海辺の旋律③
翌日、普段より早い時刻に目が覚めたアインは、朝食の席で師に切り出した。
「教会に行ってこようと思います」
「朝のお祈りかね」
「そういうわけでもないのですが」
「教会に他にどんな用事があるっていうんじゃい」
正直なところ、教会に何をしにいくつもりなのか、自分でも掴みかねていた。静かな場所に行きたいだけの気もするが、もう少し別の意図がある気もする。考えているうちに、区教会が見えてくる。
祭壇の前では、すでに二、三人の信徒が朝の祈りを捧げている。昨日は気がつかなかったが、壇上にはふたつの像が置かれている。ひとつは、大聖堂で見たものとよく似たリュピアの像、もうひとつは何やら体のあちこちに植物の蔦を巻きつけた魔族の女性の像だ。蔦からは果物や野菜が生えているので、おそらく彼女は作物を司る神なのだろう。この辺りは八百屋が多いようなので、彼らの仕事に関わりの深い神が祀られているのだろうか。
ただ立っているのも具合が悪いので、信徒たちを真似てアインも祭壇の前に跪く。特に祈る理由もないが、建国の祖と作物の神に祈りを捧げる。
……考えてみると、祈るときの姿勢は帝国でも王国でも変わらないのだな。
母もこんな風に、神の像の前に跪いて祈りを捧げていた。毎日毎日、まるで神に縋りつくように。
……いくら帝国人の神に祈ったところで、魔族に救いをもたらしてはくれないだろうに。
あるいは母は、半分は帝国人の血を引く息子にだけは救いを与えて欲しいと願っていたのだろうか。たとえ自身の身を犠牲にしたとしても。
父が帰らぬ人となり、苦しい生活が続いた末にようやく、母は仕事を見つけてきた。母の仕事は実入りが良かった。生活はたちまち好転し、父がいた頃と比べても余裕のある暮らしを送れるようになった。
にも関わらず、アインは不吉な予感に苛まされていた。以前よりずっとましな食事を摂っているのに、母は以前よりやつれたような気がする。彼女の背後に、不吉な影が見えるような気がする。しかし、自分のために頑張ってくれている母を見ていると、今の仕事を辞めてほしいなどとはとても言えなかった。
ある日、母はひどく暗い顔をして帰ってきた。何かあったのと尋ねると、なんでもないの、と母はかすかに微笑んでみせた。
その夜更け、ベッドに横たわる母の体が大きく痙攣した。声をかけても何の反応もない。しばらく痙攣を繰り返した後、唐突に母の呼吸は止まった。頼る当てもなく、アインは闇の底でただ茫然と、動かなくなった母を見下ろしていた。
翌朝、小さな窓から差しこむ朝日に照らされた母の白い首筋には、黒い痣のようなものが浮かび上がっていた。魔術を学んだ今ならば、あれが呪い返しを受けた痕跡だとわかる。母は他人を呪い、その呪いを返されたのだ。
呪い返しを受けて絶命したということは、母の放った呪いがそれだけ強力なものだったということだ。母は毎朝神に祈りを捧げる一方、人を呪うことで日々の糧を得ていた。
……結局教会の説教の通り、忌むべき魔の眷属には裁きが下されたわけだ。
一方、人の血を引く息子には救いがもたらされた。母が亡くなったその日、突然やってきた老人は、アインに代わって母の葬儀を簡素に、しかし丁寧に執り行った。そして、全てを失った少年に向き直ると「お前さん、わしの弟子にならんか?」と尋ねた。
自分は恵まれていると、アインは常々思ってきた。父が亡くなった後も、母のおかげでそれほどつらい生活はせずに済んだ。母が亡くなった後も、間を置かずにラジンに弟子として引き取られることになった。―母が亡くなった直後にラジンが姿を現したことの意味は、幼いアインにもなんとなく理解できた。しかしラジンを憎む気持ちが不思議と湧いてこなかったのは、母が何をしていたのか、薄っすらと悟りつつあったからかもしれない。
アインはラジンに連れられて、帝国各地を旅した。純粋な帝国人に近い容姿をしているアインは、特段白い目で見られることもなかった。類稀な魔術師である師の下で魔術の腕を磨くうちに、彼と同じように親を喪った少年が弟弟子となり、ここ数年は随分賑やかな道中となっていた。
……もしこの幸運が神々によってもたらさられたものならば、せいぜい感謝しないとな。
アインは黙々と、心を空にするよう努めながら祈りを捧げた。聖リュピアと作物の神に、それから今この場にはいないその他諸々の神々に。
祈りを終えて立ち上がったとき、アインの心は凪いだ海のように静かになっていた。起伏のない、感情をどこかに置き忘れてきたような、いかなる熱も孕まない内面。
ラジンは図書館に行くと言っていた。このまま合流しても良かったのだが、アインの足は自然と城の方向へと向かっていた。師はあまり心配していないようだが、やはりリックのことが気がかりだった。いきなり行って会えるとは思わなかったが、ひょっとしたら昨日会った二人に話をつけてもらえるかもしれない。
ふたつの高い塔を抱く城まで近づいていくと、何やら門前に人だかりができていた。その中心には白塗りの瀟洒な馬車が一台。どうやら、どこかの高位貴族が到着したらしい。
あれでは自分など到底取りあってもらえないだろう。そう思い引き返そうとした矢先、馬車の扉が開いた。
現れた姿を一目見るや、アインは大きく目を見開く。
銀の髪と白い肌に、真紅の双眸。現れた男性貴族は、紛れもなくかの北方の大領主だった。
そして、彼に続いて降りてきた少女もまた、彼とまったく同じ特徴を有していた。ふたつに結んだ長い銀髪。もしあれをほどいたならば、彼女はさぞや母に―。
叫び出したい衝動を必死に堪え、アインは逃げるようにその場を後にした。
走り続けて、ようやく見えてきた宿に転がりこむ。ベッドに倒れ伏し、目元を腕で覆う。
闇の中で息を整えるうちに、先ほど見た光景が蘇ってくる。それを振り払おうとしてきつく瞼を閉じるが、白い影はいっそう鮮やかに脳裏に浮かび上がり―。
「なんじゃ、二度寝か。優雅なやっちゃな」
気がつくと、ラジンが傍らの椅子に座っていた。
「師匠、いつのまに……」
「普通に扉から入ってきたんじゃがね。なかなかやってこんし、教会にもおらんからどうしてるかと思えば……」
「すみません、少し動転することがありまして」
「教会でか」
「いえ、城の門前です。ガルプ伯がいらしていました」
ラジンは少し眉を上げ、そうか、と呟く。
「聖祭の時期じゃし、伯が来ていてもおかしくはないわな。そうするとお前さんは伯から逃げてきたのかね?」
「と、言いますか……」
母にとって、ガルプ伯は従兄弟にあたる。伯は母のことを妹のように可愛がっていたそうだが、帝国人との結婚にはやはり反対していたらしい。彼の立場からすればそれは当然の意見だろうし、アインにも特に伯を恨む気持ちはなかった。
「伯というより、伯の御令嬢から逃げたかったのだと思います」
「ああ、おるの。まだ娘っ子じゃったろ」
「そうですね。若く、美しい服に身を包んでいて……」
「惚れたか」
「いえ。ただ、あれが母にとって本来あるべき姿だったのだろうな、と」
たくさんの家臣に傅かれ、何ひとつ不自由ない暮らしを送る。それが父と出会う前の母の人生だったはずである。
「全てを捨てると決めたのは、母君自身じゃろ。お前さんがどうこう気に病むことはないさ」
「そうなのですが、そもそも母は、なぜ全てを捨てなければいけなかったのでしょう。母の選択は、それほど罪深いものだったのでしょうか。あんな結末を迎えなければならないほどの罪を、母が犯したというのでしょうか」
「おや、それをわしに聞くかね?」
アインは、はっと我に帰る。
「すみません」
「何、謝るこっちゃないさ。……上手な呪いというのは、本人に返してやるしかないんじゃよ。下手っぴならどうとでもなるんじゃが。そういう意味じゃ、些か呪いの才がありすぎたのが母君の罪じゃな」
「そもそも人を呪ったのが、罪でしょう」
「ま、そりゃそうじゃな。だが、愛する息子を守りたかったがゆえの罪だったわけじゃし、他の誰が許さなくとも、お前さんだけは許してやらんとな」
「……はい」
ラジンは立ち上がり、アインの背をばしりと叩く。
「ほれ、出かけるぞ。いつまでもうじうじ引きこもってたってしょうがないじゃろ」
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