第12話 別れの朝と宝物

 翌朝、俺は懐かしい感覚で目を覚ました。

 それは、遠足の日の朝のような、期待と少しの寂しさが入り混じった、清々しい空気感だった。窓の外では小鳥がさえずり、北海道の澄んだ朝日が部屋に差し込んでいる。


 今日は、山田さん一家が帰る日だ。

 俺はいつもより少しだけ早く起きると、台所に立って朝食の準備を始めた。メニューは、日本の朝の原点ともいえる、心のこもった和定食だ。


 地元産のお米「ななつぼし」を炊き上げ、魚屋の大将に「朝飯ならこれだろ」と持たせてもらった立派な鮭をこんがりと焼き上げる。

 出汁をたっぷり含ませたふわふわの卵焼き、鈴木さんの畑で採れたジャガイモと玉ねぎを使った味噌汁。品数は多くないが、一つ一つに心を込めた。


 やがて起きてきた山田さん一家は、食卓に並んだ料理を見て、「うわあ、日本の旅館の朝食みたいだ!」と歓声を上げた。

 炊き立てのご飯を頬張りながら、皆で昨夜の思い出話に花を咲かせる。


「夜のダンジョンは、本当にすごかったね」


「あの結晶、僕の宝物にするんだ!」


 健太くんは、昨夜手に入れた宝物を、パジャマのポケットから取り出して嬉しそうに見せてくれた。

 そんな和やかな雰囲気の中、山田さんの旦那さんが、ふと真剣な顔つきで俺に尋ねた。


「田中さん。差し出がましいことをお聞きしますが、どうしてまた、ここで民宿を始めようと? 東京でのキャリアを捨てるのは、大変な決断だったんじゃないですか?」


 その問いに、俺は一瞬、言葉に詰まった。

 リサも、良子さんも、箸を止めてこちらを見ている。

 俺は、お椀に注がれた味噌汁の湯気を眺めながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「……逃げ出してきた、だけなんですよ」


 東京で、心と体をすり減らし続けた日々のこと。満員電車に揺られ、深夜のオフィスで栄養ドリンクを飲むのが当たり前だったこと。

 気づけば、何のために働いているのか、誰のために生きているのか、分からなくなってしまったこと。

 そして、駅のホームで線路に吸い込まれそうになった、あの日のこと。


「両親が遺してくれたこの場所で、もう一度、ゼロからやり直したかったんです。お金や地位のためじゃなくて、誰かの心を、少しでも温かくできるような……そんな仕事が、したかった」


 話し終えると、重い沈黙が流れた。

 やがて山田さんが深く頷いた。


「そうでしたか……。分かります。痛いほど、分かりますよ。同じ都会で、同じように戦う人間として」


 彼は、俺の目をまっすぐに見て言った。


「でも、今の田中さんの顔、すごくいい顔をしています。私が東京ですれ違う、どんな人よりも、ずっと」


 その言葉が、すっと俺の心に染み渡っていく。

 長年、心の奥底に溜まっていた澱のようなものが、綺麗に洗い流されていくような、そんな感覚だった。


 やがて、荷物をまとめた山田さん一家が、玄関の前に立った。


 いよいよ、別れの時だ。

 健太くんは、プルとゴブ吉の周りを名残惜しそうにぐるぐると回り、「また絶対に来るからな!」「元気でな!」と何度も声をかけている。


「田中さん。二日間、本当にありがとうございました」


 良子さんが、そっと白い封筒を差し出してきた。


「宿泊費です。本当は、こんな金額では全く足りないくらい、素晴らしい体験をさせていただきましたが……」


「い、いえ、そんな!」


 俺が慌てて固辞しようとすると、旦那さんが穏やかに、しかし力強い口調で言った。


「いえ、どうか受け取ってください。これは、僕たちの感謝の気持ちであり、けじめです。田中さんの、記念すべき最初の『お客様』になれたこと、心から光栄に思います」


 その言葉に、俺は何も言えなくなった。

 震える手で、その封筒を受け取る。ずしりとした、温かい重み。これが、俺のダンジョン民宿の最初の売上だった。


 一家が車に乗り込み、エンジンがかかる。

 開いた窓から、健太くんが、少し恥ずかしそうに、くしゃくしゃに折りたたんだ紙を俺に差し出した。


「これ、田中さんへ。あとで読んで」


「うん。ありがとう」


 車がゆっくりと走り出し、やがて角を曲がって見えなくなるまで、俺とリサ、そしてプルとゴブ吉は、ずっと手を振り続けた。


 静寂が戻った家の前で、俺は健太くんから貰った手紙を開いた。

 そこには、子供らしい拙いながらも、力強い文字がびっしりと並んでいた。


『たなかさんへ

 二日間、ありがとうございました。すごくたのしかったです。

 すらいむはぷにぷにでした。ごぶりんがおじぎしました。

 よるのたんけんは、どきどきしました。ぱすたが、すごくおいしかったです。

 また、ぜったいにきます。

 ぼくのなつやすみで、いちばんのたからものは、ひかるいしと、このみんしゅくでの、おもいでです。

            やまだ けんたより』


 読み終えた時、俺の視界は、いつの間にか滲んでいた。こらえきれなくなった涙が、熱い滴となって、頬を伝う。


「よかったですね、田中さん」


 隣でリサが優しい声で呟いた。

 初めての客を無事に送り出し、確かな手応えと、最初の売上、そして何物にも代えがたい宝物を手に入れた。


「さあ!」


 俺が感動に浸っていると、リサがパンと手を叩いて、いつもの調子に戻った。


「感傷に浸ってる暇はありませんよ、ご主人! 次なるミッションです!」


 彼女はニヤリと笑って、スマホの画面を俺に見せてきた。


「昨日、山田さんとは別のところから、また問い合わせのDMが来てました! しかも見てください、この文章! 今度は、なんと海外からのお客さんかもですよ!?」


 俺のダンジョン民宿の物語は、まだ始まったばかりだ。

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