第九話 過去を映す水鏡

 冬休み目前の日曜日。

 瑠佳と黒井戸は、舟森陽介の家をたずねた。


「じいちゃんが来るまで、和室で待とう」

 お茶とカステラが出された。瑠佳は緊張して食べられなかったし、黒井戸も手を付けなかった。舟森だけが完食した。

 しばらくして、背中を曲げた老人が現れた。


「ウロを倒したいというのは、あなただな」

 舟森陽介の祖父、『墓守』は瑠佳を見据えて言った。

「諦めなさい。そんなことはできない」

 言い切った。

「ウロを調伏する方法は一つしかない。災いは伝播する。だから、諦めなさい」

 座布団に座ることもなく、老人は和室を去っていった。


 三人は沈黙する。


「じいちゃん、なんか虫の居所が悪いみたいだ。また今度聞くわ」

「何度聞いても同じだと思うぞ」

 舟森の言葉に黒井戸がため息をつく。



「ウロを倒す聖剣はないわけだ」

「でも聴いたと思うんだけどな。いつものじいちゃんならニコニコして教えてくれるはずだぜ」


 舟森が食い下がる。それは孫が可愛いからだろう。と、瑠佳はツッコみそうになった。

「記憶違いってことない?」

 うーん、と舟森が腕を組む。

 ぐるぐると首を前後左右に傾げて、しばらく思案したあと、顔を上げた。


「これはもう、花子さんに聞こう」


 瑠佳は目を丸くする。

「花子さんって、トイレの花子さんでいいの?」


「日本の各地学校に類型話がある。トイレの個室に呼び掛けると、少女の霊が出て来て異界へ連れていかれたり殺されたりとバリエーションがあるな」

 黒井戸が説明した。


「そうなの」

 物騒な霊だ。瑠佳は首を傾げる。

「そんな物騒な花子さんに話を聞くって、どういうこと」


「烏鷺山高校の花子さんは過去を見せるそうだ」

「過去」

「花子さんに会うことができると、その人間の一番つらい過去を見せる。見せられた人間は過去を悔やみながら自死する」

 瑠佳は瞬きをする。

 舟森は、なぜか自慢げで腰に手を当てる。


「それ、危険じゃない?」

「今まで危険じゃない怪異が居たか」


 黒井戸は眼鏡を上げる。



 花子さんは女子トイレに出るので、黒井戸と舟森は連れて行けない。ただ舟森の過去を見るために、彼の髪の毛を入れた依り代を作って持っていった。

 瑠佳はみおりと犬神を連れて三階の女子トイレへ来た。


「懐かしいね、花子さんを呼ぶなんて小学生以来かな」

 みおりは笑っている。


「あの、手を握っていてくださいますか」

 犬神は瑠佳の腕にくっついて離れない。


 女子トイレに入ると、右手に洗面台が、左手に個室が並んでいる。なんの変哲もない学校のトイレだがなぜかこの階だけうす暗い。

 奥から三番目の個室をノックする。


「は、花子さーん」

 瑠佳は声を出す。


「みおり」

「ええ、やだな」

「犬神さんも」

「怖いですわ……」

 協力が得られない。


「花子さん」


 瑠佳はもう一度、三番目の個室をノックした。

 電灯がちらつく。




「はあい」





 瑠佳は小学生の自分になっていた。

 階段の踊り場には正方形の姿見がある。

 ごく普通の鏡で、隅に落書きがされた跡が残っている。傷をつけながらマジックインキで書いた絵は、当時の人間にとっては永遠に残すべき世紀の芸術だったのだろうが、今となっては取り立てて意識もされない。


 叫び声が聴こえる。

 笑い声が聴こえる。


「きゃはは」

「あはは、ははは」


 女子の集団が階段の麓を駆け抜けていく。彼女たちが追っているものを瑠佳は知っている。


「るか、おいで」


 女子の一人が手招いた。瑠佳は、階段から降りられずにいる。


 叫び声が聴こえる。


「なあに、るか。来ないの」


 冷たい視線に変わっていく。

 瑠佳はそれが恐ろしくて、階段を降りた。

 降りてしまった。

 彼女に手を引かれ、瑠佳は廊下を駆ける。笑い声、集団意識、狂乱の渦、そうしたものに巻き込まれている。


 叫び声が聴こえる。


 先頭を走っているのは泣き叫ぶ少女だった。彼女は特別学級に属していた。脳に障害がある彼女は自分に起きていることが、追われている状況が理解できず、恐怖で泣き叫んでいる。


「ねーえ、遊ぼうよ」

「遊んでるだけだよ」

「なんで泣いてるの、うれしいの」


 追いかける少女たちは口々に、無邪気な言葉を発する。それが相手を傷つけてるとも思っていない。無意識に満たされる被虐嗜好に身をゆだねている。

 瑠佳は走る。瑠佳は走る。置いて行かれないように。

 仲間外れにされないように。





「うわあっ!」

 瑠佳は背中を固い洗面台に打ち付けた。

「大丈夫ですか!」

 犬神が瑠佳の手を取る。

 気付けば瑠佳は女子トイレの床にしゃがんでいた。空気が薄く感じる。絶望感に息が切れていて、まだ耳の奥に泣き叫ぶ声が響いている気がする。


「い、今の」


 もう一つの現実。花子さんが見せる、過去。


「なにかあったんですの?」


 犬神には瑠佳が見た光景も、花子さんの返事も聴こえなかったようだ。

 ただ、みおりは。


「ふうん、そういうこと……」


 みおりには、全てが見えていた。


「ちが、違くて」

「わかってる。主犯じゃないんでしょ」

「そういう意味じゃなくて」

 みおりは瑠佳を見下ろして嘲笑う。

「後悔してるだけ?」


 瑠佳は、キッ、とみおりを睨んで立ち上がった。


「もう一度、花子さんを呼ぶ」

「そんな、やめておいたほうがいいですわ」

「舟森の過去を見て、ウロを倒すなにかを知らないといけない」


 個室のドアに近付く瑠佳を、みおりは微笑みながら見つめている。


「馬鹿にしないで」

 瑠佳はみおりに言った。

 彼女は微笑むのをやめて、頭の上で腕を組んだ。


「花子さん」


 舟森の依り代を持った手でノックした。





「は、あい」





 瑠佳は四人掛けのダイニングテーブルを前にして座っていた。

 カレーのいい匂いがする。


「みおりー、沢馬迎えに行ってきて」


 女性の声がした。その時になって瑠佳は、自分がみおりになっていることに気付いた。

 みおりは、自分の名前が気に入らなかった。音がかわいいから、なんて理由で付けられたなら誰でもそうなると思う。

 その時も自分の名前を呼ばれて、不機嫌に答えた。


「ええー、自分で行きなよ」

「手が離せないのよ」


 女性は、みおりの母親はカレーの鍋を混ぜている。

 やれやれ、みおりであり瑠佳である自分が行かなければ。だってお姉ちゃんだもの。そう思って、椅子から降りる。


 みおり/瑠佳はダイニングを出て、玄関でサンダルを履いた。重い扉を開けて沢馬のいる場所へ向かう。学校帰りの彼がいる場所はいつもゲームセンターかコンビニ。最近、ガラの悪い連中とつるんでいる。

 みおり/瑠佳は近くのゲームセンターを覗いた。煙草臭いばかりで沢馬は見つからなかった。

 コンビニへ向かおうとした時、河川敷の方からエンジンをふかす音が聞こえた。

 三叉路の横断歩道を渡って、堤防を越える。


「沢馬」


 みおり/瑠佳は彼を見つけた。

 河川敷の広場で、仲間に囲まれて原付に跨っている沢馬を見つけた。


「沢馬。今日カレーだよ」


 みおり/瑠佳は言った。

 沢馬はうっとおしそうに、どこか恥ずかしそうに振り返った。


「今いいところなんだよ」

「いいところって何。全然そうは見えないけど」

「曲乗り見せてやるんだ。姉ちゃんも見てろよ」


 あんた原付免許なんか持ってないじゃん。言おうとしたけど、みおり/瑠佳は声が出なかった。

 無免許だから公道には出ないだろうと思っていた。そこまで馬鹿だなんて思わなかった。

 お姉ちゃんが見ていなかったから。

 やめろ。

 沢馬を囲んでいる仲間の一人が、口笛を吹いた。


「お前の姉ちゃん美人だな」


 みおり/瑠佳は腹が立って踵を返した。


「早く帰って来なよ」


 言い捨てて、堤防から降りた。元来た道を帰る。

 お姉ちゃんだからって、我慢の限界はある。

 お姉ちゃんが見ていなかったから。

 お姉ちゃんが、あの日強引にでも連れて行っていれば。

 三叉路の信号が赤になっていて、待っている間、伸びて来た髪の毛をいじった。

 やめろ。

 私の後悔を掘り返すな。


「みおり……?」


 瑠佳は横断歩道の前で呟く。

 目の前を自動車が通り過ぎる。


 風景が変わっていた。瑠佳は和室の畳の上に立っていた。

 中央に老人が座っている。腹を両腕で抑えている。


「じいちゃん」


 瑠佳は自分が舟森陽介になっていることに気付いた。


「じいちゃん、なんでこんなことしたんだよ」


 老人は白装束を着ていた。正座したその足元から、血がにじんでいく。




「わあっ!」

 瑠佳は後頭部を打った。両手で抱えてしゃがみこむ。鼻の奥で血の匂いがする。

 しかし、痛みよりも優先することが頭の中を駆け巡った。

「舟森、舟森に連絡」

「おちついてくださいまし」

 犬神がハンカチを差し出す。


「瑠佳さん、血が」

 後頭部を抑えていた手を見る。赤い血が付いていた。鼻の奥がツンと痛む。


「嘘」

「保健室へ行きましょう。焦らないで」

「うん。行こうか、みおりも……」


 そう言ってから、瑠佳と犬神は女子トイレの中を見渡す。


「みおり?」


 みおりの姿はどこにもなかった。




 瑠佳は外傷を手当てしたあと、手足のしびれがないか、呂律が回っているかといろいろ問診され、問題ないということになったのでベッドに寝かされた。

 犬神に看病して貰っていると、黒井戸が無遠慮にカーテンを開けてきた。


「舟森は早退した。祖父が死んだそうだ」

「お腹、切ったんでしょ」

 瑠佳は言った。

「なぜ知ってる」

 黒井戸の目が珍しく丸くなった。


「花子さんに見せられたんだ。そうか、つらい記憶が上書きされちゃったんだ」

 瑠佳は説明した。

「そもそもつらい記憶だったかもわからないしな。伝説の聖剣の話が」

 黒井戸は椅子に座って腕を組む。


「舟森の祖父はなんで自死したと思う」

「えーと、それは……」

「ウロに関係している」

 黒井戸は断言した。




 後日、舟森が喪服姿で登校した。

「お前ら、これ」

 沈んだ顔のまま、瑠佳と黒井戸に折りたたまれた紙を渡した。

「じいちゃんから。渡してくれって、遺書にあった」

 瑠佳と黒井戸は顔を見合わせる。

 書状を開いた。


「ウロ調伏の聖典は、烏鷺山高校にある」

 内容はただ、その一文だけだった。


「聖典……」

「剣じゃないんだな」

「もうそれはいいから」

 その日、みおりは登校してこなかった。彼女の机はなぜか片付いていて、教科書の一冊もなかった。

 黒井戸と瑠佳の二人は職員室でたずねた。

「あー、墓地にもいないらしくてな。親御さんが失踪届を出してる」

 久那杜が肩と首を回しながら答える。

「でも見つからないだろう。なにせ……」

 昔、ウロに憑かれた者は生前に葬られたという。それだけが唯一、調伏の方法だから。


 瑠佳は決意した。


「みおりを探しに行こう」


「先生の話、聴いてたか」

 黒井戸は言った。

「明日から冬休みだし。みおり、墓地から出て行ったのかも。町の外に出てるのかも」

「落ち着け」

 身を乗り出した瑠佳の額を押しのけて、黒井戸は続けた。

「あてずっぽうで探しても見つかるはずがない。まずは手掛かりからだ」

「黒井戸……」

「見つけられなかったら調伏もできないからな」


 瑠佳は涙を堪えた。その背後で、犬神が号泣していた。


「美しき友情ですわ」


 それを見て瑠佳は苦笑いをした。



 瑠佳は花子さんに見せられた記憶を思い出す。

 あの記憶を、みおりは後悔しているんだ。



 つづく



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