空丸
這丸は、すっかり大きくなってしまった。
いまや俺の身長や肩幅もとっくに追い越して、それでもなお成長し続けるだろう。
鬼の討伐に参加し始めてから数ヶ月、這丸の活躍は目覚ましい。
里のみんなも、大いに喜んでいる。
俺が森の中で這丸を拾った頃、這丸は生まれたての雛だった。
いや、鬼の子を雛とは言わないか。
あの日、討伐を終えた俺が水浴びをし、村へ帰ろうとすると、妙な声が聞こえてきた。
見れば、草むらで鬼の赤子がひとり泣いていたのである。
近くに母親と思われる個体もいたが、すでに事切れていた。
そもそも、この鬼の喉を狙って矢を放ったのは俺だった。
しかしまだ鬼のにおいの染み付いていない、幼い鬼を見るのは初めてで、とても可愛いと思った。
何も考えずに村につれて帰り、当時の里長にひどく叱られたものだ。
「幼子といえど、鬼は鬼だ!」
何を思ったか俺は、
「まだ鬼のにおいがしない!ここで育てれば鬼にはならないかもしれないのに、どうしてこんな小さい子をまた森に捨ててこなければならないのですか!」
と強気に言い返した記憶がある。
その後里長と口論し、
「もう知らぬ!好きにしろ!」
と言質を得たところで、
「じゃあ俺が育てますね!」
と返答し、みんなに呆れた顔をされた。
おまけに、この子の親は俺が殺した鬼です、なんて言ったら、里長はひっくり返ってしまったかもしれないなあ。
ああ、あんなに小さかった這丸、こんなに大きくなって。
歳のせいか、最近は涙もろい。
仕方ない。
這丸に以前聞かれたときははぐらかしたが、あと十年足らずでじじいと呼ばれる年齢である。
這丸が慕ってくれている手前、あの子の前では余裕のある大人として振る舞っているつもりだが、他の者には「いい歳して格好つけるな」と小突かれる始末だ。
もっとも、這丸は賢いので、一度はぐらかすとそれ以上は年齢については触れなくなった。
……ひとりだけ、翼がないことで苦しんでいるのは知っている。
しかしそれ以上に、這丸は里の子のひとりで、大きくなったって俺の可愛い家族だ。
今日は、少し鬼が多かった。
向こうに、たった今最後の個体を斬り、血振りした刀を肩に担ぐ這丸の姿が見えた。
「お疲れ様!」
声を掛けると、這丸は少し疲れた様子ながらも口角を上げてみせた。
鬼を討伐したあとは、必ず川で穢れを落とす。
たとえ、鬼の血を浴びていなかろうと。
獣が病を運ぶことがあるのと同様、鬼も病や災い、害虫などをもたらすことがある。
だから、村から離れた下流に近い方で確実に鬼との関わりを洗い流す。
這丸のおかげで、確実に鬼の討伐数はのびている。
しかし這丸が、一番穢れに触れているのも確かだ。
少し恐れていることがある。
鬼を斬るだけ斬らせておいて、この里から這丸を排除しようとしやしないか。
代々、里のためにとはいうものの、里長になるものはずるがしこいものが多い。
現里長も時折聞いてくる。
「這丸の穢れは大丈夫か」
もし穢れが強くなっているならば、とでも続きそうであったが、いつもそれを聞かないようにして長から顔をそむける。
這丸には常に、「里のみんなは嗅覚が敏感だから、臭いと嫌われるよ」と言ってある。
別にどうってことないようなそぶりをしてはいるが、毎度、もちろん今日も、這丸は一生懸命穢れを落としている。
俺より少し年上で、討伐隊長のような役割をしてくれている羽吉が、これから鬼の数が多くなると言った。
這丸のおかげで、鬼を確実に仕留められるとも。
這丸は褒められてうれしそうにしている。
俺はこんな時、どんな目で這丸を見ていたらいいのだろう。
本人が知らないうちに、同士討ちまがいのことをさせているというのに。
その晩、這丸はひどくうなされていた。
眠りながら、首や肩に力が入り、歯を食いしばっている。
「這ま……」
言いかけてやめた。
眠っている者に話しかけると、魂が抜けて悪いものが体の中にはいってしまうという言い伝えがある。
俺は黙って這丸の頭を撫でた。
次の日、這丸はまるで水浴びしたかのような汗をかいて起きてきた。
いつもはさらりと流している前髪がはりついて、おでこにおかしな模様をつくっている。
思わず笑いそうになるのを抑えて、川へ行くよう促した。
昨日の今日で、鬼はおそらくは出ない。
討伐の合図の笛が鳴ることもないだろう。
その日、這丸が帰ってくることはなかった。
一緒に川にいた雛たちがいうには、狗の群れが出たらしい。
俺も騒ぎを聞いてすぐ川に行き、上流も下流も、周辺の森も探し回ったが、何の手掛かりもなかった。
多勢に無勢、狗にやられたかもしれないな。
誰かがぽつりと言った。
次の日も、その次の日も、帰ってこなかった。
その次の次の日も、次の次の次の日も。
もうずっと帰ってきていない。
あれからなぜだか、鬼が出ることはなかった。
里のみんなは、もう空へ上ってしまったのだと決めつけている。
そんなことはないと思っていたのは俺だけだった。
しかし、這丸がいなくなってから、いよいよひと月が経とうとしている。
這丸がいなくなって飯が喉を通らなくなり、まったくというほど力が出なくなった。
鬼が出現していないせいで、腕が鈍っているのもある。
里のみんなは、ちゃんと飯を食え、少しでも食え、と心配してくれる。
這丸のことはもう口に出しすらしないのに。
今の俺を這丸が見たら、弱くなったって笑われるだろうか。
這丸は、今日も帰ってこない。
久々に、夜間の見張りの役目が回ってきた。
どうせ鬼は出ない。
夜に鬼が出たことなんか、本当は一度もないのだ。
念のために見張るだけ、もはや戦力とならない俺にぴったりの役だ。
夕方まで眠っておき、日暮れ前に起きると、里の門の外にある見張り台へ行った。
お疲れ様、と声をかけて交代を促せば、見張りをしていた若者は、会釈をしたあと、あくびをしながら見張り台から舞い降りていった。
這丸より一つか二つ年上なだけのこの子は、ここで平和に生きているのに。
あの日、這丸を拾ってしまったことが、本当は這丸にとっての不幸だったんだろうか。
篝火に火をともし、見張り台の上で胡坐をかく。
さっきまで眠っていたので、目はさえている。
何も変化のない景色を眺め、ぼうっと過ごした。
月はいつの間にか真上にあり、目の前に広がる草原は白く照らされていた。
夜目が効かない俺でも、ある程度遠くまで見渡せるくらいの明るさだ。
ふと、里のそばの方を流れる川の方角へ目をやった。
草原の向こう側には森が広がっているのだが、その木々より手前に何かが動いた気がした。
うさぎやねずみかもしれないが。
そう思いつつも、弓を構える。
何か声のようなものが聞こえた気がした。
明らかに小動物ではないその影がこちらへ向かってきている。
俺は、反射的に矢を放った。
鬼に近い姿をとったその影は、急に高さを失った。
どうやら命中はしたらしい。
見張り台から飛び立ち、矢を放った先の様子を見ようと近づいてみた。
だんだんとその姿がはっきりとしてくる。
それの目の前に降り立つと、それは口を開いた。
「空丸、俺だよ」
思わずその顔に手を伸ばし、よく眺めた。
信じられるだろうか。
月に照らされていたのは、待ち望んでいた顔だった。
這丸の胸のまんなかには少し血がにじんでいる。
俺は這丸を抱きしめた。
「矢、痛かったよね、ごめんね」
涙があふれてくる。
痛くて苦しくて、泣きたいのは這丸の方なのに。
「大した傷じゃないよ。手加減しただろう」
這丸は笑って見せた。
……そんなことはない。
俺はさっき、力いっぱい弓を張っていた。
「手加減なんかしていない。あれが今の俺の全力だよ」
本当のことだ。
「空丸……少し小さくなったか?」
戸惑うようにたずねる這丸から離れて、顔を見る。
這丸は困ったような、悲しいような顔をしていた。
「お前が帰ってこなくなるから心配で、飯が喉を通らなかったよ」
少しすねたふりをしてみると、這丸は素直に、ごめん、と口に出した。
聞きたいことはたくさんある。
しかし今のままでは、這丸は里に入れてはもらえないだろう。
鬼のにおいが、穢れの気配が染みつきすぎている。
自分も大変な目にあったはずなのに、雛たちのことを心配する、優しい這丸。
川で穢れを流すように促し、俺は川原の石に腰掛け、このひと月余りのことを話すのに耳を傾けた。
正直、どれだけ心配したかと怒りたいし、なぜもっと早く帰ってこられなかったか、あの日何があったのか、すべて問いただしたい。
ただ、這丸を責めるようにするのはよくない。
そう思って、何も言わず話を聞いた。
狗に襲われたあと、川に流されて意識を失った這丸は、目を覚ますと鬼の棲み処にいたのだという。
鬼たちに親切にされ、言葉を教えてもらい、村の一員として受け入れられてこのひと月余り、生活をしていたのだと……。
恐れていたことが起きた。
這丸はもともと鬼の子だ。
翼人の元で暮らしていたから、翼人の里に受け入れられてきた。
鬼の子が鬼の暮らしを知り、まして鬼に対していい印象を抱いているともなれば、鬼になってしまったものとして排除されかねない。
翼人が鬼になってしまったという言い伝えもある。
里は、絶対に鬼との和解を選ばないことは確かだ。
どうしたものか。
いっそ、このまま這丸と二人で里を出て暮らそうか。
一瞬そんなことが頭をよぎる。
しかし俺たち翼人は、長い間巣を離れては生きてはいけない。
この澄んだ山の空気がなければ、俺はすぐ病に倒れるだろう。
それでももう二度と、這丸を手放したくはない。
俺の、愛しい家族なのだ。
もう二度と、そばを離れたりはしない。
這丸は、楽しそうに鬼たちの生活のことを語った。
予想通り、水浴びをしたところで鬼のにおいは取れなかった。
いま里に入ってしまえば、間違いなく四方から攻撃を受ける。
ちょうど俺の見張りの番でよかった、と思いながら、空を飛べない空丸を見張り台の麓まで連れていき、そこで夜を明かすことにした。
眠っていいよ、と声をかけると、這丸は俺に寄りかかり、すぐに寝息をたてはじめた。
朝日が昇り始める頃、見張りの交代が来た。
這丸をみて小さく悲鳴を上げ、里の中へ戻っていった。
「ああ、里長に報告しに行きやがったな」
ぽつりとつぶやいてみる。
どうせすぐ伝わっていた話だったが、
当然、俺は里長に呼び出された。
這丸はまだすやすやと眠っていた。
里長の家の中には他の者も皆集まっていて、こちらを見てひそひそと話をしている。
里長は咳払いを一つすると、こちらを向いて話し始めた。
「這丸が帰ってきていたようだな」
「はい」
必要以外のことは発言しないほうがいいだろう。
里長は、もともと吊った目をさらに鋭くしている。
「夜間、里の入り口から鬼のにおいがするようになって、里の者がおびえている。その匂いの正体は、這丸だな」
里長は慎重に、言葉を選んでいるように見える。
「……そうだと思います。」
「這丸はどこにいたのだ。どうしてあれだけ鬼のにおいをさせている。」
やはり聞かれたか、と思いながら、這丸から聞いたことを頭の中で反復する。
「雛を逃がし、狗と戦って川に流されたところを鬼に助けられ、このひと月余り、鬼のすむ地で養生していたそうです。においはそのせいでしょう。鬼には危害は加えられておらず、今夜、鬼の棲み処を抜け出してきたと。」
「あれだけ鬼のにおいをさせているのだ。懇意にしていた鬼でもいたのだろう」
周りに集まっていた誰かが言う。
俺が声の方をにらむと、また里長は咳ばらいをして続けた。
「実際、鬼どもと少なからず縁が生まれたのは確かであろう。」
否定はできない。
「鬼となったものを、我らが里に受け入れるわけにはいかぬ。この後、這丸の元へ行く。話を聞き、彼がこちら側か、もしくはあちら側なのか判断しよう。」
よいな、と周りを見渡し、皆が頷くのを確認すると、里長は翼を広げた。
解散の合図だ。
皆がそそくさと出ていく。
俺も這丸のところへ戻るとすると、里長から呼び止められた。
「空丸はここにいなさい。」
「どうしてです」
「這丸とは、私が一対一で話をする。空丸は先に家にでも戻っていなさい。」
「……はい」
内心、対して歳も変わらないくせに、と思った。
仕方ない、十年ほど前、俺も里長に立候補をという話が来たとき、面倒だと蹴ったのは俺だ。
なにより、這丸を育てるのに精いっぱいだった。
可愛い這丸。
大きくなっても、まだ幼い這丸。
どうか、必要のないことを口走りませんように。
翌日、俺は再び里長の元に呼び出された。
今度は這丸も一緒だ。
やはり、他の者たちも集まっていて、皆険しい顔をしていた。
里長は、鬼たちと言葉が交わせるようだな、と這丸に言った。
這丸がはい、と答えると、里長は鬼の棲み処への道は覚えているかと尋ねた。
そして、争いをやめるために鬼たちと交渉できるかを這丸に問いかけた。
這丸は驚いた顔をして一瞬固まった。
周りにいた者たちは、ただでさえ険しかった顔をさらに鋭くして這丸を見た。
特に、討伐隊を率いている羽吉は、
「長、断固反対です」
と淀みなく言い放った。
皆が賛同するなか、里長が俺の方を見る。
「空丸はどう考える」
内心、俺に振るなよ、と思いながら、平静を保って答える。
「俺は、やるだけやってみればいいと思います。交渉がうまくいかなければ、また討伐すればいいだけの話です」
恐らく、里長の意図は争いをやめることにはないだろう。
他の者も何かを察したようで、唸りながらも静かになった。
里長は這丸に向き直り、改まって言った。
「這丸、鬼どもの村に行き、住む地を分けて争いをやめたいと、翼を持つ者が言っていると伝えてきなさい。空丸は這丸についていくように。」
這丸は少し表情を明るくして、はっきりと返事をした。
大事な話をするといって這丸を帰すと、本題が始まった。
「這丸は、すでに翼人とは言えぬ。」
里長の言葉に、周りの者たちはざわめいた。
やはり。
そんな話をすると思っていた。
「這丸はひと月余り鬼の村で過ごし、鬼にほだされている。この里において、鬼とかかわりを持つというのは危険以外の何物でもない。言い伝えにもあるように、鬼は病を運び、災いをもたらす悪しき存在なのだ。」
里長の話に、羽吉が同調する。
「だから、先代里長は鬼の子を育てることに反対したのだ。どうせ、普段数えきれない鬼を殺していることに罪悪感を抱いて、気が向いて拾ってきたのだろう?」
羽吉の鼻で笑うような言い方にかっときて、汚い言葉が出そうになるのを飲み込んだ。
「実際這丸は、いい翼人に育った。真面目に鍛錬し、強くなった。狗に襲われそうになった雛たちを守ったのだって、這丸だ」
「羽がなくて、それでも翼人と言えるのか?結果的には鬼の側に寝返り、この翼人の里の中で汚らわしい鬼のにおいを漂わせているではないか。大体お前、這丸の前で格好つけすぎだと思うがね。」
言い返そうと口を開いたところ、そのくらいにせよ、と里長が羽吉と俺の会話を制す。
「這丸は、確かにかつてこの里の子であった。しかし、あれだけ穢れのにおいに染まり、里を危険にさらすような思想を持つようでは、もうこの里の者と呼べまい。」
里長の言う通り、這丸にはもう鬼のにおいが染みついている。
こうなると思っていたんだ。
「空丸は這丸と共に鬼の棲み処に向かい、鬼どもを浄化しなさい。そして、鬼の子である這丸を拾い育てた責をとり、這丸も共に浄化しなさい。」
家に帰れば、這丸は寝息を立てて仰向けで眠っていた。
成長しようと、這丸の寝顔は変わっていない。
俺が放った矢による傷は大したことがないようだったが、はだけた着物の間から、治りかけの傷跡が痛々しくのぞいていた。
これは跡になるだろうな、とつぶやくが、明日でどうせ死ぬのか、と作戦のことを思い出し吐き気がした。
昔から、炎は穢れや罪を焼き尽くし、浄化するとされている。
つまり、里長は「鬼の棲み処に火をつけ、鬼も這丸もともに焼き尽くせ」と言ったのだ。
あの日、水浴びに俺もついて行っていれば、こんなことにはならなかっただろうか。
あの日、俺が這丸を拾わなければ、こんなことにはならなかっただろうか。
「ごめんね、這丸」
そっと這丸のまあるい頭をなでる。
這丸は、ううんと唸り、寝返りを打った。
夕飯を作り終えたころ、這丸が目を覚ました。
腹が減っていないか尋ねると、這丸の腹が元気に返事をした。
「いい返事だね!」
そう笑うと、這丸は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
汁物をよそってやると、いただきます、といって這丸は勢いよく食べ始めた。
「うまい」
「でしょう。元気が出る薬草、頑張って探しに行ったんだよ」
嘘だ。
本当は、たっぷりと鹿子草を入れておいた。
俺が明日の準備をする間、絶対に目を覚まさないように。
俺が勧めるまま、何杯も汁物を食べた這丸は眠くなってきたようだ。
「……明日、夜が明ける前に出発するからね」
這丸に声をかけ、俺は明日の作戦のための準備を始めた。
外はまだ暗い。
早くに出発しなければ、鬼たちが活動を始めてしまい、鬼たちの棲み処もろとも、鬼たちを浄化することが難しくなってしまう。
這丸の案内に従い、川を下流へどんどん進んていく。
這丸は、鬼の棲み処から里まで半刻ほどかかって帰ってきたというが、この度はもう少し早く着きそうだった。
「あんまり早くつきそうだから、ちょっと休憩して、にぎり飯でも食べようか」
朝早かったため、道中で食べられるよう、にぎり飯を作ってきた。
だいぶ川下へきたあろうところで声をかけ、川原に並んで腰かける。
にぎり飯の具には、塩ゆでしておいた附子を味噌と和えて入れておいた。
本来、強心剤として、弱ったものに使う薬だが、怪我を除けば健康な体を持つ這丸には十分毒として作用するだろう。
……本当はここでふたり、どこかへ逃げてしまえば、これからも幸せに生きていけるのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎり、這丸ににぎり飯を差し出そうとした手が止まる。
「どうかしたか?」
這丸が不安そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「いや、何でもないよ」
這丸が大きな口でにぎり飯をほおばった。
もう、後戻りはできない。
俺も、附子入りのにぎり飯をほおばる。
「昔こうやって、にぎり飯を持って遠くまで遊びに行ったよね」
少し大きく作りすぎた、と思いながら、話を振ると、這丸は懸命に咀嚼しながらうなずいた。
食べる姿も、小さかった頃と全く変わらないなあ。
這丸は、素直で謙虚で、賢い子供だった。
一度だけ、「みんなには翼があるのに、どうしておれにはないの?」と聞かれたことがあった。
おれはうまい返しが思いつかず、そのうち生えてくるよ、なんていう嘘をついた。
それ以降、這丸は翼のことは聞いてこなくなった。
かわりに、十五の歳を迎えた日、背中に翼の刺青をするように頼まれた。
いいの、後悔しないの、と尋ねると、俺も翼が欲しいんだ、とぽつりと言った。
這丸の背中には、俺が入れた翼がある。
痛みを代償に手に入れた、里の一員だと証明するための翼が。
これまで、同じ歳の子たちと喧嘩したことも一度もなかった。
反対に、いざこざがあれば、公平な態度でいさめていた。
本人は自覚がないようだが、今も、雛たちは皆這丸のことを慕っている。
少し不器用だが、里の誰よりも優しい子だ。
そんな子が、今日死ななくてはならない。
涙がでそうになるのをこらえていると、突然這丸が顔を上げ、こちらをみて言った。
「空丸、ありがとう」
「ん、なに、突然」
照れるなあ、と返しながら、目から少しこぼれた涙をごまかした。
「そろそろ、出発しないか」
這丸が言う。
「……そうだね」
答えて立ち上がる。
この子は何も知らず、翼人と鬼の懸け橋になろうとしている。
俺も、本当はこころ優しい這丸の意志を尊重し、見守りたい。
しかし事実、鬼と関わることには危険がある。
里と、里の者たちを守るためには、できるだけ危険を排除することが最善だと理解している。
俺は、正しい動きをしなくてはならない。
隣で、決意に燃える目をした這丸を見ると胸が締め付けられる。
いや、本当に胸が苦しい。
先ほどの附子が効いてきたようだ。
這丸も、そろそろ苦しくなってくる頃だろう。
歩いているうちに、這丸の足取りもおぼつかなくなってきた。
「空丸、申し訳ないが少し休めないだろうか」
俺が頷くと、崩れるようにしてその場に座った。
「ねえ、這丸、ここから鬼のところまであとどれくらい?」
苦しくなってきた呼吸を落ち着けて尋ねる。
「そんなにかからない。川をさらに下ったさき、林の中に村の門が見えるはずだ」
「じゃあ、這丸は少し休憩しててよ。俺、先に行って村の様子を見てくるからさ。」
俺は空に飛びあがった。
確かに、背の高い木々が囲う中に、少し開けたところがある。
「あれが鬼たちの棲み処か」
杉の木の丸太の先をとがらせたものを並べて塀にし、村の出入り口であろう場所も、木の板でふさがれていた。
恐らく、野生動物から身を守るためだろう。
ただし、今回は塀で囲われている方が好都合だ。
俺は懐から油紙と打竹を取り出した。
打竹はすっかり熱くなっており、やけど防止に腹に巻いておいた布越しでも、ちょっとしたあざができていた。幸い、しっかり火種は残っていて、無事油紙に着火することができた。
朝なので塀も若干湿っており、最初は油紙から燃え移らず、燻ぶるばかりだった。
たくさん油紙を持ってきていてよかった。
少しずつ、塀が燃える。
村を取り囲む塀の何か所にも火をつけた。
次第に火は広がり、大きくなっていく。
うまく門にも着火した。
村の中に水場がないことは上空から確認済みだ。
あとは火が回るのを待つだけ。
いよいよ俺も、動くのがきつくなってきた。
空から這丸の元へ向かうと、這丸は川で顔を洗っていた。
「少し時間がかかったな。鬼たちはどうだった?」
「ああ……恐らく小便に起きてきたであろう子供の鬼に姿を見られそうになって、少し隠れていたんだ」
冗談めかして言い、さきほど油紙などを取り出した際に乱れた襟元を直しながら、地面に足をつけた。
炎のそばにいたせいか、毒のせいか、脂汗がふきだしてくる。
気持ち悪い汗を流そうと、這丸と同じように顔を洗う。
「なんか顔色悪くないか?」
もしかして、何をしていたか這丸にばれてしまっただろうか。
「……そんなことないと思うけど。這丸こそ大丈夫?」
実際、少し休んだところで楽にはならないはずだ。
しかし這丸は、
「少し休んだから良くなった」
と静かに言った。
「よかった」
何にも、いいことなんてない。
俺は這丸の横に腰掛ける。
力が入らなくて、意図せず這丸に寄りかかる形になってしまった。
「横になるか?」
「少し、このままで」
気遣いを断り、這丸にもたれていると、いつもは低い這丸の体温が上がっているのがわかる。
しっかり附子が効いた証だ。
……這丸も苦しいだろうけど、もう少しの我慢だからね。
心の中で呟いて、俺は目を閉じた。
少しの間、意識が飛ばしていたらしい。
村のほうが騒がしい、と言って、這丸は俺を起こした。
いよいよ、終わりだな。
「行こうか」
力が入らないままの足を奮い立たせ、立ち上がる。
ひどく焦げたにおいが立ち込めている。
這丸が駆けだし、俺もそれに続いた。
村から、もくもくと煙が立ち上っているのが、木々越しに見えている。
這丸はその黒煙には気づかなかったようで、必死な顔をして急いでいた。
計画通り、村を守るはずの塀は大きく燃え上がり、村の出入り口である門は、上の方が焼け落ちて、もはや通れなくなっていた。
這丸は、立ち止まった。
大きく見開かれた瞳に、ごうごうと燃え上がる赤色が映っている。
次の瞬間には、這丸は履物を脱ぎ捨て、炎の中に向かっていった。
這丸は本当にいい子だ。
自分が苦しくても、誰かのために動くんだから。
火柱の合間から、逃げ惑う鬼、それを助けようと何か指差し、叫ぶ這丸。
「ごめんね、俺も俺の役割を果たさなきゃならないんだ」
改めて口に出すと、懐から小刀を取り出した。
あの日、探しても探しても見つからなかった這丸が、唯一川に残していった小刀。
鬼を助けようとしている這丸の小刀でこんなことをするなんて、俺はひどいよな、と思う。
這丸が指さした通り、村の門から炎をくぐって出てきた鬼の腹を、力いっぱい刺してやる。
体当たりするようにして、また鬼を刺す。
また鬼を刺す。
俺が刺した鬼に抱えられた幼い鬼が、泣き叫んでいる。
一瞬、その泣き顔がかつての這丸と重なる。
しかし迷ってはいけない。
その小さな腹にも刃を突き刺す。
里のために、里の皆がこれから安心して暮らせるように。
炎の向こうで、這丸が倒れているのが見えた。
高く燃える炎を、熱いのをこらえて羽ばたいて超える。
地面に降り立てば、這丸は少し唇を動かした。
「……空丸」
「ごめんね、這丸」
すべて、種明かししてしまおう。
這丸の前にいて、すべて隠し通そうという方がつらい。
打竹や油脂を懐から取り出すと、這丸はほんの少し眉を寄せた。
「……火をつけたのは俺。鬼から、穢れから里を守るためだよ」
そんなのいいわけでしかないけれど。
俺の、最後に残った力で這丸を抱き寄せた。
「力が入らないよね。さっき食べたにぎり飯には毒が混ぜてあるんだ」
這丸は返事をしない。
ただ、乱れた鼓動を手のひらに感じる。
「長いわく、一度鬼の手に触れ、鬼となった者を受け入れることはできないって。……ひどいよね。這丸は、俺が育てて、俺と暮らして、俺とともに戦っていたのに」
いよいよ、這丸の鼓動は弱まっていく。
「でも大丈夫。這丸はひとりじゃない。寂しい思いなんか、させない」
俺は這丸を強く抱きしめた。
「俺が一緒だよ」
近くで燃えていた塀の一部が、俺たちのすぐ近くに倒れてきた。
建物の方で上がっていた炎と合わさり、さらに大きな火柱となる。
「俺の、可愛い這丸。一緒にいこうね」
髪の毛がちりちりと焦げる音を間近に聞きながら、俺も意識を落としていった。
みわたすかぎり、雲切れひとつない青空と、小さな白い花の咲き誇る草原。
そうだ、這丸はどうしただろうか。
突然、遠くに人影が現れる。
あれは。
「這丸!!」
呼びかけると、その影はこちらに大きく手を振った。
陰に向かって走る。
体が異様に軽い。
ああ、そうか、ここは死後の世界か。
影は近づくと、ふっと消えてしまった。
そしてまた向こうに影が現れる。
俺は影を追いかけた。
何度繰り返しただろう。
いつの間にか空は濁った雲に覆われ、草原の小さな花たちは枯れていた。
いくら走っても追いつけない。
また遠くに影が現れたが、俺は立ち止まった。
「どうせ、追いつけないんだろう」
つぶやくと、影は消えた。
あれは、俺の心が生み出した幻だったのだろうか。
本物の這丸はどこに行ったのだろう。
後ろを振り返っても、もうどこにも青空、生き生きとした草花の気配はなかった。
肩を落とし、ため息をひとつつくと、背後からひゅうっと風が吹いた。
「……うらぎりもの」
風にまぎれて、そんな声が聞こえたような気がした。
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