海辺の旋律④

 八月の陽射しがアインの青白い肌を刺す。

「……暑いですね」

「北の都といえど、八月はこんなもんじゃよ」

「王国は夏でも雪が降る土地だと思っていました」

「そりゃ、母君の故郷限定の話じゃろ。魔術師なら、もう少しこっちのことも勉強せい」

「そういえば母も、王都の夏はつらかったと言っていました」

 先頭を行くラジンの背後を、アインは陽射しから顔を背けつつ、ついていく。

「どこへ行くのですか」

「さて。こう良い天気じゃし、歴史の勉強の続きでもしようかと思っとるんじゃが」

「そういう目的でしたら、図書館に向かったほうが良いのでは?」

「本に顔を埋めてるだけじゃ本当の歴史は見えてこんよ。よく言っとるじゃろ。真理に辿りつきたくば、まず足を動かせと」

「……なんでも良いのですが、どこかで一度休憩させてもらえませんか。だんだんとまた頭が痛くなってきました」

「しゃあないの。また、あの店にでも行くか。今日もお嬢さんがいるといいんじゃが」

 ふたりは王都到着の日に訪れた酒場へと向かった。

「いらっしゃいませ……あっ」

 出迎えた少女に、ラジンは軽く手を上げて会釈する。

「こやつが暑さで参ってしまうと言うでな、すまんが少し休ませてくれんかね?」

 ああ、と少女は表情を和らげる。

「今日は陽射しが強いですものね。帝都の夏とあまり変わらないぐらいかも」

「おや、お嬢さんは帝都の出身かね」

「はい。今年の初め頃にこちらへ来たんですけど、冬は雪が降って寒いし、夏も案外暑いしで、結構大変なところだなあって思い始めてます」

「うむ。ここは気候的にも立地的にも、決して暮らしやすいとは言えん土地じゃからね、まあ」

 ラジンは窓の外の街並みに目をやる。

「わしが前に訪れたときと比べれば、だいぶ住みやすい場所にはなったようじゃが」

「前と言うと……ひょっとして何十年も昔のことですか?」

「ああ。相当昔の、まだ荒廃の爪痕が残っている頃じゃな。あそこからここまで立て直すのは、さぞ骨だったろうと思うよ」

「きっと魔王様たちが、ものすごく頑張られたんでしょうね」

「そうじゃの。……魔王様、か」

 ラジンが呟くと少女は「あっ」と声を漏らす。

「ごめんなさい。魔王様なんて呼び方、馴れ馴れしかったですね」

「いや、そうではなくてな。そういう呼び方が自然と出るくらい、お嬢さんは王都の人になっとるんだと思っての」

 王都の人、と少女は繰り返し、それからはにかんだ顔で笑う。

「そう言われると、なんだかうれしいですね。私もようやく、ここに馴染めてきたのかなって」

「ああ、もうすっかり馴染んどるよ。どこからどう見ても、立派な王国乙女じゃな。お前さんもそう思うじゃろ?」

 話を振られたアインは当惑気味に「ええ」と呟いた後、少女にじっと視線を向けながら言う。

「あなたはなぜ故郷を離れ、この町で暮らすことにしたのですか?」

 軽く目を見開いた少女の表情に、アインはふと我に帰る。

「その、話したくない事柄なら結構ですので……」

 慌てふためいたアインの様子を見て、少女は「いえ」と首を振る。

「そんなにたいした理由ではなくて……私、ただ逃げたかったんです。家とか家族とか、そういうものから逃げられるならどこでも良くて、王都に来たのも逃げるのに都合が良かったからというだけなんです。だけど、この町で半年ほど暮らしてみて、もちろん大変なこともあったんですけど、それでも周りの人たちに助けられてなんとかやってこれましたし、大切な人もできました。だから、これから先の未来がどうなっていくかはわかりませんけど、できることならこの町でずっと暮らし続けたいと思っているんです」

「なるほど。どうやらお嬢さんには、王都の水が合ったようじゃ。わしの不肖の弟子も、それくらい上手くやれているといいんじゃが」

「お弟子さんがいらっしゃるんですね。ひょっとしてその方と会うために王都まで?」

「というわけでもないんじゃが……」

 少女と師の会話を、アインは聞くともなしに聞いていた。その瞳はいつしか、王都よりさらに北に連なる、雪に閉ざされた山々の方角に向けられていた。

「で、体調は戻ったのかね?」

 ビールを片手に尋ねる師に、アインは「はい」と頷く。

「あまり遠出をするとまたぶり返しそうですが、この辺りをぶらつくぐらいでしたら」

「そうか。なら、支障はないね」

「午後に行く場所はもう決まっているのですか?」

「いや、なんも。言ったじゃろ、歴史のお勉強と。わしはもう散々学んだから、お前さんの行きたいところへ行けば良いさ」

「と、言われましても」

「せっかく北の都まで来たのだから、そこでしか学べないもの、得られないものに触れることじゃよ」

「ここでしか得られないもの、ですか」

 アインは冷たいワインの注がれたコップに目を落とす。

「ごく個人的な、歴史についてのことでも良いのでしょうか」

 ラジンは茄子と鶏肉の炒め物を皿に取り分けながら頷く。

「歴史とは本来そういうもんじゃろ。個人のささやかな生の軌跡が幾つも連なり、今のこの世界を形作っている」

「では、幾つか行ってみたいところが」

「思い出の場所かね?」

 ラジンが問いかけると、アインは微妙な表情を作る。

「と言いますか……のろけの舞台でしょうか」


 年中雪の土地の出身である母の身に、王都の夏は些か堪えた。陽射しから逃れるために、母と父は王都の南西部に広がる林を訪れた。

「そして、うっかり聖水の泉から滴る水を口にしてしまい、父の前でべろべろに酔っ払った姿を晒す羽目になったそうです」

「ガルプ伯の血に連なる者が、水で薄めもせずに聖水を飲めば、そりゃそうなるわな」

「酔いが醒めた後、父に愛想をつかされるのではないかと気が気でなかったと言っていましたね」

 アインはささやかな泉から湧き出る水の流れに、目を落とす。

「私が飲んでも、やはり酔っ払うのでしょうか」

「母君よりはマシかも知れんが、結構きついんじゃないかのう。純粋な帝国人でも、魔術の修練を積んだ者なら聖水酔いになることはあるしの」

「そうですか」

「飲みたいなら、汲んでおいて宿で飲んだらどうじゃ?」

「それでもいいのですが、母の足跡を辿るという意味では、やはりここで飲むべきかなと」

「変なところで真面目なやつじゃのう。なら、一口だけ飲んでみたらどうかね?」

 手のひらに掬った水に、アインはそろそろと口をつける。

「くらっときたかね?」

 アインは顔を上げ、しばらく無表情に前を見据えた後、よろりと後方に倒れこんだ。

「なんでしょうこれは……体が浮き上がるような……」

「わかったから、ちょっと横になれ。まったく、いくつになっても世話のかかるやつじゃて……」

 酔いが醒めた後に足を運んだのは、大聖堂前の広場だった。

「父の王都滞在は聖祭の時期と重なっていましたので、祭りの最終日、父と母はこの広場で踊ったそうです」

「聖祭の最終日の定番じゃな」

「父は踊りなどやったことがなかったので、母は父をリードするつもりではりきったそうですが、結果それが裏目に出て、盛大に転んだあげく足首を捻ったそうです」

「なんというか、さっきの泉での出来事といい、思ったよりも落ち着きのないご婦人だったみたいじゃのう」

「家でもよく、何もないところで転んだりしていましたよ」

 母は、大体何をしてもそそっかしいところのある人だった。そんな彼女を、父もアインも半ば呆れ気味に眺めていることが多かった。

「もうちょい良い感じの思い出が残っている場所はないのかね?」

「そうですね……」

 アインは記憶を探り、両親の昔話に出てきた王都の街並みを辿る。

「良い感じとは少し違うかもしれませんが……これは母ではなく父から聞いた話なのですが、城の南東にある教会に母は毎朝通っていたそうです」

 ああ、とラジンは心得たように言う。

「聖ラナスの教会じゃろうな。たしかに王都の教会で母君が通うなら、あそこじゃろうて」

 そこは、城からほど近い距離にある小さな教会だった。昨日訪れた教会や大聖堂と同じく木造の質素な建築で、特段目を引くところはない。

 薄暗い教会の内部に足を踏み入れると、最奥部に設置された祭壇の上には、こじんまりとした木像がぽつりと置かれていた。

「聖ラナスは、元は遥か南より来たと言われる人物でな。その出自ははっきりしとらんが、彼はファロールの森、すなわち現在の王国南東部から帝国北東部に跨る広大な森林地帯で、ひとりの聖女に出会ったのだという」

 聖女、とアインはつつましい祭壇の上の木像を見下ろしながら呟く。

「彼女は森で出口を見失ったラナスを導き、無事に人里まで送り届けた。そのことに感激したラナスは、何か貴方のためにできることはないかと尋ねた。すると聖女は、自身の仕える女性を祀る場所を彼女が生涯を終えた土地に作ってくれ、と答えた。ラナスは言いつけ通り、北の都に彼女を祀る教会を建てた」

「それがここですか。ということは、聖ラナス教会と名はついてますが……」

 アインは木像を見据えたまま言う。多少造形は異なるようだが、昨日これによく似た像を見た覚えがある。

「左様。いつのまにか今の名前に落ち着いていたようじゃが、ここは古くは、聖リュピア教会と呼ばれておったんじゃよ」

「なんとも奇妙な言い伝えですね。ここより遥か南から来たラナス……リュピアに仕える聖女……」

「ま、これも教会の説教と同じで、どこまでが本当かわからん話だがね。だが、なんにせよ、ここは王都におけるリュピア信仰の聖地であり、ゆえに北方の民にとっては特別な意味を持つ場所なんじゃよ」

「北方では今もリュピア信仰が盛んなのですか」

「そうさな。向こうの教会に行けば、どこでも必ずリュピアの像が置かれておるし、リュピアの伝承は耳にたこができるほど聞かせてもらえるんじゃないかね」

「その伝承というのは、やはり昨日教会で聞いたものと同じなのでしょうか」

 アインが尋ねると、ラジンはなぜだか目を逸らす。

「表向きに聞ける話は、大体同じみたいじゃな」

「裏向きに聞ける話があるのですか?」

「教会で司祭様が教えてくれる話と、家でじい様ばあ様が教えてくれる話では、少々違うところもあるかもしれんの」

 ラジンの言葉に釈然としないものを覚えつつ、アインは再び木像に向き直る。そして祈りを捧げるべく跪かんとしたところで、先ほどから漠然と感じていた違和感の正体に気がつく。

「……この木像、フードを被っていませんね」

 ゆえに、ほかの場所で見た木像と異なり、リュピアの頭部が露わになっている。想像通り、長い髪の間に角は見当たらない。

「古くは、こういう形のリュピア像が主流だったそうじゃよ。いつのまにか大聖堂で見たような、頭部をすっぽり隠した形に取って変わられたみたいじゃが。……その昔は、彩色された像なんかもあったみたいじゃな」

「その場合は帝国人の肌の色……といっても個人差はありますが、やはりそういった色が使われていたのでしょうか?」

 ラジンは少々呆れ気味に目を細めて、弟子を見る。

「お前さん、存外にぶいのう」

「と、言われますと」

「角が生えてなければ帝国人ってわけでもないじゃろ。たとえば、お前さんに角は生えとるか?」

「いや、私の場合は……」

 アインは言いかけて、口を噤む。そして再び壇上の像に目をやる。

「まさか……」

「まさかというか、おおかた想像の範疇じゃろ」

 しかし、とアインは解せない表情で呟く。

「リュピアに血族はいない、という話だったのでは」

「だからそれも話の都合……いや、ひょっとしたらそれがリュピアの意思だったのかもしれんな」

「意思ですか」

「いつの時代にも、英雄を担ぎたがる者というのはおるからの。そういう輩に利用されるくらいなら、自分自身も自身の血族も、この世のどこにも存在しないということにしてしまったほうが良い……」

 ラジンは木彫りの素朴な像を見やりながら言う。

「という風に、彼女は思ったのかもしれんな」

「では……やはり表向きには、リュピアの血に連なる者はもう地上のどこにもいないのですね」

「そうさな。ガルプの家も、こういった伝承とは無関係の魔族の名家のひとつということになっておる」

「しかし母は毎朝この場所で、リュピアに祈りを捧げていた……」

 アインは祭壇の前に跪き、指を組んで祈りを捧げる。形だけ真似たところで、母の気持ちを知ることはできない。しかしそれでもこうすることには、何かしらの意味が宿っているように思えた。

「ひょっとしたら、母君は帝都の教会でリュピアに祈りを捧げていたのかもしれんな」

「帝都の教会で、ですか? 毎朝通っていた教会には、リュピアの像などありませんでしたが」

「そりゃあ、帝国の教会に置いていいのはリファーの像だけじゃからな。だが、教会のステンドグラスには古の時代の伝承が描かれておる。そして、ステンドグラスの作者が好む題材のひとつに、白き娘の伝承があるんじゃよ」

「白き娘の、伝承……」

 母はいつも、祭壇から見て左の位置に屈みこんで祈りを捧げていた。彼女の視線の先には祭壇と、壁に嵌めこまれた色鮮やかなステンドグラスがあった。

 アインはあるとき、母に訊いてみた。あの窓に描かれているのは誰、と。母がいつもその窓を見ているような気がして、気になったのだ。

 母は、なぜだか少し寂しげな笑みを浮かべていった。

 ……遠い昔の人。たくさんの人を守って、今も私たちを守ってくれている人。

「……それならそうと、はっきりと言えばいいものを」

 おそらく、とラジンはアインの傍に立って言う。

「お前さんには、あくまで帝国人として生きてほしかったんじゃろ」

「だから、母から受け継いだ血のことなど知る必要はないということですか……」

 たしかに母は、実家のこともほとんど話してくれなかった。父と出会う前、彼女があの北の果ての地でどんな暮らしをしていたのか、アインはほとんど何も知らない。

 アインは木像にもうしばし祈りを捧げた後、立ち上がる。

「もういいのかね?」

「はい。そろそろ日暮れどきですし、もう一度あそこに立ち寄っておきたいので」

 

 赤紫の空の下に、それと同じ色に染まる海がある。少し眺めている間にも、海は刻一刻と姿を変えていく。

「小さい頃、よく母に連れられて海を見に行きました」

 帝都は海に面しているので、少し歩けばすぐに海辺へと至る。母は遠い海の上の父を想い、少しばかり調子外れな歌を大海原に響かせた。アインはそんな母の姿を気恥ずかしく思いながらも、彼女の歌に耳を傾けていた。

 母は色々な歌を歌ったが、一番よく歌っていたのは、一聴したところでは意味の取れない奇妙な音の羅列だった。ラジンから古語を学び、各地を旅するうちに、それが王国に古くから伝わる恋歌なのだと知った。

 母のその歌は、詞の意味もわからず音程もどうにも不明瞭なのに、なぜだか妙に耳に残った。きっと父も、異国の港で聞こえてきたその不思議な歌に、自分でも知らず知らずのうちに耳を傾けてしまったのではないだろうか。

 そんなことを考えているうちに、アインの口からは自然と旋律がこぼれだしていた。幾度も聞かされるうちに、すっかり耳にこびりついてしまった音。古語を解するようになった今では、口にするのが些か照れ臭く感じられる甘い愛の言葉。

 歌が終わると、背後で拍手の音が響いた。

「茶化さないでください」

「や、なかなか見事な歌いぶりじゃったよ。母君が乗り移っていたのかもしれんな」

「自分で言うのもなんですが、母の歌はもっと適当で音程がおぼつかない感じでしたよ。そこが味といえば味だったのですが」

 ラジンは頷き、アインの背をぽんと叩く。

「だいぶ気分も良くなったみたいじゃし、そろそろ行くかの。夕飯の予約を取ってあるでな」

「予約? 一体どちらの店ですか?」

「魔王様の城じゃよ」

「魔王様の、城?」

「ああ、もう話はつけてあるでな」

 アインはぽかんと口を開け、それから呆れと安堵の入り混じった気持ちで息を吐く。口ではああ言いつつも、師も弟弟子のことを気にかけていたらしい。

「ラジン様も素直じゃありませんね」

「生意気ぬかすな。それに、あいつだけが理由ではないさ」

「そうなのですか?」

「城にはガルプ伯がいらしてるじゃろ?」

 アインは目を見開き、そうですね、と呟く。

「まだ会えんかね?」

 アインは少しの間考えてから、いえ、と答える。

「もしお会いできるなら、母のことを訊いてみたいです」

「そうか。それじゃあ、行くとするかね」

「はい」

 アインは月と星に照らされる海を一瞥し、それから丘を下っていく師の後を追った。

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