第3話 来訪者たち
執務室の空気は、重く静謐だった。
分厚い絨毯、観葉植物、深紅のカーテン。
どれも完璧に整っており、日差しすら計算されたように斜めに差し込んでいる。
リューはデスクに深く腰を沈めていた。
デジタル時計の表示は午前10時を指している。
日課のブリーフィングを終え、数分の間だけ静寂が訪れていた。
コン、とノック音が鳴る。
「お入りなさい」
ドアが開かれ、商務長官が姿を現す。
リューは椅子から微動だにせず、ただ視線だけを向けた。
「閣下、隣国ペリメニ連邦共和国からの非公式な打診について報告いたします」
淡々とした口調で長官は話し始める。
ペリメニは現在、ボルシチ共和国への軍事侵攻を背景に、経済的孤立を深めていた。
他国からの経済制裁を受ける中で、ミエンに貿易拡大を求めてきたのだ。
「我が国は中立を宣言していますが、同じ敵対国も持つもの同士、裏では支援を、というわけですか……」
リューは短く呟いた後、目を細めて長官に言った。
「それでは──公的には断るようにしてください。ただし、公営企業を通じて輸入量の増加を。……あくまで、さりげなくです。ご理解いただけますね?」
「はっ。了解しました」
長官が深々と頭を下げ、退出する。
ドアが閉まり、再び部屋は静寂に包まれた。
──だが次の瞬間、小さなノック音が再び鳴った。
リューは眉を寄せた。
先ほどの報告からまだ数分も経っていない。
「……どうぞ」
扉が少しだけ開かれ、次に現れたのは──幼い少女だった。
「おじい様!」
声とともに、幼稚園児ほどの孫娘が、小さなぬいぐるみを抱きしめて勢いよく駆け込んでくる。
リューの厳めしい表情が、一瞬にして崩れた。
「こらこら、仕事中ですよ……」
言いながらも、その口元には明らかに緩んだ笑みが浮かんでいる。
少女はデスクの前に立ち、両腕でぎゅっとぬいぐるみを持ち上げた。
「見て、おじい様! プーアさんだよ! 優しくて、ふわふわしてて、おじい様に似てるから大好きなの!」
リューの目に、ぬいぐるみの姿が映った。
青いTシャツを着た、あの虎。
笑っているような細い目。
白い首回りの毛。
どこか、とぼけたような表情──まさしく、“プーア”だった。
「……ほう。似ている、ね….」
孫の純粋な目に見つめられながら、リューは曖昧に笑った。
その笑顔は、どこか乾いていた。
その時、後ろから慌ただしく扉が開く。
入ってきたのは、官僚であり、リューの娘の夫──孫の父親である娘婿だった。
「申し訳ありません、閣下! こちらの手違いで……」
彼女は深く頭を下げ、娘の手をそっと取る。
孫娘はやや不満そうに唇を尖らせた。
「おじい様、また来てもいい?」
リューは微笑を返した。
「ああ、もちろんですよ。……だが、今度はこっそりではなく、きちんと予定を入れてくるんですよ」
「うんっ!」
ぱあっと笑顔を浮かべた孫娘は、ぬいぐるみを抱えたまま父とともに退室していった。
その背を見送りながら、リューは静かに、椅子に背を預ける。
──そして、次に入ってきたのは外務長官だった。
彼の手には厚みのある資料ファイル。
ミエンが大海に進出するに当たって障害となっているフラワーの同盟国トーワ帝国に対する宣伝工作の最新の進捗報告である。
報告を聞きながら、ふと先ほどの孫の様子を思い出していた。
内心で、苛立ちが膨らんでいく。
──自分の顔に似た虎が、国中に愛されている。
──そして、自分の孫までもが、それを「大好き」と言う。
……制御されているはずの“民意”が、なぜこんなにもノイズを孕んでいるのか。
リューは、外務長官の報告を聞きながら、心の奥底で何かが静かに崩れ始めているのではないかという、かすかな不安を感じていた。
それはまだ、かすかなひび割れにすぎなかった。
だが、そこから何が流れ出すかを知る者は、この時点ではまだ誰もいなかった──本人すらも。
一通り外務長官の話を聞いたリューは、引き続きトーワとフラワーの離間を図るため、ネット空間、政治家への女性工作員を使ったハニートラップなどの工作を強化するよう指示した。
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