第29話 名前を呼ぶ勇気と昭彦の悲劇
長い夏休みが終わり、新しい学期が始まった。
登校初日、教室の扉を開けると、昭彦と蓮が声をかけてきた。
「佐伯!おはよう!」
「おはよう、佐伯くん。」
俺も「おはよう」と返した。
久しぶりに会うクラスメイトたちも、夏休みを終えて少し大人びて見えた。
ホームルームが始まり、まずは課題の提出。
誰も忘れてはおらず、ポイントが絡むと人は真面目になるものだと改めて実感した。
二学期に入って最初の美化委員の仕事で、俺は春原と二人きりで校内を回っていた。
掃除用具の点検を終え、廊下を歩いていると、春原が突然口を開いた。
「ねえ、佐伯くん。和真って下の名前で呼んでもいい?」
不意の問いかけに、俺は思わず立ち止まる。
「え?別にいいけど......なんで?」
「なんでって、私たち友達じゃん」
友達。
その言葉に、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
いや、違う。
俺が欲しかったのは友達なんだ。
それなのに、この痛みはなんだろう。
「友達......」
俺がぼそっと呟くと、春原は少し不安そうな顔で俺を見つめた。
「え?友達じゃないの?」
「友達.....だよ」
俺は、精一杯の笑顔でそう答えた。
春原はその笑顔を見て安心したのか、いつものように満面の笑みを浮かべた。
「よかった!じゃあ、明日から和真って呼ぶからね!!」
そう言って、春原は先を歩いていく。
「ちょ、ちょっと待って......」
俺は、慌てて彼女の後を追った。
翌朝、登校すると、教室の入り口で春原が待っていた。
「和真!おはよう!」
春原は、そう言って俺に手を振った。
突然、下の名前で呼ばれ、俺は少し戸惑ってしまった。
いや、昨日の今日だから、当たり前なんだけど......。
「おはよう、春原......さん」
俺がそう呼ぶと、春原は目を丸くして、次の瞬間、満面の笑顔になった。
「え!名前.......覚えてくれたの!!」
その喜びように、俺は少しだけ気恥ずかしくなる。
人の名前を覚えるのが苦手だと伝えていたからだろうか。
春原は、飛び跳ねるほど喜んでいた。
「あ、いや......」
俺は、どう返事をすればいいのか分からず、言葉に詰まってしまう。
この違和感はなんだろう。
春原はそんな俺の様子を見て、少し落ち着いた声で言った。
「じゃあさ、私のことも下の名前で凛って呼んでくれる?」
俺は今まで身内以外で、下の名前を呼んだことがない。
ましてや、それが女子だなんて。
そんな俺にとって、いきなり下の名前で呼ぶのは難しすぎた。
「いや、いきなり、それはちょっと......」
春原は、少し寂しそうに笑った。
「そっか。まあ、和真が呼びたくなったらでいいよ」
そう言って、春原は自分の席へと向かっていった。
俺は、その日の授業中、ずっとその違和感について考えていた。
「友達」という言葉を、春原が口にするたびに胸が痛む。
下の名前で呼ばれて嬉しいはずなのに、なぜか拒否してしまう自分がいる。
(この感情は......何なんだろう......?)
俺は、まだ自分の気持ちの正体を、きちんと理解できていなかった。
それは、中学時代からずっと抱えてきた「人との関わりへの恐怖」なのか、それとも、春原への特別な想いなのか。
俺と春原の関係は、これから、さらに深く、そして複雑になっていくのだろう。
その予感に、俺は少しだけ、怖くなった。
9月8日、朝のホームルーム。
教室に響く響先生の声に、眠気が吹き飛んだ。
「はーい、来週の月曜日、9月15日に頭髪服装検査を行いますよー」
そうだ、この学校には頭髪服装検査があるのだ。
僕は黒髪だし、派手な髪型でもない。特に注意されることはないだろう。
この学校の生徒は皆、真面目だ。
男はツーブロック禁止、前髪は眉毛より上、もみあげは耳の半分より上、といった細かい校則がある。
女子は髪の色や爪のチェックが入る。
服装に関しては比較的緩く、学ランのチャックを閉めるくらいで、シャツをズボンから出すのもOKだ。
スカート丈の厳しい女子と比べても、男子の髪型に対する校則の方が厳しいのかもしれない。
そして一週間後、頭髪服装検査の当日。
教室に入ると、昭彦と蓮がすでにいた。
「おはよう」と挨拶すると、蓮が口元を押さえて笑いをこらえている。
「あ!佐伯、おはよう。……くっふふふふ」
「えっと……どうしたの?何か俺の顔についてる?」
「いや……佐伯じゃなくてさぁ。あれ見てよ……」
蓮が指差す先には、見違えるほど短くなった髪の昭彦がいた。
「くっそー、思ってた髪型じゃねぇー!やべぇーよ、絶対アウトだろ、これは!」
昭彦の悲痛な叫びに、僕は「うわぁ、思い切ったね」としか言えなかった。
「好きでこの髪型にしたんじゃねぇーよ!」
その時、教室のドアが開き、春原さんと由香里が入ってきた。
「おはよう……うわぁ~どうしたんその髪……っ」
珍しく、由香里さんが口元を隠し、笑いこらえていた。
春原さんは僕にまっすぐ向かってきた。
「おはよう!和真!」
「おはよう、春原さん」
僕の返答に、3人は驚いた表情で固まった。
「……え?佐伯……名前、覚えてるじゃん!」
由香里が目を丸くする。
「いや、それもだけど、春原、佐伯のこと和真って下の名前で呼んでたよ
な!?」と昭彦。
「確かに呼んでたね」と蓮も続いた。
春原さんはにこやかに頷く。
「うん、呼んだよ。だって……」
3人はごくりと唾を飲み込み、続きを待った。
「友達だもん」
春原さんのその言葉に、僕は思わず口元がニヤけてしまうのを右手で隠した。
3人は「付き合ってないのかよ!」と心の声が聞こえてきそうな表情をしていた。
「そ……そうか、仲良くなるのはいいことだな!」
「え、えぇ、そうね」
昭彦と由香里がぎこちなく返事をする。
蓮がふと、祐真の姿がないことに気づいた。
「それで佑真は、まだ来てないの?休み?」
「あー、実は……」
由香里から話を聞くと、佑真は中学時代のバスケ部の同級生にしつこく誘われているらしい。
聞くと入学当初から、誘われていたらしい……。
高校では部活に縛られず、自由に遊びたい。
その気持ち、痛いほどわかる。
中学時代が最悪だった僕も、高校では青春を謳歌したいと願っていたから。
そうこうしているうちに、本日のメインイベント、頭髪服装検査が始まった。
廊下で出席番号順に並び、先生のチェックを受ける。
結果は、昭彦だけがアウトだった。
クラスメイトの前で先生に注意されている昭彦……。
うん、昭彦……どんまい。
目の前で繰り広げられる、いつも通りの、少し騒がしい日常。
その中で、俺の胸の奥には、春原さんの「友達だもん」という屈託のない言葉が、鉛のように沈んで響いていた。
友達。
そう分類するには、あまりにも心がざわつきすぎる。
校則の線引きのように、はっきりとした境界線があればどんなに楽だろう。
しかし、俺と春原さんの間に引かれ始めたこの曖昧で、甘い輪郭の線は、これからどこへ繋がっていくのか、まだ誰にもわからない。
(この予感の先に、俺は踏み出せるだろうか。)
先生に連行される昭彦の後ろ姿を見送りながら、俺は、秋の光が差し込む廊下で、自分の心に初めて向けられた問いの重さを噛みしめていた。
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