月よりも清く
綾瀬 柊
1.太陽よりも正しい人
***
歴史書にもその逸話が綴られるほど、愛妻家として名を馳せた皇帝がいる。
最愛の皇后を亡くしたとき、かの皇帝はこう述べたという。
――我が皇后は月よりも清く、太陽よりも正しい人であった。
これは皇帝がまだ幼いときに儚くなったその父帝が、まだ皇子であった頃の彼に述べたという、『月よりも清く、太陽よりも正しい人間になりなさい』から来る言葉だと言われている。
つまり皇帝は、愛する妻に自らが目指すべき姿を見ていた、という最大の敬意と賛辞の言葉を贈ったわけだ。
雄弁でも有名だった皇帝だが、皇后の死にその一言しか言わなかった。というより、涙涙でそれしか言えなかったのではないか、との解釈も歴史教本によっては存在する。
だからこそ、皇帝が皇后をどれほど愛し、その永遠の不在をどれほど哀しんでいたかが伺いしれる一言でもあった。
そんな皇帝は、皇民も知る歴史上一番の愛妻家であり、そして数えきれないほどの蛮勇とも云える武勇伝を持つ、その破天荒さでもよく知られていた。
***
血飛沫が皇帝の寝着を斑に汚した。
何年も前に成人を過ぎたわりに、絵画の人物ような線の細い面差しをした皇帝であったが、その実、中身は鬼神がごとき強さである。
皇帝ルシアンはどこまでも冷静な顔ですでに死体となった刺客たちを見下ろし、顔にかかった返り血を袖で拭うと、死んだ彼らの服で血に塗れた剣を綺麗に拭い、鞘に納め大きな欠伸をひとつした。
惨状と化した部屋にさえ目を向けなければ、宵っ張りの男が眠りにつく前の、のどかにまどろむ光景に映ったに違いない。
いくつもの死体もそのままに、皇帝はようやくベッドへと腰を下ろした。溜め息を吐きつ枕元の寝酒のワインボトルに手を伸ばす。その隣に置いていた気に入りのグラスは先ほどの騒動でどれもすっかり割れており、皇帝は舌打ちをしてそのままボトルに口を付け、中身を煽った。
飲み干すなり天井へ投げつけると大袈裟な音を立てて割れ、がたりと物音が聞こえ皇帝は高笑いした。
「――意気地なしめ、刺客の分際で死を恐れるか!
帰って主人に伝えよ! 何人来ようがこの皇帝の敵ではない、次に死ぬのはそなただとな!」
天井にあった気配はすぐに消え、皇帝は掛け布団に染み込んだ血を避けて斜めに寝転がった。
バタバタと遠方から走りくる音がし、派手な音を立ててドアが開け放たれた。皇帝はまた大袈裟に溜め息をついた。
「入る前に声くらい掛けられんのか? 皇帝の寝室だぞ」
「そのようなことを気にしておられる場合ですか! ご無事ですか陛下!」
「見ればわかろう、無事だ無事」
ほれ見ろ傷ひとつない、と寝転がったままストレッチまでしてみせた。
「しかしそなたらは来るのが遅すぎる。あまりにも遅いから自分で始末してしまったではないか。そなたらの給金は、いっそ私がもらうべきだと思わんか」
「まさかまた全員殺してしまわれたのですか」
困りますよと言われ、ならば早く来ることだ、と器用に血を避けながら皇帝は不機嫌に寝返りを打った。
「たまたま今回はひとり生かした。脅し文句と共に主犯のもとへ帰るよう申し付けたし、腕を少し斬っておいたから道中でいくらか血も落ちているかもしらんな」
「流石でございます」
「世辞はよい。なぜ護衛連中が私より弱いのだ、話にならんわ」
お言葉ですが陛下より腕の立つ者などそうそうおりませんよ……と呆れた声で言われ、皇帝はそっぽを向き起き上がった。
「絨毯も布団も汚れたから替えろ。だが民の血税で買ったものだ、血さえ落ちれば私は気にせず使うゆえ、安易に捨てぬよう言うておけ」
「かしこまりました」
恭しく下げられた頭を、皇帝は忌々しい気持ちで見つめた。
「……ときに、」
「はい、なんでございましょう」
素知らぬ顔をするのを見て、今度こそじっとりと睨みつけた。侍従は茶目っ気たっぷりに肩を竦めた。なにを問われるのか、もうわかっていた。
「……。皇后は無事であろうな」
侍従は微笑んで頷いた。
「はい。お指図通り真っ先にお守りしておりますので、どうぞご安心を。賊が入ったのも陛下の宮のみにございます。皇后陛下はおそらく夢の中かと」
「ならばよい」
なぜこちらから訊く前にそう言わんのだ、と皇帝は心底気を悪くしたが、口に出すのも癪だったので口を結んだ。
これ以上話すことはないとばかりに、寝着のままバルコニーへと歩み出た。置いてあった枕元の面隠しの布を片手に、侍従は小さく声を張った。
「陛下! お顔は隠していただきませんと!」
「阿呆め。こんな闇夜に誰が顔を見ると言うのだ」
仮に見られたとしても、侍従と皇后にしか面の割れていない皇帝を皇帝本人と気づく者はいないだろう。浮世離れした美しさに、悪魔か幽霊かなにかを見たと勘違いするに違いない。
ふと眩すぎるほどの月が、雲の隙間を射貫くようにして、一筋の光を落とし地上を照らした。
それを見つめる皇帝の横顔は、寝不足であるからかどこか物憂げで、
(黙ってさえいれば、誰もこの方を血生臭い逸話のある皇帝陛下だなんて思うまい)
と侍従は思った。
常世の闇を晴らすかのように照らす月を見て、ふいに皇帝は身震いをひとつすると、地を割るような盛大なクシャミが皇宮にこだました。
皇帝ルシアンが後に半生を振り返り、人生が変わったと語る20を迎える年のことである。
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