あなたの名前は
鳥の囀りが聞こえる。世界はすっかり春の陽気に包まれ、暖かな空気が私を照らす。
私はというと、何食わぬ顔でソファへと座る。そんな朝。
いつもと変わらず、ただ外を眺めていた。
遠くに見えるのは、桜色の花弁。そのひとつひとつが不鮮明に輝く。
ふと、その奥から何かが飛んでくるのが見えた。
「うわっ!」
その瞬間、全開にしていた窓から何か大きな虫が入ってくる。
私はあまりに驚きすぎて、そのままソファごと後ろへと倒れてしまう。
「いたっ」
続けざまに後ろにあった棚に勢いよく頭をぶつける。
ゴンッ、と凄まじく鈍い音が響いた。
そのまま棚は倒れる。バタンッ、と、この静かな家には似つかわしくないほどの音を立てて。
二次災害があまりにもひどすぎる。
慌てて起き上がると、虫はすでに外へ出て行ったようだった。
「うう……最悪……」
まだ痛む体を無理矢理起こし、倒れた棚へ目をやる。
「あーあ……中身まで……」
そこには、上に乗っていた知らない誰かの写った写真の他、引き出しの中に入っていたと思われる物が散乱していた。
下敷きになった紙片の一つが、ふと光を反射する。
片付けようと、痛みで頭を抑えながらその中の一つを手に取った。
それはどうやら、写真のようだった。
何気なくそのフレームの中を覗いた。それだけのつもりだった。
「……!」
そこに写っていたのは、制服姿の私と、知らない誰か。
誰かは朝の夢に出てきた少女によく似ている。
背が小さくて、笑顔が可愛らしい。そんな女の子。
「あなたの……名前は。」
気付けば私は散らばった写真を必死に集めていた。そのどれもに彼女が写っている。
時間はばらばらのはずなのに、全部笑っている。すごく、楽しそうだ。
そして、決まってその傍には私がいる。
こんなに傍にいたのに。どうして私は覚えていないの?
悔しくて、寂しくて涙が溢れてくる。
拾えば拾うほど、思い出が溢れてくる。全部、ちゃんと覚えてる。
それなのにずっと、何かを捜している。誰かを捜している。
「私はずっと、貴女を―!」
気づけば足が地面を叩いていた。
何故こんなにも速く走れるのか、自分でもわからない。心臓の奥で何かが焦げるみたいに熱い。
光も光景も、全てを置き去りにして走り続ける。
胸の奥で誰かの笑い声が弾む。耳の奥で桜の花弁が舞い落ちる音がする。そんな音、現実にあるはずがないのに。
それでも足は止まらない。止めてはいけない気がする。止めたら、二度と会えない気がする。
脇腹が刺されるように痛む。喉が焼けるほど乾いて、呼吸はもう音にならない。
けれど、身体の痛みよりも、置き去りにしてきた日々の方が痛い。
どうして忘れていたの。あの笑顔を、あの温もりを。
桜色の風景が目の端をすり抜けていく。風が頬を叩くたび、滲む視界の奥に彼女の姿がちらつく。
遠ざかっては近づき、消えては現れる。記憶と同じように。
私は知っている。あの場所は、私と彼女が出逢った場所。
私は憶えている。あの場所は、彼女とまた出逢う場所。
息を切らしても止まれない。必死に走る。
涙も置いて。風を切って。
「あっ」
その一瞬、体が宙に浮く。何かに躓いてしまった。
落ちる身体に衝撃が走る。その足には、血が滲んでいた。
痛みなんて知らないと、再び身体を起こす。
今はただ、彼女に会うために。彼女の名前を、思い出す為に。
そうして辿りついた先、桜色舞い散る校門。
真っ白な校舎を背に、どこか懐かしい風景が広がっていた。
そこには、見慣れた姿があった。
「遥。待ってたよ。」
その笑顔に、思い出が溢れてくる。
そう。貴女の名前は―
「彼方!」
その胸に飛び込む。熱くなる目元を彼女に押しつけながら、ただ溢れる言葉を吐く。
「ごめん、ごめん、なんで忘れてたんだろう。」
「はいはい。それで、今はどっちの遥なのかな?」
彼方は、いつになく落ち着いている。まるで、私が来るのを知っているようだった。
そんな彼女に頭を撫でられる。その感触が心地良くて、私はせき止められていた涙を止められなくなってしまう。
「私のこと、思い出せた?」
「ううん……まだ、全部は」
「そっか。っていうか、びっくりしたんだよ?一回記憶喪失になったと思ったら、また私のこと忘れちゃって。」
「ごめん、ごめんね。私、なんだかよく、わかんなくて。」
「私も、ごめんね。……そんなことよりさ、ほら、見てよ。」
そう言って彼女は私を引き剥がす。
涙でぼやけた視界には、微かに花弁が見えた。
「覚えてる?私と遥が出会った場所。」
「うん……!忘れないよ……絶対……!」
「ゆっくり思い出してくれればいいからね。」
そう言って彼女は私の背を抱きしめる。
溢れる涙の奥には、いつかの記憶が写った。
二人、並んで歩いている。握った手の温かさが鮮明に蘇る。
そんな懐かしい、眠い目を擦ったあの日のことを。
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