第73話 受話器の向こうの、父親へ

 翌日の朝食の後。

 蓮くんは、俺が何も言わないうちから、洗い物を済ませ、薪を運び、モンスターたちの世話まで、てきぱきと済ませてしまった。

 そして、全ての仕事が終わったのを見計らったかのように、彼は、俺の前にまっすぐに立った。


​「田中さん。約束通り、家に電話をかけさせてほしい」


 ​その声には、もう、前のような反抗的な響きはなかった。ただ、静かで揺るぎない覚悟が、そこにあった。


 俺は黙って頷くと、彼を囲炉裏の間に置かれた、あの黒い固定電話の前へと促した。

 ​リサも、ことの重大さを察したのだろう。ピクニコ動画の編集をするでもなく、ただ、少し離れた場所から、心配そうに固唾をのんで、その様子を見守っている。


 蓮くんは、受話器を握る前に、一度大きく、深く息を吸い込んだ。

 そして作業着のポケットに突っ込んでいた右手を、そっと取り出す。その手の中には、ゴブ吉がくれた青い鳥の羽根と、ダンジョンで見つけた、あの不思議な『音鳴り石』が、お守りのように固く握りしめられていた。


​ 彼は震える指で記憶の中の番号を、一つ、一つ、確かめるようにダイヤルを回していく。


 数回のコールの後、電話が繋がった。


​「……もしもし。俺だ。……蓮だ」


 ​受話器の向こう側から、俺のいる場所まで、かすかに硬い男性の声が聞こえてきた。

 おそらく父親だろう。


『……どこにいるんだ。ふらふらと、ろくでもないことをしていないで、今すぐ帰ってこい』


 ​数日前の蓮くんなら。

 きっと、ここで「うるさい!」と反射的に叫んでいただろう。


 だが、今の彼は違った。


​「父さん。聞いてほしい」


 ​彼は静かにはっきりと自分の想いを言葉にし始めた。

 それは子供のわがままな言い訳ではない。

 一人の男として、父親と向き合うための魂の告白だった。


​「俺、家を飛び出して、今、北海道の変な宿にいる。ここで毎日、薪を割ったり、掃除をしたりして働いてる。自分で働いて、自分の力で食う飯がこんなに美味いなんて、今まで知らなかった」


 ​彼は続ける。


「それから……。俺の音楽を聴いてくれる人たちを見つけたんだ。人間じゃない、モンスターかもしれないけど……。でも、あいつらは、俺が作った音を心から楽しんでくれた。俺の音楽はくだらなくなんかなかった」


 ​だから、と彼の声に力がこもる。


「だから俺は、もう一度、本気で音楽をやりたい。父さんが言うみたいに中途半半端な夢なんかじゃないって、必ず証明してみせるから」


​ 受話器の向こうの父親は、しばらく黙っていた。やがて、大きな、大きなため息が、かすかに聞こえてきた。

 そして以前のような頭ごなしの怒りではない、少しだけ違う響きを持った声が返ってきた。


​『……勝手にしろ。だが、勘違いするなよ。お前の学費以外の金を出してやるつもりは、もうない。本当に自分の力だけでやるというのなら……やってみろ』


 ​それは突き放しているようでいて。

 ほんの少しだけ息子の覚悟を認めようとする、不器用な父親なりの、精一杯の「許し」だったのかもしれない。


 ​蓮くんは、その言葉を聞いて、瞳にみるみるうちに涙を溜めた。

 だが、彼は泣きじゃくらなかった。その涙をぐっとこらえながら、最後の大切な言葉を力強く言い放った。


​「うん。分かってる。だから父さん……俺、高校は絶対にちゃんと卒業する。でも、卒業したら、俺、もう一度、ここに戻ってくる。ここで音楽をやりながら自分の道を自分で探すから」


 ​彼は、一度、言葉を切った。


 そして。


​「だから……それまで、ただ見ていてほしい」


 ​電話が静かに切られる。

 蓮くんは、ゆっくりと受話器を置くと、その場にへなへなと座り込んでしまった。全身全霊で父親という、あまりにも大きな存在と向き合ったのだろう。


 ​だが、その顔には、後悔や悲しみは微塵もなかった。すべてを出し切り、自分の進むべき道を自分の言葉で掴み取った、晴れやかな男の顔がそこにあった。

 ​リサがたまらず「蓮くーん!」と泣きながら彼に駆け寄る。


 俺は、そんな彼の肩を父親のような気持ちで、ぽん、と力強く叩いた。


​「よく、言ったな」


 ​そのたった一言だけで十分だった。

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