罪と誓い①

まどろみの底で、手を伸ばす。柔らかな毛布を求めるように。あるいは洪水の中、ぷかりと浮かぶ板切れを求めるように。

 彼女に差し出した手には、様々な想いが入り混じる。温かく甘い記憶と、冷たく悲しい記憶。

 もう決して届かぬと知りながら、メルは夢の淵で、幾度もその手を伸ばし続ける。

「……魔王様、おはようございます」

 彼女を夢から引き上げる、落ち着いた声。メルは声を遮るように、枕に顔を埋める。

「魔王様。お、は、よ、う、ご、ざ、い、ま、す」

 今度は寝ぼけた頭によく響く声。メルは不承不承、顔を上げる。

「……おはよ」

「はい、おはようございます」

 ぺこりと頭を下げると、サジャは一分の無駄もない動作でてきぱきと朝食の支度を始める。元からなんでもてきぱきとこなす子だったが、最近はさらに磨きがかかっている。

「サジャって、ここに来る前はしがない時計修理屋の娘だったんだよね?」

「しがないというか、はい、それほど繁盛していない時計修理屋の娘でした」

 サジャは、メルの角を手際良くかつ丁寧に磨きながら答える。

「どっかの屋敷の住み込みメイドとかじゃなくて?」

「そういった仕事はこちらに来てから始めました」

「じゃあなんで、そんなになんでもてきぱきとこなせるの?」

「てきぱきというほどでもありません。普通です」

「普通なんだ……」

 自分にはこんなに要領よく仕事をこなすことはとてもできそうにないが、あちらではこれが普通なのだろうか。

「お話してる暇はありませんよ。今日も朝から会談の予定があります」

「あ、そうだっけ? あー、もう嫌になってきた」

 聖祭の時期は各地の領主が王都へと訪れる。彼らとの挨拶やら種々の交渉やらも、この時期の大事な仕事なのである。

「で、今日はどこの誰とお話しなきゃなんないのかしら?」

「ベーリッジ副伯です」

「……うわ、最悪」

「苦手な方ですか」

「大嫌い」

 メルはしばしうだうだと理由をつけて寝室に留まっていたが、やがて諦めをつけると、最悪の客人が待つ水蛇の間へ可能な限りのろのろとした足取りで向かっていった。

 ノックもせずに扉を開けると、くつろいだ様子で椅子に腰かけているふたつ角の青年魔族と目が合った。青年は立ち上がると、優雅な所作で一礼する。

「ご無沙汰しておりました。かれこれ何年ぶりでしょうか」

「さあ? あんたと会った記憶なんて、次の日には綺麗さっぱり消去しちゃってるし」

「おや、でしたら以前お会いした際の出来事を洗いざらいお話いたしましょうか?」

 メルは青年の向かいの椅子にどかりと腰を下ろす。

「とっとと用件を話して、さっさとあたしの目の前から消え去りなさい」

「つれないね、幼馴染だろう?」

 くっくと笑う青年に、メルはべえ、と舌を突き出して見せる。

「あんたなんか、ただの昔からの知り合いよ。馴染でもなんでもないっての」

「悲しいなあ、小さい頃はあんなに懐いてくれたのに」

 ベーリッジ副伯トビアスは、メルにとっては叔父にあたる存在である。彼の父、すなわちメルの祖父は王国きっての大領主であるザヌド伯であり、彼もいずれは父の跡を継ぐことになる。

「で、何の用? 手短に、簡潔に述べなさい。王命よ」

「はい、それでは手短に。……近頃、メイドを変えたんだって?」

 予想外の問いかけに、メルの思考はしばし停止する。

「そうだけど、それが何?」

「前のやつはおっ死んだのかい?」

 反射的に手が出そうになるのを、必死で堪える。施政者たるもの牛のような忍耐が肝要だと、賢帝ガリアヌスも言い遺しているではないか。

「元気に城下町で暮らしてるわよ。若い子に道を譲ってもらったの」

「たった五十年足らずでかい? それにその若い子だって、五十年後にはよぼよぼになるわけだろう?」

「だったら、何よ」

 トビアスは脇に置いてあった筒から一枚の紙を取り出す。

「何よ、これ」

「君のメイド候補リストさ」

「メイド……候補?」

 聞こえてきた言葉の意味不明さに、メルは眩暈を覚える。

「いずれも申し分ない家柄の娘で、十人中三人はふたつ角だ。魔王に仕えるメイドとして、これ以上の人選はないと断言できるよ」

「あっそ」

 申し訳ありませんガリアヌス、と心の中で呟きながら、メルは目の前の紙をびりびりと引き裂く。

「用件はこれで終わり? なら、さっさとおじい様のところに帰んなさい」

 トビアスはやれやれと言いたげに肩をすくめると、依然として優雅な所作で席を立つ。

「傷つくね。心からの善意のつもりだったんだが」

「ありがとう、大きなお世話よ」

「そうかい? だが、おままごとはほどほどにね」

「……おままごと?」

「君が君の箱庭を好みのお人形で埋め尽くしたところで、世界は何も変わらないんだよ。君のそういう子どもっぽいところは嫌いじゃないが、そろそろ目を覚ましたほうがいい」

「帰って」

 ぴしゃりと、明確な拒絶を孕んだ声でメルは告げる。

「ああ、またいずれ。次は美味しいお茶でも飲みながら、ゆっくり語り合おう」

 水蛇の間を出るや、メルはどかどかと盛大な足音を立てて廊下を闊歩していく。

 ……まったく、朝から最悪の気分。あんなくだらない話を聞かされるくらいなら、紅茶片手にだらだらしながらサジャに小言を言われてるほうがずっと……。

 そんなことを考えているうちに、メルの足はぴたりと止まる。

 いつもの習慣で自分の部屋に向かおうとしていた。この時間ならサジャが部屋の掃除をしてくれているので、さぼりもとい息抜きにはぴったりなのである。

 ……何よ。まさか、あんなやつに言われたことなんて真に受けてんの?

 自嘲し、足を踏み出そうとするが、やはり前に進むことができない。

 ……馬鹿みたい。

 メルは暗い表情で、とぼとぼと廊下を引き返す。

 

 その日の午後、メルは紅茶に口をつけるふりをして欠伸を噛み殺しながら、眼前で交わされる議論に耳を傾けていた。

「ですからですね、道が整備されて帝国との交易が活性化すれば工事費や維持費はすぐに取り返せるという試算が出ておりまして……」

「それは商人の理屈であろうが。我々に、自分自身は使うあてもない街道を未来永劫整備し続けろと?」

 小柄で眼鏡面の獣人がひとつ理屈を述べれば、口髭を蓄えた魔族が鼻息荒く反論する。それがかれこれ小一時間ほど繰り返されている。

 南西部と比べて、南東部の街道整備は進んでいない。帝国北東部から王国南東部にまたがるダラ山脈は急峻であり、魔物も生息している。

 山の一部を切り開き、道を敷くことを切望しているのが、南東部の都市で構成される商業連合である。帝国と繋がる道が出来れば、南西部や海路へ迂回する必要がなくなる。帝国とも活発な交易を行なっている彼らが街道整備を望むのは当然のことである。

 一方街道整備に否定的なのが、同じく南東部に領地を持つダンタール伯である。魔族の住民が多いダンタール伯領は、あまり帝国との交流も活発ではない。彼らが街道整備に乗り気でないのも、また当然といえる。

 彼らはかねてからこの議論を続けてきたのだが、一向に埒が空かないので、この機に陛下のご意向を伺うことにしたそうである。

 ……さて、どうしたもんかしら。

 メル個人の意見としては、街道整備に賛成である。ダラ山脈を越えればすぐに、帝国有数の商業都市バーンメイに至る。街道が拓かれれば、さらに南北交易が活発になることだろう。

 その一方、街道を拓くための費用、維持費の問題が重くのしかかっているのも事実である。できることなら援助してやりたいが、残念ながら国庫にそんな余裕はない。それに、ダンタール伯が街道整備に乗り気でないのは何も資金面だけが理由ではないだろう。街道が拓かれれば、険しい山脈に守られていた彼の領地は帝国に対して無防備に開かれることになる。戦争を知る彼にしてみれば、やはりそれは簡単には受け入れ難いことなのだろう。 

「……そうおっしゃりますが伯よ、時代は変わり始めているのです。戦争はとうの昔に終わったのですから、いつまでも頑なに門を閉ざしているわけにもいかぬでしょう」

「ふん、商人ぶぜいがこの私に説教を垂れるか! 私はこの国を守る盾として、帝国人どもを幾度も打ち払ってきたのだぞ! 戦も知らずにのうのうと育ってきた獣どもに、どうこう言われる筋合いはないわ!」

「ちょ、ちょっとダンタール伯、その言い方は流石に……」

「どうやら伯の頭の中は、百年前で時が止まっているようですな! 敗戦が濃厚になっても、頑なに継戦に固執されていただけのことはある!」

「し、市長、あなたも落ち着いて……」

「陛下はどうお考えになりますか!」

 同時にふたりから問われ、メルはたじろぐ。

「我々魔族の長として、この無知蒙昧な獣人めの愚考を正して頂きたい!」

「自らの手で戦争を終わらせた陛下ならば、これ以上門戸を閉ざしていても得るものはないということがお分かりでしょう!」

「えーと、その……あたしも市長のおっしゃることには概ね賛成なんだけど、伯の懸念も理解はできて……」

 メルが煮え切らない言葉を洩らすうちに、ぎらついたふたりの目に冷たく乾いた色が宿る。

「陛下のお考えは理解できました。貴重なお時間を割いて頂き、感謝いたします」

 市長は慇懃な礼をして、ダンタール伯はふんと鼻を鳴らしてから軽く頭を下げて、メルの前から姿を消した。

 メルは椅子の上でずるずると頽れる。

「……何なのよ、もう」

 しばらくの間うじうじと、今しがたの会話を反芻する。

 ……ダンタール伯は典型的な、昔ながらの魔族よね。内心、これだから女王は駄目とか思ってそう……。

 所詮は前線に出たことのない、父王が亡くなるや否や終戦を決めた小娘だ。我々戦争を戦い抜いた真の魔族の心など、わかるわけがない。

「いや、真の魔族って何よ」

 自身の想像に自分で突っ込みを入れつつ、メルは首を振る。

「市長には、もう少し協力の姿勢を見せてあげたかったんだけど……」

 表面的には終始丁寧な態度だったが、去り際にぺこりと頭を下げたとき、彼はどんな表情をしていただろうか。諦観。あるいは、侮蔑。所詮、千年も不毛な戦を続けた魔族の末裔に過ぎない。敗色が濃厚になるまで武器を収めることができなかった者に、正常な思考などできるわけがない。

「だーっ! 被害妄想、やめやめ!」

 こうやってじっとしていると、嫌な気分が体中に巡っていってしまう。こういうときの気分転換は、あれに限る。

 メルは立ち上がると、どかどかと貴人にあるまじき乱雑な足音を立てて衣裳室へ向かった。

 衣裳室から出てきたとき、メルは異国の砂漠を行く旅人のような出立ちと化していた。角と長い髪を完全に隠す縁の広い帽子。目元を除いて顔をすっぽりと覆う布。

「これで良し、と」

 メルは廊下を忍び足で歩き、あまり用途のないものを入れておく部屋、すなわちガラクタ置き場の前で足を止める。

 埃を被った古い燭台や誰が着ていたのかも定かではない甲冑の間を掻い潜り、メルは部屋の最奥部で膝をつく。

 床のわずかなへこみを押すと、ガコリと音がして、地下へと続く隠し通路が現れる。

 隠し通路の側面に取り付けられた梯子にメルが手をかけた瞬間、背後で足音が響いた。

「どちらへお出かけですか」

「ちょっと城下町の酒場まで」

 メルは悪びれもせずに答える。実を言うと、尾けられていることには気づいていた。反応するのも面倒くさいし、どのみち少し話しておきたかったのでそのまま放っておいたが。

「会食はどうなさるおつもりです」

「病欠。今日の会食ってガルプ伯とニナでしょ。伯も私がいないほうが喜んでくれるって」

「そういう問題ではなくてですね……」

「あんただってしょっちゅう城下町の店に入り浸ってるじゃない」

「お言葉ですが、私は公務をほっぽりだして遊びに行ったりしません。それと、私が城下町に行くのは仕事の一環です」

「あたしだって遊びじゃなくて視察に行くのよ」

「酒場で飲んだくれるのが視察ですか。前後不覚になったあげく、正体がばれそうになったことも一度や二度ではなかったと思いますが」

「大丈夫大丈夫、いざとなったら有能な執事が上手いこと処理してくれるでしょ」

 軽い調子で言うと、有能な執事は深いため息を吐く。

「明日の晩餐会は間違っても欠席なさらぬよう」

「はいはい、そのための英気を今日養ってくるから」

 ダナモスはまだ何か言いたげだったが、メルは耳に蓋をするように素早く隠し通路の蓋を閉じると、滑るように梯子を降りていく。

「まったく、これから飲もうってときにあんたのお小言なんか聞いてらんないわよ」

 メルは魔術で生みだした炎を松明代わりにして、城壁の外へと続く細長い地下通路を意気揚々と進んでいく。本来は外敵に攻め込まれた際の緊急脱出路として設けられたものだが、近年はもっぱら魔王のお忍び外出のために利用されている。

 ……しかし、この通路ってよくよく見ると、もうあちこち傷だらけよね。少なくともあたしが生まれた頃からあるものだから仕方ないけど、そろそろ修繕すべきかしら。でも、時々あたしがこの通路を使ってることはばれたくないし……。

 目下、本来の用途で使用する予定のない通路の修繕計画を練るうちに、行き止まりに辿りつく。

 壁にかかった梯子を登り、天井の石を軽く押して持ち上げる。誰もいないことを確認してから、静かに外へ這い出る。

 辿りついた場所は、小さな教会の中庭に設けられた倉である。代々の司祭は、この隠し通路の秘密を聞かされている。しかしメルが常日頃からこの通路を利用していることは当然知らないので、絶対に見つからないよう、細心の注意を払って塀の外へ出る。

 ……あー、この解放感ったらないわ。

 大きく背伸びをして、夜の空気を吸いこむ。城の中とは違う、町の空気。雑多なものが生みだす猥雑で芳醇な香り。

 メルは調子外れな歌声を響かせながら、灯りの目立つ方向へと歩きだす。音程はだいぶ怪しいが、声そのものは天上の神が鳴らす笛の音のように清明に澄んでいる。

 ……大体さあ、あたしが治めてる町なのに、あたしが好き勝手に行けないってことがおかしいのよね。週に一回、魔王視察日を作ってやろうかしら。

 道端にたむろする若者たちが囃し立てるように口笛を吹いてくるので、軽やかに手を振り返す。

 ……頼んだら一杯や二杯奢ってくれそうだけど、流石に王が民に奢ってもらってちゃ駄目よね。

 ダナモスからも、民との接触は最低限にするようにと念を押されている。式典の際には公衆の面前に顔を出すし、いくら顔を隠しているとはいえ気づかれる可能性は皆無ではない。

 ……別に気づかれてもいいじゃんって思うんだけど、やっぱり駄目なのかしら。そりゃ、酔っ払ったあげくにぐーぐー寝てるとこを見られるのは不味いなあと思うけど。

 民の前に姿を見せる際は、なけなしの精神力を結集させて、美しく品行方正な女王を演じている。おかげで城下町での人気も上々なのだが、やはり虚像を掲げているような気分は拭えない。

 ……やっぱり皆、王様には世界で一番立派な人であって欲しいのかしら。

 内心のもやもやを吹き飛ばすように、メルはいっそう調子外れに声を張り上げる。


 半刻後、メルはすでにへべれけになっていた。

 行きつけの店―酒の種類が豊富で、料理も美味しい。店主があれこれとこちらの素性を詮索してこないのもありがたいし、煩すぎず静かすぎない店内環境も気に入っている。唯一気に食わないのが、ダナモスに勧められた店という点だ―で、飲みたい酒を飲みたい順番で飲んでいるうちに、あっという間に出来上がっていた。

 半ば朦朧としつつ、メルは口元をだらしなく弛緩させていた。酒なら城でも好きなだけ飲めるが、酒場で飲むのとは、やはり何かが違う。ほどよい喧騒の中に身を置き、決して上品ではない味わいの酒を飲んでいると、日々の苦労が報われたような心地になるのである。

 ……ああ、もうこのまま時が止まってしまえばいいのに。

 魔王の責務も何もかもほっぽりだして、このまま世界の終わりまで飲んだくれていたい。

 そんな自堕落な妄想に水を差すように、低い声が耳を打つ。

「しかし、ダラ山脈に街道を拓く話は遅々として進まんね」

 弾かれたように振り返ると、丸テーブルを囲んで三人の獣人が座っていた。職人よりは華美だが、貴族ほど装飾過多ではない身なりからすると、三人とも交易商だろう。

「最初に話が持ちあがったのはいつだっけ?」

「もう、かれこれ十年以上は経つんじゃないかね。上手いこと進んでいれば、そろそろ工事も大詰めに差しかかってたかもな」

「あの話もダンタールのじじいが生きてる限りは絵空事だろうよ」

「奴さんが死ぬより、俺らが死ぬほうが先かもしれんがね」

「……」

 この時間は仕事を忘れたいのだが、耳は自然と会話に引き寄せられてしまう。

「そういや、お前んとこのお偉いさんが陛下に直談判しにいったって聞いたけど本当かい?」

「ああ。だけど結果は芳しくなかったらしい」

「ダンタールのじじいも一緒だったんだろ? それじゃあ通る話も通らんよ」

「うーん、それがどうも陛下ご自身もあまり乗り気ではなかったそうなんだな」

「そうなのかい? 陛下はどっちかというと推進派の立場って聞いてたんだが」

「だが、今日も終始どっちつかずな態度だったというし、帝国との交流を推進したいというのも結局は口先だけなのかもなあ」

「なるほどなあ……美人で愛想は良いって評判だけど、裏を返せばそうやってあっちこっちにおべっか使うぐらいしかできないってことかね」

「帝国に対しても、あんまり強く出られないって言うし……ほら、聞いたかい? 聖祭の使節の件」

「ああ、アン……なんとかっていう第三皇女が来るんだろ。今まで名前も聞いたことなかったが」

「母親が卑しい生まれで、宮廷でもぞんざいな扱いを受けてる姫らしい。うちの国によこすなら、そんなお嬢ちゃんで十分ってことだわな」

「なめられてんだなあ。文句のひとつも言ってやりゃあいいのに」

「言えんのだろ、今の陛下じゃ」

「そうさな。……ひょっとしたら先代の御世のほうが、今と比べりゃなんぼかマシだったのかもな」

 すっかり酔いが醒めてしまい、そろそろと腰を持ち上げかけていたメルは、その一言でぴたりと動きを止める。

「流石にそりゃないだろ。先代は不毛な戦争を延々続けていた暗愚だぞ?」

「そうかもしれんが、少なくとも帝国に対抗する姿勢は持っていたわけだろ。闇雲に喧嘩を売るんじゃどうしようもないが、周りが上手いこと宥めて和平まで漕ぎ着けさせられたなら……」

 できるわけないじゃない、と叫んでしまいたかった。あたしたちだってそういう結末を望んでいた。―それができれば、あんな結末を迎えることはなかった。

「だが、先代はえらく頑なに継戦を主張していたって話だろう? 臣下にどうこう言われたところで聞き入れたかね」

「戦争末期でも王都には攻め込まれてなかったんだろ?」

「すんでのところで和平が成立したらしいな」

「いくらなんでもお膝元まで攻め込まれれば、考えを改めるだろ。そういう意味じゃ王妃殿下がはやりすぎたんだよな。あと少し我慢してくれりゃあよ……」

 メルは、がたりと音を立てて席を立つ。たとえ愛すべき民であっても、流石に今の発言は看過できない。

 しかしメルが口を開くより先に、いつも寡黙な店主が口を開いた。

「先王は、誰が何と言おうと戦争をやめなかったと思いますよ」

 メルも三人の商人たちも、店主に視線を注ぐ。痩せたひとつ角の店主は、柔和な笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「王都が攻め込まれたって関係なかったでしょうね。彼自身が、自分の都を崩壊寸前まで追い込んでいたんですから」

「……そうなのかい?」

「私は先代の時代からこの辺りに住んでいますが、当時の荒れようといったら、そりゃあ酷いもんでしたよ。有名な歌にも歌われてるんですが、ご存知ないですか?」

 商人たちは互いに顔を見合わせる。

「私も最後に聞いたのはだいぶ昔なんですが、さてどういう歌いだしだったかな……」

「……夜の通りに人はなく」

 か細い歌声に、商人たちは振り向く。その視線を気恥ずかしく思いながら、メルは続ける。

「あるのは、子らの啜り泣き。父は帰らず、母も今や物言わぬ屍。魔王の都に、光は差さぬ……」

 メルがこほんと咳払いをすると、店主は拍手を送る。

「素晴らしい。お仕事は吟遊詩人か、はたまた歌劇役者でしょうか」

「い、いえ、ほんの素人芸でして……お耳を汚してしまってすみません」

「とんでもない。セイレーンもかくやという歌声でしたよ。もし良ければどうでしょう、このまま最後まで歌って頂くというのは」

「ええ⁉︎ そんな、とても人にお聴かせするような代物では……」

 メルはぶんぶんと腕を振るが、店主は構わず店の隅から弦楽器を引っ張り出してくる。

「私も下手の横好きですが多少は心得がありますので、僭越ながら伴奏を務めさせて頂ければと」

「え、えーと……」

 逃げ場を探すようにきょろきょろと周囲を見回すと、商人たちと目が合った。三人とも成り行きに当惑しつつも、幾ばくかの好奇心を掻き立てられている様子である。少なくともメルに対して向けられた視線に否定的な色はない。

「……わかりました」

 こうなったら乗りかかった船だ。なんだかよくわからない流れだが、ひとつ歌ってやろうではないか。

 大きく深呼吸をして、呼吸を整える。店主の抱えた楽器から、物悲しい音色が流れだす。その音色の間を泳ぐように、メルは静かに歌いだす。

「魔王の城に影が揺らめく、床は生贄の血で染まる……」

 陰鬱な旋律と詞に身を委ねるうちに、メルの心は遠い日々へと旅立っていく。

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