろの二人


八日吹やかぶきは麟胆組に所属する外科医である。<宿木>の源氏名を賜って長く、彼の業務は主に、麟胆組の構成員たちが負傷した際の治療である。

今日この日も、腰をいわした老人や、うっかり木から落ちて骨折した庭師、麻薬売人たちと格闘して負傷した組員たちの面倒を見ていた。

その中には、無論、晨明の姿もあった。頭と腕に包帯を巻き、背中からはべたべたと湿布がはりつけられ、メントール特有の鼻腔を冷やす匂いが漂う。


「お疲れ様。頭を少し縫ったから、1週間後には抜糸するよ。それまで激しい運動は控えてね、それと五日分の湿布と痛み止めも出しておくから」

「いつもありがとうございます、八日吹先生。へへ……お礼に今度何か持っていきます」

「怪我をしないでいてくれるのが、一番ありがたいのだけどね。右目の調子は?」

「相変わらずです。霧っぽい白しか見えません」 晨明は肩を竦めた。

「もともとロクに見えない目なんです、良いも悪いもないっていうか」


八日吹は閉口した。

なにせ晨明は、この診察室の常連と化している。月に少なくとも3回は傷を負うし、常にどこかアザをこしらえ、絆創膏を貼り付けていたりと、常に痛々しい姿なのである。そのうえ、右目はほぼ見えないときている。

尤も、天性の鈍臭さだと本人は語るものの、それにしたって生傷のたえない青年だ。彼が怪我を負わない場所は、せいぜい厨房の中くらい。

お大事に、と八日吹が告げつつ振り返ると、晨明が窓の外を凝視していた。そして朗らかな笑みを浮かべ、バイバイの仕草で手を振ると、「あ、はい。それじゃあまた1週間後に」と晨明は八日吹へ微笑んで立ち去る。

彼に倣って窓の外を見るが、誰もいない。そもそも窓の外は川と物置しかなく、人が立てる場所などない。果たして彼は、誰に手を振っていたのだろうか。


「おシン。もう大丈夫?」

「あ、若様。お疲れ様です」


診察室を出ると、待合室のソファで更衣が足をぶらぶら揺らしていた。朝の小指にこれでもかと絆創膏が巻かれている。

彼の両手にある大量の駄菓子を見るに、すれ違った患者たちから次々手渡されたのだろう。良くも悪くも人に愛される男だ。

診療所から出るとみて、更衣も晨明にくっついて出ていく。扉を開けた途端、酷暑の日差しと、むわっと肌を蒸し焼く熱気が二人を包んだ。

暑ぃね、と更衣が笑った矢先、「おれ日傘持ってますよ」とポケットだらけのズボンから日傘を出し、広げる。無骨な折りたたみの日傘を更衣へと傾け、歩き始めた。


「ねえ、あのメールのことやけど」と更衣が切り出す。

「やっぱ会いにいくんね?」

「行きません。八日吹先生にも安静にしなさいって言われたので」と晨明は食い気味に返す。

行くといえば、きっとこの人は心配して付いてきてしまう、と直感で察していた。

「ふぅん。じゃあ皆で飲み行く?暁天が良えお店予約してくれたってさ。六本木の方の」

「あー……、いえ。縫ったからお酒はしばらく控えなさいって言われました。だから、おれに気にせず、皆で飲んできてください」


それなりに、説得力がある言い訳だったように思う。

更衣はぶうっと膨れて、「ならご飯だけでも一緒に食べようや。仕事前の景気付けに」と食い下がる。

無邪気な藤色の瞳がじいっ、と探るように見上げてくる。まるでお前の本心など見透かしているぞ、とばかりに輝いていた。この屈託ない目には、どうにも弱い。

咄嗟に「どうしてそうも、おれに構ってくれるんです?いつも失敗ばかりの落ちこぼれなんかに」と、視線と話題を日傘の外側にそらした。


登輝畑は田舎町だ。栄えている中心街を外れてしまえば、青々と輝く畑や田園が、どこまでも広がっている。

登輝畑の名産であるサトウキビは、育ち盛りということもあって、太陽に向かってしゃんと背を伸ばしている。いつも背を曲げてばかりの晨明とは大違いだ。


「今更なこと聞くやないの。ワシこう見えて、おシンは出来る奴やと思うとるし、信頼しとぉよ」

「毎回どんな仕事でも失敗するのに?どんな仕事任されても、色んな形でしくじってきたんやで、おれ」

よ。結果主義の世界やけどね、今の時代、極道もんが任侠を貫くんは厳しい社会になってもうた。

生き方をきっと変えにゃならんし、そうなると今までのやり方じゃあ、組は繋いでいけれん。

父さんがこれまでの麟胆組の在り方を一度は変えたように、今度はワシがワシのやりかたで、皆を導いていく。

そんな時必要なのは、一番たくさん「間違い」を知って、それでも立ち上がる方法を知っとる奴じゃ。ワシはの、おシン。お前の並ならん弩根性ガッツを買っとるつもりやで」

「そ、そこまで褒められたもんじゃ……」

「なんでぇ、おシンには他にもええ所はいっぱいあるよ。もっと自分に誇りを持ちんさいや、男はしゃんと背筋伸ばしてなんぼよ!」


無邪気な笑顔が眩しい。

夏の日差しとの相乗効果で、網膜をこんがり焼かれかねない。

ともすれば、この謀略と闇稼業が交錯するアウトローの世界で、更衣の純真さはあまりに危うく脆いものだ。だからこそ、周りの皆がきっと、この危うい純真さを壊したくないと奔走するのかもしれない。

だからこそ━━良心が痛む。でも更衣は若頭だ。晨明の都合で、危険な目に遭わせるわけにはいかない。


「(申し訳ありません、若様……これも若様の身の安全のため……)」


結局、更衣を本邸まで送り届け、「この後おつかい頼まれてるんで」と適当にはぐらかして、逃げるように住まいである離れに飛び込んだ。

本邸の裏門側に建つ長屋「夏の屋舎」は、住み込みで働く構成員たちのための平屋敷だ。

晨明はこの離れの一階で、父の狛枝八雲と暮らしている。幸か不幸か、父の八雲が部屋の掃除をしている最中であった。


「ただいま、父さん。お掃除しとったん?おれ手伝うけえ、休んどってええよ」

「あや、晨明。おかえり、頭の怪我はもう大丈夫なん?」

「ヘーキ、みんな大騒ぎしすぎよ。ちょっと切ったくらいやけ、心配せんとき」


養父の八雲は、ほにゃほにゃと柔らかな笑みを浮かべて晨明を迎える。

シンク周りを掃除していたらしく、狭い台所から、酸っぱい柑橘洗剤の匂いが漂っていた。

珍しいこともあるものだ。いつもなら掃除も洗濯も、率先して晨明がやっていたし、ここしばらくは八雲も任せてくれていたというのに。

晨明の視線に気づいてか、「今日は昼の子たちに厨房任せて、一日だけお休み貰ったんよ。お部屋綺麗にしたかったし、晨明とごはん食べたくて」と八雲はへらりと笑った。


「そんな、飯ならいつでも一緒に食っとるやん。どしたんね、急に」

「はは、厨房ん中ではな。ここんとこ、ずっと忙しなかったろ。晨明もほら、組のお仕事でてんやわんややったしな。

今夜は一緒にどうや。晨明の大好きなもん、沢山作ったるけえね。コーンバターの塩ラーメン、好きじゃろ。鶏肉も沢山もろたけえね、唐揚げにしちゃろか」


言えない。

今夜は、あの不審な呼び出しに一人で向かわねばならないから、下手すると二度と帰れないかもしれない、なんて。

大好きな父の手作りの夕食なんて、ここ暫く食べていない。本当なら何もかも放り出して、数少ない父の休日を共に過ごしたいところだ。

でも今夜だけは、あの妙なメッセージの送り主を確かめねばならないという、言語化しづらい焦燥と確信が、晨明を急かしていた。


「……あんさ、父さん。今日、若様に呼ばれとって。今夜は都合が……」

「ありゃ。……そらしゃーないなあ。若様の飲み会はいつも突然やものね」


晨明の言葉を聞くと、八雲の眉尻がへちょんっと下がった。父の寂しげな顔を見ると、心臓の柔らかいところがぎゅうぎゅうに痛む。

父に嘘をつくなんて、この十年の中で一度か二度くらいだ。その嘘ですら、1週間は良心の呵責で苦しむことになる。

八雲が仕事に失敗した自分を慰めるために、わざわざ休みを取ってくれたことを考えると、殊更辛かった。


「〜〜〜〜っ!……やけどさ、おれ、酒飲めんけえ。適当に付き合ってさっさと帰るつもり。

じゃけえ、父さんのラーメンと唐揚げは遅めの晩飯ってことでええ?絶対日付超える前には帰るけえさ、今日は父さん一人でゆっくりしいや」

「ええんか?せっかくの付き合いなんに……」

「父さんの飯の方が大事!掃除さっさと終わらそ。父さん一人じゃ換気扇の掃除はキツかろや」


にかっと笑って、晨明はゴム手袋をはめると、せかせかと掃除を手伝い始めた。

八雲はやや呆けた顔で晨明の背中を見つめていたものの、少し弱ったようにはにかんで「ほんま、お前は孝行息子やね」と嬉しそうに洗剤を手渡した。その一言がまた、晨明の良心をちくちくと刺すのだった。



━━21時15分。

晨明は一人、S市の南部に位置するコンテナヤードに赴いていた。勿論、一人でだ。

車を出せば怪しまれるので、倉庫に放置されていたおんぼろバイクを借りてきた。改造され放題でぽんこつだが、速度だけはよく出る。まるで晨明みたいだ。

夜遅くにも関わらず、強いライトによって船や真っ赤なクレーン、そして大小さまざまなコンテナが、これでもかとびかびかと照らされている。

お揃いの制服を着た厳つい男たちが、忙しなく仕事に従事している。無断で入れば摘み出されることは必至なので、見つからぬよう、足跡を殺して先へと進む。


「(それにしたってなあ。青いコンテナなんて沢山あるってのに、どれがどれだか-…)」


きょろきょろとコンテナのひとつひとつを見やる。赤、黄、ブラウン、そして青。

色とりどりのコンテナは、どれも同じに見える。そもそも送り主はなぜ、こんな場所に自分を呼びつけたのだろう。もっと人の少ない場所でも良かったのではないか。

探し回っていると、スマートフォンが通知を鳴らす。見ると、例の送り主からだった。メッセージはなく、画像が一枚添付されただけ。

不審に思いつつ開いてみると、奇妙な模様が画面に表示される。大きな丸と四角と三角が何重にも重なった内側に、へんてこな象形文字めいた記号が描かれている。円の内側の下部には、目玉と鍵を模したような絵。


「(なんやこれ……?ふざけたラクガキにしか見えんが、これが目印ってことか?)」


じっと画面を睨んでいると、人の気配。おそらく巡回中の職員だ。

咄嗟に抑揚をつけて一気に跳び上がり、コンテナの上に晨明の巨体が音もなく着地。蜥蜴の如くスルスル這い上がり、様子を伺う。

職員たちはまさか、190を超す大男が、コンテナの上を猫みたいに登っているなどと夢にも思わず、懐中電灯を片手に目的のコンテナまで向かう。


「(やれやれ、人が多いと、見つからんように動くのも一苦労だな……お?)」


その時だった。奇妙な感覚が右目を支配した。

まるで目の中に直接、見えない指が突っ込まれて、脳みそを揺らされるような不快感。

思わず晨明は呻いて、顔の右半分を手で抑えた。なんだ?痛みこそないが、今まで感じたことのない感覚だった。


「あぐっ……、うっ……!な、なんだ、これ……!目、が……!」


やっと不快感が収まり、目を開けて━━晨明は息を飲む。右目がはっきりと見えていた。

白黒のみで、濃淡が綺麗に判別できる程度だが、物の輪郭がはっきりと分かる。

否、はっきり視えすぎている。コンテナの中身も、クレーンを構築する部品一つ一つも、豆粒に見えるなどの距離にいるはずの人間の表情や仕草に至るまで。

まるで右目だけが顕微鏡のレンズにでも変わってしまったみたいだ。距離感や方向感覚が掴めず、吐き気がする。


「(た、たまに目が覚めたみたいに、ぼんやりと右目だけでモノが見えることはたまにあったけど……ここまでくっきり見えるなんて)」


あの奇妙な模様を見たせいだろうか

歯を食いしばり、吐き気に耐えて深呼吸する。やがて、ピントを絞って合わせるかのように、右目で見える範囲が左目と同じくらいに揃った。

いったい自分の身に何があったのだろう。

他に異変はないかと周囲を見回して、つい大きな声を出しそうになった。

沢山並ぶ青いコンテナのひとつ、その上に、先程送られてきた奇妙な模様が浮かんでいる。

試しに右目だけ隠すと、模様は消えて、ただの青いコンテナが並ぶだけ。次に右目だけで見てみると、あの模様が浮かんでいる。

なんと奇妙なことだろう。他の職員たちは気づいていないのだろうか。

心臓がばくばくと激しく脈打つ。何か見てはいけないものに直面していて、晨明は興奮していた。


「(罠かも。急にこんなものが見えるなんて、変なヤクでもキメちまってたのかな)」


だが、好奇心は彼の足を動かした。

これまでにないくらい軽やかに体が動いて、高低差の激しいコンテナの山を軽々と跳び越えていく。

職員たちの頭上を飛び越えた時なんかは、「おうい、まぬけ!」と叫んでやりたい程だった。なけなしの理性で抑え、模様の描かれた青いコンテナの屋根に、とんっと着地する。

━━刹那。晨明の両足が模様に触れた途端、白い閃光が模様から噴き出し、晨明の全身を包む!


「うぎゃっ!?ま、眩しっ……!」


咄嗟に目を庇う。またも奇妙な感覚が晨明を支配する。

輪郭がべりべりと剥がされていく。肉も骨も内臓も、折り紙みたくぺたんこに押し潰されていく。

かと思えば、内側に空気を注入されて全身がボールになったみたいに膨張する。足がぎりぎりと引き伸ばされて、内臓が皮膚の外で縄跳びのように振り回される。脳みそがアコーディオンみたいに伸縮される。

もうやめてくれ!と大声で叫びたいのに、喉と脊椎にかけてがトランペットみたく変形して、悲鳴も上げられない

気が狂わんほどに体が変形する苦痛が、どれほど続いただろう。やおら、体が宙に投げ出され、べちゃ!と全身が床に叩きつけられた。


「あっ、でてでで……!せ、背中が……!」


湿布を貼った部分が痛むが、同時に安堵した。

体の輪郭はしっかりあるし、皮膚も筋肉も骨も、元の人の形のままだ。内臓だってちゃんと収まっている。ひどい酩酊感に苛まれながら、身を起こした。

そこは薄暗くだだっ広い空間だった。嫌な薬品の匂いが蔓延している。シンナーのようなつんとする匂いだ。

部屋の四隅にぐるりと、大掛かりな装置が沢山置かれていて、壁側に設置されたモニターがぼんやり淡い光を放っていた。

ここはどこだろう?コンテナの中でないことは確かだ。困惑する晨明の視界が、人の姿をとらえる。


「だ、誰?ここの人?ごめんけど、好きで侵入したわけじゃないんだ。コンテナヤードで人を探してたんだけど、気づいたらここにいて……」


咄嗟に言い訳じみた説明が口をついて出る。

暗がりの中、モニターの淡い青色だけが、人影を辛うじて照らす。

背の低さと丸みを帯びた体型からして、子供だろうか。丸腰を示すために両腕を広げながら近寄ったものの、晨明はすぐにぎくり、と身をこばわらせた。

人影の正体は、亜麻色の髪をした、青い瞳の年若い女性だった。それだけなら、まだ良かった。


「それ以上口を開く必要はないぞ、狛枝晨明━━否、終焉をもたらす白の破壊神!

今日という日を、私はずっと待ち望んでいたんだ」

「な……」


モニターが一斉に不愉快な電子音を鳴らし、ビカビカとスポットライトの如く女性を照らし出す。

仁王立ちする女性は、とんでもない格好で晨明を待ち構えていた。派手派手しい真っ青な羽織に、ビキニの如き露出の高いボンテージ姿。

その上に取ってつけたような武者めいた鎧を身に纏い、頭には兎の耳を模した髪飾り。両手と足には、刃のついた鋭い装甲。

そう、形容するならば、和装バニー戦闘服をまとう、痴女であった。


「世に、人に、世界に仇なす災厄よ、覚悟せよ!後の世に苦しむ全ての人々に代わり、この四ノ宮アスナが━━お前を討ち倒す!大人しく黄泉へと、くだってもらおうか!」




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