治癒師カリナの物語

第３話 子馬物語

1 〜銀髪の乙女は家に驚く〜

　ファングの脇腹の怪我を完治させた代わりに気力を使い果たしたカリナ。

そして持てる体力を怪我の修復に根こそぎ奪われて昏倒したファング。

　無茶をした二人に心底呆れながらも、治癒師長セオフィルは

「今日と明日、しっかり食事を摂ってゆっくり休養するように」

そう言い渡したうえで、屋敷に帰ることを許してくれた。

　去り際、彼女はそっとファングに身を寄せて何か囁き、ファングは少し困ったような、照れたような笑みを浮かべて、二人は軽く抱擁を交わしていた。

そうして屋敷に戻ると、ファングは

「ここは貴女の私用の部屋だ。自由に使っていい」

　カリナをファングの部屋の並びにある、“夫人用部屋（スイートルーム）”に案内した。

衝立や仕切壁で応接室と小さな書斎、そして衣装庫に分けられた広々とした一室だ。

「ま、今日のところは休んでいなさい」

ファングはそう言って、わざわざ廊下を通って自分の執務室へ戻っていった。

　スイートルームの内装は、王都にいた時のカリナの部屋に比べると非常に地味で、調度品も年季のいったものが多い。

それでも重厚な書き物机は質のいい木材を惜しみなく使い、長椅子も模様や色の華やかさには欠けるものの手触りの良い布地で出来ていた。

衣装庫には大きな箪笥と、鏡台もちょこんと置かれている。

調度の質の良さと古さから、歴代の領主の妻が代々暮らした部屋なのだと窺い知れる。

でも、鏡台の上に置かれている口紅と櫛は新品だ。

それも今年の春の流行の品ではないか。

「……ちゃんと、奥方を迎える準備をなさっていたのね」

ファングは嫁をもらう気などそもそも無いと言っていたけれど。

上の階級の家柄からの婚約話も、一旦受けはするものの、女性側から断れるようにあんな無礼千万な返答をよこしていたはずなのに。

ペンネとの婚約を、本当は歓迎していたのか？

……あるいは、本当は嫁にと望む意中の女性が居るのではないか。例えばセオフィルのような。

カリナはその想像に微かに胸を痛めた。

……この口紅も櫛も、“カリナ”を待っていたわけではない。

それだけは確実だ。

「私は、……本当にここを使っていいのかしら」

悩みつつ、室内を見て回る。

部屋の一番奥、書斎の突き当たりに分厚い木の扉があった。

それを、そぅっとカリナは開けてみた。

「あ……」

その向こうは寝室だった。

天蓋付きの寝台ベッドは、男性３人は余裕で眠れそうな広さがある。

しかも寝室の向こう、反対側にも扉がある。あの先はファングの執務室のはず。

そしてこの寝室は廊下からは出入りできない造り。

つまり、互いの部屋からしか入れない。

明らかに、夫婦の共寝用の寝室だ。

どぎまぎしてカリナは書斎の長椅子に駆け戻った。

小間使いのミディがカリナの衣類をせっせと衣装庫（クローゼット）にしまってくれている横で、カリナは顔を赤らめて長椅子に突っ伏した。

「この夫人部屋スイートルームをいただいたということは、つまりそういうこと……」

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　その頃、ファングは執務机で唸っていた。

手には、ソノルズ公爵家と交わした婚約に関する書状がある。

　向こうの面子を立てつつ此方も舐められないよう、かつ穏便に、返事を認（したた）めねばなるまい。

「兄さん、体調は……いや、ご領主様、お取り込み中ですか」

レオンがいつものようにひょこっと気軽に執務室に顔を出すが、異母兄の険しい顔に居住まいを正す。

ファングはそれに苦笑いを浮かべ、

「あぁ、なに、今晩の食事をどうするかが最重要課題だ……まだ18歳かそこらの娘だしな……」

さっと書状を脇に避けて応じた。

「ふはは、3食ご飯付きって言ったら食いついてきたもんね」

レオンもふっと力を抜いた。

「まぁ、そもそもが王都の貴族令嬢様だ、兄さんお得意のごった煮とパンとチーズだけってのは駄目だね」

レオンに指摘され、ファングは身を竦めて頭を掻いた。

「白パンに川魚と鹿肉、鶏だと、若い娘には物足りないかね」

真剣に悩むファングにレオンは

「……極めつけに“あれ”はどうだろう？」

と提案した。

“あれ”を出せばきっと、王都で贅沢を知った貴族令嬢も驚くだろう。

だが

「明日、子どもらに与える分で、家の地下の保存庫は満杯だ」

ファングは困ったように返す。

レオンは露骨に残念がりつつ

「じゃあ、貴族もびっくりなあれは明日のお楽しみにして……」

兄弟は、カリナの胃袋を満たすための夕食を真面目に考えたのであった……。

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

そうして夕食の席。

深めの襟ぐりに薄いレースをあしらった、シンプルだが準礼装のロングドレス姿に着替えてカリナは食堂に来た。

亜麻布のテーブルクロスが敷かれた、10人ほどが囲めそうな大きなテーブル。

ファングは上座に、そして角を挟んで両隣にカリナとレオンがつく。

　席に置かれた綺麗に畳まれたナプキンを、カリナは当然のように膝に広げて、給仕を待った。

その仕草に

「貴族なら順番に、一皿ずつ食べ終えてから次の皿に移るがね。うちは料理人も使用人も最小限でな。できた端から運ばせている」

とファングは苦笑してカリナに言いつつ、

自ら立っていって食堂の大きな戸を開けた。

　小間使いのミディがワゴンを押して入って来て、まずはカリナに料理の皿を置く。

「まぁ……」

玉ねぎと卵のスープ、焼いた根菜と大きな炙り肉が出され、カリナは思わず声を上げた。

「今日の肉は鹿だ、口に合うといいのだが」

ファングが当然のように答える。

もっとも、カリナが声を上げたのは、美味しそうなお肉に喜んだだけではない。

前菜が無いことに驚いてもいた。

レオンにも同じものが供されていて、

彼はむしろ

「今日はちゃんとスープがあるんだ！」と喜んでいる。

スープすら供されない日もあるというのか……？なんて質素な夕食だろう。

そう思いながらカリナは、

この辺境では食材が豊かでなく、スープが前菜代わりなのだろう。

そう自分に言い聞かせた。

「さ、食べなさい。肉も冷めないうちに、まずは一口だけでも」

ファングに促され、カリナはそっとカトラリーを手に取った。

さっぱりした塩味の卵スープを一匙飲み、邸の主の勧めに従って、肉にもさっそく手を付ける。

分厚い肉に、食事用のナイフの刃がすっと通る。

「あら……！すごいわ……」

王都でさえ、生鮮肉の料理を口にできるのは、大きな宴や、狩猟会の当日から翌日ぐらいのものなのに。

肉は塩蔵や燻製にして保存し、調理法もじっくり煮て食べるのが普通だ。

「こんなに柔らかいお肉が私も頂けるなんて、……今朝、狩りにお出になったのですか？」

と驚くカリナに

「いや、俺は今日は狩りに行っていないな。ま、偶然いい肉があったのでな」

と答えるファング。

狩りの日でも、獲物は男性と客人が優先的に食べ、女性陣には狩った肉は一口しか与えられない。

いつも通り鵞鳥や鶏などの家禽や、豚の肉が出されるのが通例だ。

だから、まるまる一皿の炙り肉を自分が食べていい、ということにカリナは密かに舞い上がっていた。

「とても美味しいですわ。私にも素敵なお料理をくださってありがとうございます、ローヌルフ卿」

カリナは喜んで礼を述べたが、

だがよく見れば、ファングの皿に乗っているのは、炙った肉の切り身ではない。繊維状に崩れた肉の寄せ集めだ。

「兄さんったら、それ塩漬け肉の水煮でしょ？」

レオンとカリナには新鮮な肉を使った料理を食べさせ、自分は塩蔵肉を水で煮て塩抜きしただけのものを食べているというのか。

この屋敷の主で、れっきとした貴族であるのに、なぜそんな質素な食事を摂るのか。

カリナには全く理解できなかった。

「まぁ、客人の居る席で食べるにはこいつは少々見た目が地味なのは認めるがね。カリナもレオンも、ふたりとも若いのだから、しっかり食べて精をつけろ。俺は俺で好きに食う」

ファングは大らかに言い、煮崩れた肉をもぐもぐと旨そうに食っている。

「お邸のご主人が言うならお言葉に甘えるー」

レオンはへらっと笑って、スープの卵をすくって頬張る。

カリナも、戸惑いつつもスープを口に運ぶ。

塩味の澄まし汁のなかで薄絹のように広がる卵はふんわりと舌触りが優しかった。それでいて濃厚な甘い黄身の味がする。

簡素な卵のスープでこんなにも満足感があるとは。

カリナがスープをゆっくりと味わっていると。

「次のお料理、お持ちしました」

ワゴンの車輪の音と共に声がかかる。

ファングが席を立って使用人のもとへ自ら赴いた。

食事中に席を立つなんて、貴族の、それも主の振る舞いではないのだけれど……。

カリナはその無作法さを少し気にしつつも、作法に則って静かに食事を進める。

彼女はようやくスープを一皿飲み切ったところだ。

独立した前菜がない分、スープの量に力を入れたのかもしれない。

なかなかに腹に溜まっている。

とはいえ、次の料理が来てしまった以上、少し急いだほうがいいのだろうか？

だが焦って食べて、うっかり零したり音を立てたりするのは貴族令嬢の作法に反するし。

迷いながらも、まだ一口しか食べていない鹿肉に、再びナイフを入れる。

……柔らかい。ほんとうに美味しい。

鹿肉の赤身の弾力と柔らかさが絶妙に調和し、さらに甘酸っぱい果実のソースの爽やかな風味が食欲をそそる。

小さな一口でじっくり肉を堪能していると

「お前たちは、渡した生肉を調理して食べたか？」

などとファングが聞いているのが聞こえ、カリナは顔をあげた。

「はい！焼いただけであんなに美味しいお肉……いつもありがとうございます！」

と小間使いは嬉しそうに答えている。

　主人たちと同じ食材を使用人が食べるなど、貴族社会ではありえない。

驚いてカリナは食事の手が止まってしまった。

だがファングは

「それはなにより。またいい肉が手に入ったら渡すから、存分に味わえよ」

と微笑んだ。

　レオンはそんなファングを見つめ、何を思ったか、兄の皿に自分の分の鹿肉の炙りを一口切り分けて乗せている。

ファングは使用人を下がらせると自ら料理の皿を運び始めた。

……主人自ら給仕の真似事をするなんて。

ファングはいったい何を考えているのだろう。

　まだカリナの炙り肉の皿が空かぬうちに、川魚の蒸し物と鶏肉のたっぷり入ったグラタンも食卓に並ぶ。

「あ、旨そう」

レオンは屈託なく笑みをこぼし、ファングから皿を受け取る。

カリナとレオンに料理を配り、ファングは最後に自分の飯を手に自席に戻った。

　水煮肉の皿にちょんと乗っかった炙り肉に気づいて苦笑いする。

「レオン。お前な、要らんよ俺は」と言いつつも、突き返しはせずにちゃんと食べ、

「うむ、まだまだ良い肉だな」

と舌鼓を打っている。レオンはそんな兄に

「兄さん、自分の分のお肉、また皆にあげちゃったんでしょ」

と笑う。

ファングは肉の余りを使用人に温情で分け与えたのではなく、己の分を譲ったのか。

それも“また”ということは今までにもそうやって、身分の低い者によい食べ物を与えているというのか。

「彼奴等にこれだけ良い飯を作らせておいて、その口に入れてやらんのは悪いだろうが」

ファングはさらりと言って、水煮の肉をぺろりと平らげる。

「夕食にこんなに色々食べるの、何日ぶり？兄さん」

レオンの問いかけに、ファングは軽く肩をすくめた。

「さぁな。ひと月ぶりじゃないか？パンと主菜以上の飯を食うのは」

「……お夕飯が、一皿？」

茫然とするカリナにレオンがきっぱりと言った。

「うちにはうちのやり方がある。これで驚くのは早いよ」

「王都の公爵令嬢には受け入れ難いことも多いだろうな、“我が家”は」

ファングは言い、後は黙々と食事に勤しんだ。

彼の言う普段の夕食の品数の質素さだけでも驚きなのに。

食卓で沈黙しているなんて。

普通の貴族男性なら、夕食の席で様々な社交界の様子や政治の話などを話し合うものだ。

王都と辺境ではこうも違うのか。

それともファングが変わっているだけなのか。

カリナは心底困惑したが、女の身であれこれ口を出すのは、はしたないことだ。

とにかく今は目の前の料理を楽しむことに専念した。

香辛料の効いた蒸し魚を半身ほど食べ進めた頃。

「ごちそうさまでした～！」

見ればレオンもファングも食べ終わっていた。

所作は貴族の礼儀作法に則って、丁寧で静かなのに。食べるのが恐ろしく早い二人だ。

王都の貴族であれば普通、１，２時間は夕食にかけるし、他の貴族を招いての食事であれば３時間ほど要するのが当たり前なのだが。

「……焼き物は、温め直させるか」

ファングはカリナの皿を見て呟いた。

そして廊下へ行って小間使いに声をかけて、あれこれ指示をして戻ってきた。

あとはじっと押し黙って、ファングはカリナを見つめている。レオンはそんな兄を見てニコニコしながら、ぱくぱくとチーズを楽しむかりで、此方も何も言わない。

そこへ、戸が叩かれた。

ファングが急いで迎えに行き、鎧姿の男性はごく自然に、入ってこようとした。

「すまない部隊長。今日は別室で応じる」

それをファングが押し留め、

「いえ、すぐ済むので、」

二人して廊下の外へ出たと思ったら、そのまま立ち話をしているようだ。

それに耳をそばだてていたレオンも、

「ごめん、カリナさん。ゆっくり食べてて」

途中で話に参加しに行ってしまった。

ひとり食卓に残されて、カリナは悄然と俯いた。

　今までは、公爵家令嬢として扱われ、一人での食事なんて、朝のベッドでの軽食ぐらいだった。

夕食時に一人取り残されるなんて、初めてだ。

「それはだめ、だって軍は代々」

突如聞こえたレオンの大声に被せるように

「レオン、声を落とせ、話が中に聞こえる！」

ファングの太い声がする。

もしかして、よそ者の自分がいるから、女の自分がいるから、この領地の政の話ができないのかしら。

だからこのご領主兄弟は、私の前でお話しをなさらないのかしら？

カリナは、そんな考えが浮かんだ。

　父は家来や関係者を招いた夕食の席では、自分の領地や仕事の話をしていた。

そして同席するカリナ達に“このことは他言無用”と釘をさすことや、この先の話は後ほど、と話を止めたことも多々あった。

……嗣子であるカリナにすら、父は領地や内政に関わらせなかった。

……一見、貴族らしからぬ型破りなファング様も。やっぱり私にはこの領地の話をお聞かせくださらないのね。

「部隊長、今ここで済む話ではない。明日改めて詳細を。客人もあるのでな」

ファングが戸を開けながら言う。

「おや、……これはこれは、噂の」

その男がカリナに気づく。

「……紹介しよう、こちら、県軍西方拠点部隊長の、イシュノ・ウェスティだ。ウェスティ、此方、ビクセル・ソノルズ公爵のご息女カリナ嬢だ」

ファングに手招かれ、カリナはその傍らに立って軽くお辞儀をする。

部隊長は、ドレス姿のカリナを頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと見てから意味ありげに笑った。

「こりゃぁ、……来年には跡継ぎも期待できますな、将軍」

「口を慎め、公爵家の令嬢だぞ」

ファングがぴしゃりと叱り、その男はすごすごと帰っていった。

「……その、緊急の話でな。一人にして悪かった、カリナ嬢」

それぞれ席に戻るとファングが言葉を濁しつつ謝った。そして

「あの男の言葉は、気にしないでいただきたい」

きっぱり言うファングに、レオンが困り顔で言った。

「でも、もう広まってるんだね、兄さんがやっと“奥さんを迎えた”って。もう皆、子どもを期待してる」

「まぁ、それも俺が領主である以上仕方ないが、全く、気の早いことだ」

ファングはぐびぐびと麦酒を呷る。

そして中座する前よりもずっと険しく鋭い目でカリナを見る。

そして、空になった皿をちらっと見て

「……食事は足りたか」

と低く聞いた。

カリナは、小さく頷いた。

……女の私にまで肉を食べさせて滋養をつけさせるのは……後継ぎの努めをお望みだからか。

あの部隊長の男が自分をじろじろ見たのも、ファングがずっと自分を見ているのも、子をなせるかどうかの品定めなのかもしれない。

そう思って、少し、寂しい気持ちがする。

……寂しいだなんて。

貴族の妻になるのだから、そんなの当たり前だと分かっているのに。

王都とは仕来りが違うからといって。

異能を認めてもらえたからといって。

ここで働けと言ってくれたからって。

自分は何を期待した。

ここでは、異能を隠さなくていい、役に立つ。

だがそれだけだ。

そして、異能などありふれているこの地で。

本当にカリナの力が必要とされるのだろうか？

いくらでも替えがきくのではないか。

ファングの無言の圧が、視線が怖くて、つい後ろ向きな考えが浮かんできてしまう。

私の、妻としての価値は……夫を満足させ、子を産むことで測られる。

きっと変わらない。

産めなければ自分は、ファングの“婚約者”の価値を失う。

母アダンが父ビクセルに里へ下げられたのも、

“跡継ぎの男子”を産めなかったせいだった。

カリナは、膝におろした両手をぎゅっと握る。その拳は震えていた。