第一章:因果律の観測者
海音との奇妙な面談はそれから毎日続いた。彼は決して僕と目を合わせようとはしない。ただ窓の外を見つめながら、僕の問いにぽつりぽつりと答えるだけ。
だが、その言葉はいつもどこか奇妙な手触りを持っていた。
ある日、僕は彼に週末の予定を尋ねた。
「今度の日曜日、施設のみんなで近くの山へハイキングに行くんだ。海音くんも一緒に行かないか?」
彼はしばらく黙っていた。
そして空を見つめたまま、静かに言った。
「日曜日は雨が降るから、行かないほうがいい。山の土は水を吸うと脆くなる。特に北側の斜面は危ない」
その言葉は天気予報というよりは、むしろ確定した未来を語るかのような響きを持っていた。週末の天気予報は晴れだった。僕は彼の言葉を子供らしい気まぐれだと思った。
しかし、日曜日。空は朝から厚い雲に覆われ、昼過ぎにはバケツをひっくり返したような豪雨となった。そして夕方のニュースで僕は戦慄することになった。ハイキングコースになっていた山の北側の斜面で小規模な土砂崩れが発生したと。幸い怪我人はいなかったが、一歩間違えれば大惨事になっていたかもしれない。
偶然だろう。
僕はそう自分に言い聞かせた。
だが、それからも彼の不可解な「予言」は続いた。
「高槻さんの車、もうすぐ壊れるよ。エンジンの中のベルトが擦り切れてる」
翌日、僕の愛車は高速道路でエンジン停止した。
原因はタイミングベルトの断裂だった。
「施設の猫のミーコ、今夜赤ちゃんを産む。三匹。白が二匹で黒が一匹」
その夜、ミーコは物置小屋で三匹の子猫を産んだ。毛の色まで彼の言った通りだった。
彼の能力は超能力的な「予知」とはどこか違っていた。
彼は未来を視ているのではない。まるで複雑な数式を解くように、この世界の膨大な因果律の構造をただ淡々と読み解いているかのようだった。
僕は彼の両親の事故について改めて調査することにした。彼の父親は量子物理学の研究者だった。母親は記号論理学を専門とする数学者。夫婦は自宅である共同研究に没頭していたという。
『複雑系における因果予測モデルの構築』
その難解な研究論文の草稿が事故現場の車の中から見つかっていた。
僕は恐ろしい仮説に思い至った。海音は両親からその究極の知性を受け継いでしまったのではないか。そして事故のショックが引き金となって、その常人には理解不能な能力が覚醒してしまったのではないか。
彼はこの世界のあらゆる事象の背後にある膨大な情報の因果律を、僕たちとは全く違う解像度で観測してしまっている。だから彼にとって未来とは予測するものではなく、ただ論理的に導き出される一つの結論に過ぎないのだ。
だから彼の瞳には感情の色がないのだ。
未来が全て分かってしまう世界に、驚きも喜びも悲しみも存在する余地はない。
その夜、僕は彼の両親の研究資料を詳しく調べた。そこには僕の想像を遥かに超える内容が記されていた。
「量子もつれ理論の意識への応用」
「観測者効果が引き起こす現実の分岐」
「ゲーデルの不完全性定理と自由意志の証明」
彼らは単なる因果予測を研究していたのではない。この世界の根本的な構造そのものを解明しようとしていたのだ。そして、その研究の最終目標は「意識による現実の再構築」だった。
僕が、その恐ろしい仮説を上司に報告した数日後。
施設に二人の男が現れた。
内閣情報調査室。
彼らはそう名乗った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます