第五話 Into the Night
人は思わぬ瞬間や、未知の存在に出会すと、案外呆然として動けないものである。
いかれた挙動の人間が刃物を手に駆け寄ってきて襲ってくるだとか、死角から迫り来る大型車に轢かれる瞬間だとか。適切にどう対処すべきか、脳の処理が追いつかず、咄嗟に体が動かないものだ。
今の晨明がまさにそうだった。
頭が状況を理解しようとしてオーバーフローし、思考が白に染まる。
「疾く、死に候え!」
「どうわっ!?」
それでも彼の体を動かしたものは、目の前の痴女から発せられた殺気だった。
一瞬にして肉薄する少女から、強烈な回し蹴りが繰り出される。空を切る音を耳が捉えるより早く、本能的に右腕で防御していた。
骨まで響くような重たい蹴撃。おおよそ細身の少女から出る筋力とは思えない。あえて足が振りかぶられる方向に体を流し、床を数度転がる。
じんじんと腕に響く鈍い痛みが、やっと晨明を正気に戻した。
「どうした狛枝晨明、所詮はこの程度……」
「ち、近寄るなッ!君が誰だか知らないけど、まずは頼むからその距離キープしてくれッ!」
部屋じゅうに響く、晨明の怒号。
思わず少女は一瞬だけたじろいだが、額に青筋を浮かべ「死に臆するか!情けない奴!」と喚き、再び蹴りを放つ。
すぱんと腕で払った矢先、いなされた足撃が「ばごんっ」という重たい衝撃音を伴い、軽々とコンクリートの床に穴を穿ち、文字通り割った。
冷や汗が玉のように、ぶわっと浅黒い肌に浮かぶ。まともに受ければ骨ごとへし折られて一発であの世行きだ。
今度は突きが襲う。まともに受ければ大穴を開けられてしまう。最小限の面積で腕を使い払うと、低い位置から顎を狙った一撃。これも体をそらしていなす。
かと思えば脛を狙った足払い。爪先の位置をずらし、紙一重で回避する。
肌と肌が打ち合う重たい音を何度も響かせながら、攻防線を繰り広げる。だが、晨明はむしろ、己がアスナの攻撃に対応できることに驚愕していた。
「(なんだろう、この感覚……全身の感覚で、この子の動きが視えている!攻撃そのものは見えてないはずなのに、動きが予測できる!)」
異様な光景が、晨明の視界に映っている。
右目がアスナの体をモノクロに描くなか、少女の体の数箇所に、奇妙な明滅を見ていた。その光は血管の如く、あるいは小さな川が幾つも水の筋となってが広がるように、細く張り巡らされていく。
その光の動きの先が、なんとなく分かる。その流れを先読みして動くと、攻撃をいなせる。
これまで見えなかった世界が、一瞬にして曝け出されたかのようだった。
「何者なんだ君はッ!どこかの組の子か?おれに何の恨みがある!?」
「恨みならば山とある!富士山の高さくらいはあるぞッ!だから命乞いはするな、さくりとあの世へ逝かせてやる!」
「おれは君に心当たりすらないんだ、けどッ!いやでも結構やらかしてる自覚はある!どれだろ!?」
戦う最中、少女アスナは気づいた。
晨明はこちらを見てすらいない。肉弾戦であるにも関わらず、両目を閉じたまま、アスナから繰り出される素速い突きや殴打に全て対応し、流しているのだ。
どころか、死角から放つ攻撃さえ、見ぬままに弾いている。それが殊更、少女の怒りの炎を煽った。更に繰り出される拳の一撃ひとつひとつが、苛烈さを増す!
「きッ……さま!目を瞑っていても私を倒せるつもりかッ!
舐めているなッ、この私を
「そういう君こそなんなんだ、そのトンチキファッションはッ!風俗そのものに対する厚顔無恥だろう!変な服よりまず常識と羞恥心を羽織れ、この破廉恥娘ッ!」
「とんちきだとッ!笑止千万!これは極道者の魂の装束、その名も【
小柄で非力な私が最も戦いやすく、戦闘
「だからって若い女の子が肌を安売りするような格好していいわけないだろがッ!」
やおら、晨明が反撃に出た。──速い!
巨体が弾丸の如く、しかし蝶の如き不規則な動きで迫り、アスナの繰り出した手刀を流すや否や、投げ飛ばす。
軽々と少女の体は宙を舞う。しまった、と少女は咄嗟に防御に徹し、回転して着地。身を立て直す隙をついて、晨明はその背後に回り、がっしりと上着を掴んだ。
「まずはそのッ、もろだし乳ヘソ太もも3セットをしまえ────ッ!」
「きゃあああああっ────────!?」
ぎょっとアスナが驚き、上着を掴む手を払うよりも早く、晨明の両手がクロスする。
ただ肩に羽織るだけだった上着を凄まじい力で閉じて、ぴらぴらと自由気ままに垂れ下がった帯でギュウッときつく締め上げる。
腰まである上着を一気に締めたせいで、急に風呂上がりの格好よろしく情けない格好に一変してしまった。アスナはよろよろと千鳥足で、顔を真っ赤にして「急に抱きつくな変態ッ!」と肘打ちを放ち、晨明は数歩後ずさる。
アスナは帯に手をかけ、「こ、こいつッ!ぎっちぎちに締めるなんてっ!」と悪戦苦闘する。隙間なく締めたせいで、うまく解けないらしい。
その上、アスナの動きが格段に鈍くなった。今が対話のチャンスだ。
「き、君は沢山聞きたいことがある!何故おれを殺したがる?厄災ってなんだ?あのメッセージを送ってきたのは君なのか?なぜ……」
「『おれしか知らない彼女の呼び名を知っているか』だろう?ミアキという女は、この世にもういないというのに」
締まった帯の糸と悪戦苦闘しながら、アスナは晨明の言葉の先を続けた。
驚き言葉を失う晨明を、アスナの双眸が睨みつける。その青い瞳には、心からの憎悪と侮蔑が見てとれた。
「ああそうとも、送り主は私だ。冥土の土産に教えてやるとも。
あの紋様……『真実への扉』は、お前にしか見えない印だ。私と魂の
「じゃあ、おれの右目が変によく見えるようになったのは……君がなにかしたのか?その、リンク?ってやつで。君は何者なんだ?」
アスナは固く絞られた帯紐と和解することを諦めたらしい。
ブチッと帯を力任せに引きちぎり、再び上着をはだけさせる。破廉恥な服が再び露わになり、少女の露出した肌色が、だんだんと白銀色のなめらかな光沢を放ち始める。
「再び名乗ろう。私の名は月の子の化身にして黄泉の使者、
今より27年後の未来、厄災たるお前によって破壊された世界を救うため、この過去のタイムラインに次元跳躍した。
お前のことはよく知っている。お前自身が成した悪業も、贖いきれぬ後悔も、お前の過去も知っている!
お前の死により齎される世界の救済こそ、私の成すべき使命なのだ。正々堂々そのお命、頂戴する」
再び晨明の思考がフリーズした。
この少女、今なんと言ったのだ。世界が壊される?未来を救う?次元跳躍?意味の分からない単語が、当然の常識ワードみたいにポンポンと出てくる。冗談にしては、表情が真剣そのものだった。
ちょっと妄想力が豊かすぎるな、小説家になれるよとは笑い飛ばせない、妙な凄みを放っている。何より、どんな理由であれ、この少女の殺意は本物だ。
「……、…………ごめん。その、おれ馬鹿だから、もう少し分かりやすく説明してほしいんだけど……」
「道化が上手いな。そうまでして命の灯火を時間稼ぎしたいか。ならば語ろう」
この子、ちょっと大丈夫かなという心配に心の天秤が傾き始めた。
電話詐欺で真摯に相手を説教したり、懇々と怪しげな壺を買うことに議論とかしてしまうタチの性格とみた。
だが練られた殺気は油断できない。緊張を解かぬままに、アスナは語り始める。
「狛枝晨明。貴様は今よりこの5年の間に、麟胆組を始めとする数多のを壊滅させる悪魔となる。
やがては蒼薔自治會の首魁となり、この日本という国を足がかりに極道蠱毒社会へと変え、一大極道闘争世界へと塗り替えるのだ。人類にとって夜の時代がやってくる。
血で血を洗う日々が人類の日常となり、本来なら百年先まで生まれなかっただろう悍ましい殺戮兵器を造りだし、人類の世界総人口数は2050年の時点で800万人までに減少する!
お前が引き起こした数多の悲劇によって、お前が生み出した法によって、そしてお前が望んだ闘争と殺戮の果てにだ!」
「…………あの……それ、本当……?」
「言葉にすれば実に馬鹿げた人類の滅亡に聞こえるだろうさ!むしろこんなとんだ笑い話が現実に起きているこそが異常なのだ!」
「あ、いや。君が嘘をついていないのは分かるよ。そうじゃなくてそれ、本当におれ?」
手を振って制し、晨明は居ずまいが悪そうにぼりぼりと頬をかいた。
どういう意味だ、とアスナが胡乱なものを見る目で睨む。寧ろこの話を素直に信じたことを疑うかのような表情だ。
「おれ、言っちゃあ何だけどさ、滅茶苦茶ぽんこつなんだよ。
おつかいも出来ないし、運び屋では荷物落として大目玉喰らうし、OS(オレオレ詐欺)で電話先のおばあちゃんと2時間も関係ない長話しちゃうし。
とてもじゃないけど、組を滅ぼすとか、世界を滅亡させるとか、そんな大それたこと出来ないよ!今でさえ出世コースから大外れ寸前って具合なのに!
っていうかそもそも、世界滅ぼす気とかないし!平和に生きていたいよ!痛いのだって、人を殺すのだって嫌だよ!」
晨明は堰を切ったように話し始めた。
これまでの十年間、いかに自分がとんでもない失敗をやらかし続けてきたか。
何度自分のせいで父親が頭を下げる羽目になったか、自分も先輩や幹部の面々相手に頭を下げ、時には土下座まで披露してきたか。語ればキリがない。
アスナは呆気にとられて、晨明の話を聞くほかなかった。まさか自分が殺すと決めた相手から、仕事の愚痴を滔々と語られるだなんて、夢にも思わなかったのだろう。
しまいにはおいおいと男泣きながらに、「おれ、おれって本当にダメなやつで、昨日なんかバナナの皮踏んづけて転んじゃって……」と腕で涙を拭う晨明。
これにはアスナもすっかり毒気を抜かれ、閉口してしまった。
「……だからさあ、多分きっと、人違いだよ。珍しい名前だけど、もしかしたら同姓同名の別人かもだし。落胆させて申し訳ないけどさ」
「いいや。……いいや、確かにお前は狛枝晨明だ。未来のお前自身から聞いた話と……おおむね同じだからな。そこまでとは思わなかったが」
脱力しつつも、アスナの目から軽蔑と憎悪の色が消えた。
敵意は完全に喪失したわけではないものの、その表情から伺えるのは、なぜか「安堵」であるようにみえた。
くるりと背を向けると、アスナは晨明に尋ねた。
「狛枝晨明。お前の言葉に嘘がないなら、ついてこい。
お前が麟胆組を、平穏な日常を作るだけの努力と覚悟を惜しまぬと証明してみせろ」
「ぐ……具体的には?」
暗がりの先にあるドアを開け、アスナはこつこつと歩き始める。
晨明は一瞬ほうけていたものの、慌ててその小さな背中を追いかけた。不気味な静けさのなかに、二人ぶんの足音が高く響く。
「これから6時間後、商売を邪魔された麻薬カルテルの手先が、報復のために二条院更衣を殺害する。その未来をまずは、覆せ。お前自身の手で」
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