第25話 大切な友達
「ノエル…」
環はノエルに向かって、一歩踏み出した。
ノエルの白いコートは血や埃で汚れ、ところどころほつれていた。
顔にも疲労の色が濃く滲んでいる。
環も同じくボロボロだった。
新しく買った服はすでに擦り切れ、穴だらけだ。
環はノエルに何と声をかけるべきか迷っていた。
考えた末に、コートのポケットに入っていた懐中時計を取り出す。
冷たい感触を握りしめてから、ノエルに差し出した。
「これ、ノエルのだよね?このコートも」
環は目覚めてからずっと羽織っていた緑色のコートを指し示す。
ノエルは黙って懐中時計を受け取り、指先で懐かしむように表面を撫でた。
「……ああ。まさか、また戻ってくるとはね」
やがて、環に向き直る。
「僕は、君に謝らないといけない」
「え…」
「君の人間としての人生を奪ってしまった。ごめん」
そう言って環に頭を下げた。
その顔に浮かんでいるのは、深い後悔と悲しみ。
ノエルはずっとそのことを思い悩んでいたのだろうか。
記憶喪失で目覚めてからのこの数日を思い返してみると、本当に色々なことがあった。
おかげで前よりもずっと図太くなれた気がする。
ノエルの顔を見ても、環の心は落ち着いていた。
「私の記憶を消してたの、ノエルだよね。
……どうして?」
静かな口調で聞いた。
「君に合わせる顔がなかった。僕のせいで君を巻き込んでしまったから」
ノエルの声が深く沈む。
「あの吸血鬼は、昔、僕が殺し損ねた男だったんだ」
――やっぱり。環は吸血鬼の言葉からうすうす感じていたことを確信する。
「今まで、どこにいたの?」
「奴を探していた。今度こそ自分の手で消すために」
「じゃあ……ずっと私たちのこと見てたって、本当?」
「ずっとではないけど、見ていたよ」
「……じゃあ私が玖狼に追いかけられたり、セクハラされたり、ぶん殴られたりしてるのも?」
「……環ちゃん」ノエルの表情が一変した。肩をがし、と掴み、環の顔を覗き込む。目が少し怖い。
「本当にそんなことされてたの?」
視線の端で、玖狼の方を鋭く睨む。
「ごめん。僕がついていながら…」
眉根を寄せ、ノエルの整った顔が悲しみに歪む。
「もっと早くに出ていけばよかった。
そうすれば、君が酷い目に遭わずに済んだのに
……僕は、君に嫌われるのが怖くて」
かすれた声でそう告げるノエルが、環の視線を避けるように俯く。
「…そっか」
ようやくわかった。
ノエルが自分のことを話したがらなかった理由。
環の前からいなくなった理由。
(ノエルも、怖かったんだ……)
いつも優しくて余裕のある大人に見えた彼が、ただの青年としてそこに立っている。
完璧なんかじゃない。自分とそう変わらない。
私もノエルのことを思い出してから、ノエルがどこにもいなくて、ずっと嫌われたんじゃないかと怖かった。
自分のことを話してくれないのは、私を信頼してくれてないからだと悲しかった。
環は一歩近づき、彼の胸をぽす、と拳で叩いた。
「私ね……ひとりで目が覚めたとき、すごく怖かった」
「……ごめん」
ぽす、ぽす、と繰り返す。涙が頬を伝い落ちていく。
「日光でやけどしたり、吸血鬼になってたり、ノエルのこと忘れてたり……ずっと、怖かった」
ノエルは拳を握りしめ、唇を噛む。
けれど環の言葉を遮らなかった。
「でも――」
環が顔を上げると、怯えたようなノエルの目とぶつかった。
「私は……あの日助けてもらったこと、ノエルに感謝してる」
泣き笑いの顔で、言葉を紡ぎ出す。
「ありがとう」
ノエルの肩がかすかに震えた。
驚いたように環を見返す。
環はノエルを抱きしめた。
「私と友達になってくれて、ありがとう」
――かつて、雨の日に彼がそうしてくれたときのように。
震える背中を、ぽん、ぽんと優しく叩いた。
***
しばらくして、十三課の黒い車両が資材置き場に入ってきた。
数人が車から降りてくる。
その中にシエラと美琴がいた。
「派手にやったな」
シエラが周辺を一瞥して、玖狼に言った。
「思ったよりもやべえのが出てきたんだよ…」
玖狼はため息をつきながら、肩をすくめた。
シエラがノエルの近くにやってくる。
そして、ノエルの顔をのぞき込みながら言う。
「やはり、お主だったか」
「お久しぶりです、シエラ様」
ふたりは知り合いのようだった。
環は見た目が幼いシエラに対して、ノエルが敬語を使っているのを不思議に感じた。
だが、二人の会話に、なんとなく口を挟むことができなかった。
シエラは複雑そうな表情をしていた。
「こんな形で会うとはな。
さすがに今回の件、見なかったことにはできんぞ」
「…はい。わかっています」
ノエルは静かに頷いた。
「お主は儂らに同行してもらう」
無言のハンターたちがノエルを囲む。銃口は向けられていない。彼自身が逃げるつもりなどないと分かっているからだ。
予想していなかった展開に、環は混乱していた。
ノエルは連続通り魔事件の犯人ではないのに、なぜハンターに捕まらなければならないのか。
「待ってよ!」
環が思わず叫ぶ。
「どうして行かなくちゃいけないの?
ノエルは悪くなんて――」
シエラが環の前に来て静かな声で言った。
「本来、人間を変異させるときには多くの手順を踏む必要があるのだ。
そして手順を守らなかった者は罰せられる。
ノエルはそれを知った上で、お主を吸血鬼にしてしまった。
どんな理由があろうと、これは、人間とそれ以外の者が共存するうえで必要な決まりなのだ」
「環ちゃん」
ノエルは振り返り、笑みを浮かべた。
「僕は罪を償わなければならない。
……君を吸血鬼にしてしまったこと自体が、
もう罪なんだ」
「そんなの……」
反発しかけて、環は言葉を失った。
ノエルの目は穏やかだった。
だからこそ、決して揺るがないような気がした。
「ノエルは、どうなるの…?」
「僕にもわからない。
でも、長い間会えなくなるかもしれない」
「そんな…やだよ」
環は必死に、ノエルの白いコートを掴んだ。
爪が布に食い込み、震える指先がどうしても離せない。
胸が締め付けられる。
やっとまた会えたのに。ノエルのことを少し知ることができたのに。
ノエルは環の手を自分の手で優しく包み、そしてほどいた。
「お別れだよ、環ちゃん。
こんな僕と友達になってくれてありがとう」
環の頭に優しく手を置いて、ふわりと微笑んだ。
環の知る、いつものノエルだった。
ノエルは背を向け、シエラとともに黒塗りの車に乗り込んでいく。
何か言わなくちゃ。
まだ言いたいこと、たくさんあるのに。
環はその背に向かって叫んだ。
「ノエル!!」
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
ノエルは止まらなかった。
何を言えば彼は止まってくれるのだろう。
環の言葉だけではもう引き留められないことはわかっていた。
けれど、これだけは伝えなければ。
「待ってるから!」
ノエルは驚いた顔で振り返った。
「どれだけかかるのかわからないけど、ずっと待ってる!
だから、また会えたら…」
コートの袖で涙を拭きながら懸命に言葉を絞り出した。
「いつもみたいに、一緒にコーヒー飲もう…!」
その言葉を聞いたノエルは、
本当に嬉しそうな、子供のような満面の笑みを浮かべていた。
ノエルは、シエラに少し目配せをした。
シエラは無言で頷いた。
そして、環の方に歩み寄ってきて、目の前に立った。環の肩に手を置く。
その瞳はしっかりと環を見据えていた。
―――そして、
「うん、約束だよ」
ノエルの顔がゆっくりと近づいてくる。
環の額に、柔らかくて温かい感触が落ちてきた。
ノエルが口づけをしていた。
「…!」
その瞬間、環の脳は沸騰した。
「その時までに、苦いのも飲めるようになっておいて」
ノエルはいたずらっぽく環の顔を覗き込むと、満足そうな表情で笑った。
そして、
「またね」
と環に背を向けた。
シエラはその様子を見て、「ほう」と言って、にやりと笑った。ノエルが車に乗り込むと肘で小突かれているのが見えた。
そして、ノエルはシエラとともに車で去っていった。
環は顔を真っ赤にして、熱の冷めない額に手を当てながら、車が見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
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