遥か、彼方。

 不愛想に、まだ覚め切らない目で校門をくぐる。後ろ姿が見えたのは昨日、突然話しかけてきた子。

 名前は……そう、深瀬彼方。急に話しかけて来たかと思えば一緒に弁当を食べようだの、積極的過ぎて少しビビってしまった。

 まあでもきっと昨日だけだろう。ああいう人はすぐに他にノリのいい友達を作って、私みたいな人間からは離れていく。

 そう。きっともう、これから関わることもない。気にすることもないんだ。

 高校に上がって初めて関わりを持った彼女に対してもこんな考えを持ってしまうのは、流石にひねくれすぎだろうか。

 校舎に入ってすぐ、ロッカーの目の前でほんの少しの罪悪を感じながらすぐそこの彼女を眺めていた。

「……あ!おはよ、遥。」

 目が合った。それと同時に話しかけてくる。

「あ……えっと、おはよ……」

 元気溢れるはっきりとした挨拶をしてくれた彼女とは真逆に、自信のなさが滲み出てしまう。

 なんだ、私のこと覚えてるんだ。と、どこかで喜んでいる自分がいたのが認められなかった。きっとすぐ離れるとそう感じていたからこそ、続きそうな関係が嬉しかったのだろうか。

 

「ね、今日も一緒にいい?」

「あ、うん。いいよ。」

 今日も一緒に弁当を広げる。もう何度目かの昼。

 最初から理由はよくわからなかったが、何回も積極的に話しかけられるうちにだんだんと仲良くなっていった。こんな私でも人と仲良くなれるんだと、初めて知った過程でもあった。

「そういえば、さ。彼方。」

「んー?」

 もう気付いたころには呼び捨てになっていた口で声を紡ぐ。ご飯を口に含んだ彼女は箸を止め私を見つめる。

「彼方ってその、初日からすごい積極的だったというか……その、すごく楽しそうだよね。」

 ふと気になってそんなことを聞いてみる。

「……そう?ありがと。」

 一瞬、彼女の表情が曇った気がした。しかしそんな疑いは、彼女の次の言葉で確信に変わってしまう。

「……私ね。病気で、あんまり学校に行けてなかったんだ。小学校は高学年、中学校はほとんど行けてなくて。ずっと、入院してたの。」

 いつもあんなに楽しそうにしていた彼女の目が俯く。暗くて、淀んでいた。

 普段とはかけ離れていた彼女のその様子は、恐ろしいほどこちらを不安にさせる。

「でもね、この間全部治って。高校に行けるーってなったから、楽しみで。友達作って、キラキラな学生生活送るぞーって、張りきっちゃったんだ。」

「もう私たち友達なんだから。」なんて、その言葉の意味が分かった気がする。こんな思いで私に話しかけてくれたのに、すぐに離れるだの私の事を忘れるなどと言っていた自分を殴ってやりたい。

「……そっか、そんなことが。」

 肩を落として言葉を詰まらせる。そんな私の背中を押すように、普段の明るさを取り戻した彼女は再び喋り出した。

「だから、遥は私の初めての友達。改めて、よろしくね。」

 手を差し伸べられる。

 そんなこと言われたら、断れないじゃんか。

「仕方ないな。」

 そう呟き彼女の手を握る。

「何が仕方ないってー?」

「あ、いや、別に。なんでもないよ。」

「ほんとかー?」

 笑い合う二人、握った手は柔らかくて、温かかった。

 これからも傍にいたいと思った。


 そんな、夢の続きを思い出していた。

 これは、誰の記憶?


「う……あんまり、人が多いところは得意じゃないから…」

 ビルの多い都心部へ遊びに行こう、なんて話を彼女がしたとき。

 今までこうして遊ぶ機会がなかったからだろうが、一度断ったにも関わらず目を輝かせて私を誘う。

 「いいじゃん、一回だけだから!一緒に行こうよ!それに、案外遥にとっても楽しいかもしれないよ?」

「そんなことは、ないと思う……たぶん……」

「それはさ」

 その途端、椅子に座っていた彼女が立ち上がる。

 続いて私の手を取り、優しい笑顔で目を見つめた。

「行ってみないとわからない、でしょ。」

「はぁ……わかったよ。一回だけね。」

 一人で行ったらいいじゃん、なんて言葉は絶対に口にはしない。

 そうしたら、また彼女が寂しい思いをしてしまうから。

 「やった。ありがと。」

 

 頭に響き渡る聞き慣れた声。

 そう、いつも、いつでも。ずっと傍に彼方がいた。


「私、遥が好き。」

「……うん、私も。」


 気持ちを伝え合ったあの日のことも覚えている。

 彼方の赤らんだ顔。いつになく目を逸らして、それなのに手は強く握っていた。

 

 一緒に食べた弁当も。白くくすんだ黒板も。恥ずかしいほど青い空を仰ぐ屋上も。

 並んで歩いた、桜色の並木道も。

 苦しいほどに。覚えている。

 彼女と過ごした全ての思い出が、今こうして頭の中で再編されていく。


 「……そっか。これは、」


 私の記憶。いつかの私の、忘れてしまった彼方との記憶。

 色づくモノクロの世界。それも鮮明に。全部、全部が溢れてくる。

 

 蘇る記憶と共に流れ落ちる涙。だんだんと溢れてくる、いつかの景色。

 これはそう、二人で巡ったあの場所。でも、この前とは違う。笑い合って歩く彼方の姿。

 止まることを知らず、頭の中を巡る。


 そんな中、不意に思い出した最後の記憶。

 思い出したくなくてずっと、閉じ込めていた。

 ――

「え……彼方、治ったって……」

 白い、無機質な部屋。これはそう、病室。冷たい温度に包まれる私は、彼方の顔を見つめる。

「実はね、治ってなくて。ずっと、薬を飲んで誤魔化してこれたんだけど。早くから教えていたらきっと、遥が悲しむと思って」

「……ふざけないで!」

 耐えきれずに声を上げてしまう。

「こんなに急に言われたって、受け入れられないよ……」

 悔しくて溢れる涙。

 これはそう、いつかの記憶。突然倒れて運ばれた彼方に着いていった先の病院。

 ずっと、病気を隠していたらしい。もう助からないと、ずっと前から知っていたらしい。

 いつも、楽しそうに笑っていたのに。ずっと一緒にいようって、言ってくれたのに。

 そんな当たり前の日常から、彼方が遠くへ行ってしまったようで。

 必死に抗った。彼女と私を繋ぎ止めようとした。

 離れられる訳がないって、家に帰ったらいっぱい話そうって、いっぱい怒ってやろうって。そう思っていたのに。

 

「やだ、やだよ……彼方……いかないで……」

 五年間、ずっと傍にいた彼女の手を握る。もう何回も、何回も握ってきたのに。

 初めての感覚だった。まるで彼方じゃないみたいに、冷たくて悲しかった。それでも、私の手を握る確かな力だけがある。

 呼吸が浅い。それは、私も同じだった。

 失いたくないと、ただひたすら願って泣きじゃくる。届かないなんて、きっとわかっていた。

 そんなことをしてもどうにもならないなんて、とっくに気付いていたのに。

 不安定で鮮明なその目の奥を見ながら、ふと気になったことを聞く。

 これが最後の言の葉になるかもしれないとわかっていながら。

「……ねえ、彼方はさ。どうして最初に私に話しかけてくれたの?」

 締まる喉で声を、言葉を絞り出す。あの日、私と彼女の始まりの日を思い出しながら。

「……直感、かな。この子なら仲良くできそうだな、って。」

「何、それ……」

 いつだって不明瞭だった彼女の言葉に不器用に笑って見せる。きっと、涙に塗れて酷い顔だ。

 私、ちゃんと笑えてるかな。

 

「ねえ、遥。」

 

 名前を呼ばれる。聞き慣れたその声で。

 ベッドの上でただ優しく、こちらを見つめる彼女の輪郭をなぞる。それはとても綺麗で、美しくて。


 「私を、忘れないで。」


 その微かな声が、脳裏にこびり付いた。

 ――

 そんな、前の事を思い出していた。きっと、忘れちゃいけなかった。忘れたくなかった。

 記憶を重ねた先が、ずっと求めていた結末がこんなものだなんて、考えてもいなかった。

 いつかの物語、あなたと過ごした日々。

 全て思い出して再び知ったそれは、残酷にも私に打ち付ける。

 もしあの時、彼方が私に話しかけてくれなかったら、きっとこんな人生はなかった。

 もし再び会いにきてくれなければ、私は貴女を忘れたままだった。


 忘れないで、なんて。いつの間にか呪いにかかってたみたいだ。

「いないのは私の方なのに。」なんて、あのとき彼方が言いかけた言葉を連ねてみる。

 でもああして、忘れてしまってもまた好きになれたのは、

 きっと、彼方だったから。

 

 「ありがとう、彼方。ずっと、傍にいてくれて。」


 重いが溢れる。

 ずっと傍にいたのに。私は何もしてあげられなかった。

 何も、何も。


「何も、できなかった。ごめん、ごめんね。」

 

 泣いても仕方ないのに、涙は止まらない。

 この声も、もう届かないのに。


「ほら、泣かないの。」

 懐かしい温度が頬に触れる。


「ごめんね。ひとりぼっちにしちゃって。」


 「これからもずっと、傍にいるから。」


 そんな声が、聞こえた気がした。

 

 本当にこれが最期だと、そう感じた。


 ありがとう、彼方。


「私きっと、一人じゃないよね。」


 崩れ落ちた身体を起こす。

 再び立ち上がった身体は、呼吸で震えていた。

 辛くても、悲しくても。怖くても。

 彼方がずっと傍にいてくれたから。

 こうして私を、取り戻してくれたから。


 「もう私、立ち止まらないよ。」


 見上げた先、霞んだ視界に。

 そこに在った、微かな光に。

 

 もう彼方は、いなかった。


 舞い散る花弁が、そっと手のひらに乗った。

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