間章 前触れ

「……」

 

 その日の昼下がり、ドルジャワイナリーの邸宅の一画。

 食事を終え、食後の紅茶を飲み終わっても数分が経つというのに、いつまでも席を立とうとしない夫に、夫人は目を細めた。

 

「どれだけ待っても、アヤは片付けには来ませんよ」

「……分かっとる、そんなことは」

「そうですね、貴方が忘れるはずもありません」

 

 だって、アヤをどうするかについて、自分たちは悩みに悩んで、決めたのだから。

 

(十五歳のあの子を引き取って、もう、十年近くの時間が過ぎたのね)

 

 ここに来たばかりの頃の、手負いの獣のようだった少女を覚えている。

 

 いまは亡き藩王国の、深遠なる山の奥で育った少女を引き取ったのは、単純に、彼女の父親が夫の友人だったからだ。アヤの父親は変わり者で、家業も継がず、辺境でフィールドワークをしていた文化人類学者だった。実家との縁を絶たれた彼は、自身の死の直前、ワイナリーの経営者である、学生時代の友人を頼ったのだ。

 

 当初、夫の判断に、夫人は強く反対した。

 だって、言葉もあまり通じない、異国の少女だ。施設に入るまで一時的に面倒を見るならともかく、本腰を入れて引き受けるだなんて。しかも、結局のところ、その子の世話をするのは、こちらではないか。身の丈に合わぬ正義感から、なんて厄介事を――――と、冷めた思いで出迎えた自分は。

 絶望に濁ったひとみでこちらを見上げる、すべてを失った少女に、言葉を失った。

 

(……ああ)

 

 故郷を追われ、両親を失い、なにも知らぬ土地に辿り着いた少女の、やせ細った腕。お腹が減っているという少女に、採れたての葡萄を食べさせたときに、その目にかすかに映った、まばゆいきらめき。


 それを見たら、打算も、拒否感も、どこかに消え失せた。

 

 ――――貴方は、ここで、生きていていいのよ。

 

 その思いを、自分は果たして、口にしたのだったか。それとも、心のなかで思うに留めたのだったか。

 いずれにしても、それから夫人は、アヤという名の少女を、名前以外のほとんどすべてを失ってしまった少女に、言葉を教え、仕事を教え、この国で生きていく方法について教えた。

 

(あの子の口調や発音は、私に似てるのよね)

 

 この町で生まれ育った主人と違い、自分は王都から嫁いできた身だ。

 この町の人々の言葉には、ちょっとした訛りが多いが、もし、彼女が望んだときは王都でも働けるようにと、直させた。さすがは学者の娘だけあって、アヤはとても飲み込みがよく、王都の言葉遣いを身に着けた。彼女自身は自分を学のない人間だと思っているようだが、この町の人々はむしろ、彼女に少し都会的な印象を覚えている。

 役場についたら、別の場所に引っ越すように薦められているかもしれない。

 

「あの子がいなくなっただけでも寂しいのに……遠くに行ったら、ますます寂しくなりますねえ」

「……そうだな」

 

 頷く夫の声は、酷く消沈している。当然だ。ここ三年間、このワイナリーに降りかかった出口のない不幸は、彼の心をひどく苛んでいるのだから。

 

 葡萄作り、ワイン作りがなによりの楽しみのこの人から、天はそれを奪い取ろうとしている。


「この世界には、残酷なことがたくさんあるわね」

 

 アヤの故郷を襲った、人間の悪意。そして、夫から生業を奪おうとしている、作物の疫病。それらどうしようもない災いに、自分のような一介の民は、なすすべもない。

 

「……あら?」

 

 紅茶を淹れ直そうかと席を立ったところで、夫人はまばたきをした。外から、馬の蹄が立てる音が響いてきたからだ。音の大きさ、鋭さを鑑みるに、町内をゆったりと駆ける小型の馬車ではなく、貴族御用達の早駆け馬車だろう。

 ワイナリーは町のはずれにある。十中八九、目的地はここだ。

 

「貴方、今日はお客様を予定していたかしら?」

「……いや」

 

 夫の眉が曇った。

 このところ、ワイナリーに持ち込まれる話にはろくなものがない。資産売却の提案や、従業員の引き抜き交渉はむろんのこと、明け透けに吸収合併を提案してくる者もいる。

 葡萄の実らぬ畑を買い取ってなんになるのか、という話だが、もとよりここは地価の安い田舎だ。『買いどき』のときに巻き取って、事態が好転すれば設け、低迷し続けるだけなら斬り捨てればいい、という魂胆なのだろう。

 

 自分たちだって経営者だ。事業を営む以上、どうしたって損得の勘定が付きまとうのは理解できる。けれど、ワインへの愛もなにもない手合いが、片手間に手出しをしてくるのには、悪感情を抱かざるをえない。

 

(駄目駄目、お客様の前では、にこやかにしなければ)

 

 たとえ休業中だろうと、自分はこのワイナリーの『奥様』だ。その一挙一側が、ワイナリーへの印象を左右する。

 

 主人はティーセットを置き、席を立つと、壁掛け鏡で自身の身だしなみを確認してから、玄関に向かった。アヤや、他の使用人に暇を言い渡した分、一人で応対をしなければならない。

 

(応接間は、さきほど掃除した。紅茶の在庫はあるし、クッキー……は、どうだったかしら)

 

 不安を頭に巡らせながら、玄関の戸を開く。道の向こうで止められた馬車から、シルクハットの男が歩いてきた。年の頃は三十後半から五十手前。長身の身体が引き立つ、大変仕立てのいいスーツを纏っている。

 顔に覚えはなかった。

 

「これはこれは、ご婦人、お出迎えありがとうございます。いやあ、聞きましたよ、こちら、休業になさるんですって?」

「……はい。葡萄が、ご覧の通りなもので」

「なるほど、なるほど。それは運が良い」

「運が、良い?」

 

 予想だにしない言葉に、接待用の仮面が崩れ落ちた。

 

 ――――この男はいま、なんと言った。

 この、枯れ果てた葡萄の樹を見て、なんと。

 

「じつは、数年前にも部下が来たのですがね。そのときはあえなく断られてしまって」

「……ご相談ごとでしたら、主人が伺います」

「いえいえ、そんな、遠慮なさらず。なんど言ったって手間などない、単純な案件ですから」

 

 男の声が、這いずる蛇のように、鼓膜を揺らす。

 

「私は、魔法学府秘跡学部の者です。ここの土地を、買収させていただきたく思い、参りました」


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る