第5章:禁じられた湖

 蓮からの警告は、楓の決意を揺るがすどころか、むしろ固めさせた。「鎮めの湖」。全ての謎は、そこに繋がっている。祖母が、蓮の妹が、そして今、自分が直面している恐怖の根源は、きっとあの場所にある。楓は、蓮に内緒で、一人湖へ向かうことを決意した。彼の優しさに甘えてばかりはいられない。自分自身の意志で、この謎を解き明かさなければ。

 村の中心部から外れ、鬱蒼とした森の中へと続く細い道を進む。昼間だというのに、木々が陽光を遮り、辺りは薄暗い。湿った土と腐葉土の匂いが立ち込める中を歩き続けると、不意に視界が開けた。

 そこにあった。鎮めの湖が。

 その光景は、異様だった。周囲の木々を映すこともなく、空の青を反射することもなく、湖水はただひたすらに黒かった。まるで、大地に穿たれた巨大な眼窩のようで、覗き込む者の魂を吸い込んでしまいそうな、底知れない闇をたたえている。湖畔には、苔むした小さな祠(ほこら)が、ぽつんと一つだけあった。

 楓は、まるで何かに引かれるように、その祠へと歩み寄った。祠に近づくにつれて、腐敗した水の匂いと、線香のような香りが混じった異臭が鼻をつく。楓は息を止め、震える手で祠の小さな扉に手をかけた。

 ぎ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。中を覗き込んだ楓は、ひゅっと息をのんだ。

 そこには、ぼろぼろになった古い子供用の着物が、まるで人形のように祀られていた。そして、その着物には、びっしりと黒く長い人間の髪の毛が、おびただしい数、絡みついていた。

 その不気味な光景に気を取られた瞬間だった。

 静まり返っていたはずの黒い湖面が、ごぽり、と大きく泡立った。そして、次の瞬間、水の中から無数の白い手が、にゅっと現れては、掴むものを探すように空を掻き、また水中に消えていく。その幻覚のような光景に、楓の全身から血の気が引いた。

「逃げなきゃ……!」

 恐怖に駆られ、踵を返して逃げ出そうとした楓は、しかし、その場に釘付けになった。

 いつの間にか、彼女の周囲を、村人たちがぐるりと取り囲んでいたのだ。誰もが、あの能面のような無表情で、ただじっと楓を見つめている。その輪の先頭には、村長の佐伯が、いつもとは全く違う、氷のように冷たい表情で立っていた。

「ここは、よそ者が足を踏み入れていい場所ではございませんよ、楓さん」

 その声には、もはや一片の温かみもなかった。獲物を追い詰めた捕食者の、静かな宣告。

「どうして……」

「掟ですから」

 絶体絶命。村人たちの輪が、じりじりと狭まってくる。もう駄目だ、と思ったその時。

「そこをどけェッ!!」

 獣のような叫び声と共に、木々の間から黒川蓮が飛び出してきた。彼は斧を手に、楓と村人たちの間に立ちはだかる。

「この人をどうするつもりだ! 答えろ、村長!」

 蓮の怒声に対し、佐伯は表情一つ変えず、静かに告げた。

「掟は、掟だ。この女は、影見様がお求めになっておられる、新しい依り代だ」

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