2. お兄さまの憂鬱
***
若き皇帝に両親はいない。ついでに言えば兄弟もない。
5つ下の、まだ成人前の妻がひとりいるきりで、皇妃や愛妾も置いていない。臣下連中から娘やら孫やらなんやらの売り込みが後を絶たないが、
『くどい、しつこい、やかましい。自ら黙れぬようなら、いっそ私がその舌を切り落としてやろうか?』
とのひと言でその場を黙らせられるくらいには、血気盛んな君主でもあった。
皇帝ルシアンは、亡き先帝が残したひと粒種である。
高齢出産の上に難産も重なり、前皇后は我が子をその目で見ることなく儚くなった。そして先帝も、そこから10年も経たずに崩御した。
なので皇帝は母を知らず、忙しかった父帝との思い出も僅かである。たまに抱き上げてもらったときのその腕の頼もしさと、低く響く優しい声は覚えているが、顔のほうは実際に見上げた記憶より、見つめた肖像画の印象の方がすっかり強くなってしまった。
主に皇帝を育てたのは、先帝亡きあと孫を守るべく摂政として舞い戻った先先帝、つまりは皇帝の祖父であった。
先先帝は老いてこそいたが、年齢を感じさせぬ勇猛な豪傑であった。
2メートルを越えるお気に入りの長槍を振り回し、迫りくる敵をひと息に何人も薙ぎ払えただとか、落としたトップの首はその槍に刺して持ち帰っただとか、歴代の皇帝に負けず劣らず血気盛んな逸話の多い御仁である。
荒くれた逸話に反し、彼は生まれた孫皇子を心から愛した。猫可愛がりしていたと言っていい。されどその甘やかし方は一般のそれとは違う。
誰にも折られぬ強きお国の御旗とするため、あらゆる武術と判断力を幼い心身に叩きこんだのである。
血を分けた兄弟との争いの果てに、生き残るには玉座を得るしかないと悟り必死に戦った先先帝にとって、その舞台となった皇宮はけっして愉快な場所ではなかった。その座を早くに先帝へと譲り渡し、有事の際にしか戻ってこなかったことからも明らかであろう。
先先帝にとって、自己防衛を学ばせることこそが、幼い孫にしてやれるなによりの愛であったのだ。
皇帝ルシアンの持つ祖父との思い出は、自分より大きな敵を前にした際に気を付けることだとか、多勢に無勢の場合での立ち回りの仕方だとか、主に己が生き残るための実践訓練が大半を占めた。
おかげで、絵画のような麗しい見目にも関わらず特には侮られることのない半生を送れており、(私が壮健であるのは、先先帝の偉大さのおかげであろうな)と皇帝はつくづく思っている。
およそ19年前、ルシアン皇子生誕の速報は、全皇民の母たる皇后の訃報と共に発表された。
国母の急逝という思わぬ悲しみの中、ようやく生まれた跡継ぎは実は女児だったのだが、当時混乱していた政局のさらなる混迷を防ぐため、先帝はその事実を隠匿した。相応しい跡継ぎを見つけ養子とするまで、娘を男子として育てることとしたのである。
先帝は我が子の地位を磐石とするため、齢ひと桁のうちに有力家門の娘との婚約を取り付けてきた。相応しい後継者を見つけしだい婚約破棄させればよい、という目論見であったようだ。だが、それから10年も経たずに先帝本人も帰らぬ人となってしまった。
玉座を狙うもうひとりの息子を牽制し、そしてなにより亡き息子夫婦が残した幼い孫を守るため、摂政として皇宮に戻った先先帝はこの問題に頭を悩ませた。
されどいま養子をとれば、それこそ幼い皇女の命が危ぶまれる、とそのまま問題を先送りしてしまったのだ。
かくして齢8歳の幼い皇女は、男子と偽ったまま皇帝として立つことになったのである。
皇帝になるにあたり、後ろ盾は必須であった。幼ければなおさらだ。手っ取り早く結婚を急がせることとなり、皇女は性別を偽ったまま、婚約していた有力家門の娘子を皇后として迎えた。
幸運なことに、女ではあったものの皇女は皇帝に相応しい資質を持って生まれていた。
その成長は著しく、狩りをさせればクマをも倒し、馬に乗り弓をつがえれば行く鳥の目をも穿つ驚異的な実力あった。刺客を何人送られても、先帝から受け継いだ愛刀を抜き放ち、迫りくる敵をすべからく返り討ちにできたのである。
性格の豪胆さも相まって、皇帝ルシアンの性別を疑う者などいなかった。皇帝はこの世のどの男よりも男らしい人間に育っていったのである。
少々短気なところがたまに疵だが、容姿がよければ権力もあり、頭もキレれば倒せぬ敵もいないほど実力がある。
皇帝ルシアンはその事実に見合った、天にも届かんばかりの高い高い自尊心を持ち、(この私になせぬことなどない)と半ば本気で思って生きてきた。
つい最近、己の気持ちを自覚するまでは。
対面の席で、皇后が気づかわしげに皇帝を見つめた。ふたりきりの静かな晩餐で、カトラリーを置くその音が小さく響いた。
「――昨夜、陛下の宮に賊が入ったと聞き及びました。お怪我などございませんでしたか……?」
皇后リュシーは食が細かった。まだ料理がいくつも残っていたが、彼女は早々にナプキンで口を拭った。
まだ15にもなっていないのに、もっと食べるべきなのに、と皇帝はその細い手を見つめた。
彼女は、身長が止まらないのを気にしているのである。皇帝の背があまり高くないため(女人であることを加味すればけっして小さくはないのだが)、皇帝より大きくなってしまうのではないかとずいぶん心を痛めている、と陰で報告を受けていた。
心配と不安の入り混じった皇后の表情を見て、皇帝は溜め息を飲み込んだ。いつも通りの、勝ち気な笑顔をつくって見せた。
「この通り大事ないぞ? この私が怪我なぞするものか」
胸を叩いた頼もしい皇帝の姿を見て、皇后はようやくほっとした顔を見せた。この皇后は安心すると、花が綻ぶような優しい顔をする。
「本当になによりでございます、安心いたしました。夜のうちに耳にしておりましたら、ご様子を伺いにまいりましたのに……」
誰も教えてくれなかったのだ、と視線を落とした。
「気に病むことはない、誰も私には勝てぬゆえ。今回も大した相手ではなかったから、そなたにもわざわざ伝えなかったのであろう」
いけしゃあしゃあと述べるその後ろで、皇帝の侍従リアムは軽く咳払いをした。
『こんな夜更けに皇后を起こすな、余計なことを言うなあの子の心労がかさむではないか』と、周りにキツく言いつけたのは皇帝本人である。
15で成人とされるこの国で、皇后はまだ未成年である。『怖がらせたら可哀相ではないか、あの子は体も強くないのに』という、粗野な皇帝にしては珍しく繊細な気遣いを発揮した結果であった。
皇帝がそんな気を回してやるのは、皇后だけである。ルシアンにとって皇后は、幼い印象のままの、小さくか弱い守るべき少女であったのだ。
それもそのはず、ふたりが婚約をしたとき、皇后はまだ生まれたばかりであったのだから。
皇后がまだ母親の腹の中にいるときに、先帝が我が子の権力の足掛かりのために、当時家門の当主であった彼女の祖父と縁談話をまとめてきたのである。
つまり彼女は、生まれ落ちたその瞬間からルシアンの婚約者だったのだ。
彼女が入宮したのは、ふたりが成婚したわずか3歳の頃で、5つ違いの皇帝と皇后は仲のよい兄妹のように育った。実際、ふたりには本物の兄妹と間違われても仕方のないほどの共通点があった。
髪の色も瞳の色も同じで、長い髪はその毛質までよく似ていた。そして、なによりふたりとも種類は違うものの見目がとても良かったのである。
先先帝はルシアンとリュシーを分け隔てなく愛し、親と引き離された幼い彼女はよく懐いた。記憶は朧だが、先帝も同じようにふたりを可愛がってくれたという話は、乳母からよく聞かされた。
先先帝が儚くなるまで、そして皇帝ルシアンと宮でふたりになってしまうまでの2年間、彼女は先先帝を『おじいさま』、ルシアンを『お兄さま』と呼び慕った。
先先帝が亡くなったときなどは、実の親が死んだのかというくらい泣き、涙と鼻水で顔をビチョビチョにしながら、
『おじいさまの分まで、私がお兄さまをお守りします……!』
と亡骸に誓いまで立てていた。
皇帝ルシアンは彼女の『お兄さま』として、来たるべき別れの日が訪れるその瞬間まで、あらゆる災いからきっと守ってやろうと心に誓ったのだ。
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