第二章:問いの再構成

「海音くんの身柄を我々に引き渡していただきたい」


 面談室で黒いスーツを着た男の一人が冷たい声でそう言った。


「彼の能力は国家の安全保障にとって極めて重要な戦略的資源となりうる。我々の管理下で保護し、その能力を最大限に活用させていただきたい」


 保護という名の利用。

 僕は強い嫌悪感を覚えた。

 海音は物ではない。

 ましてや兵器ではない。


 彼は心を閉ざした一人の傷ついた子供だ。


「……お断りします」


 僕ははっきりとそう答えた。


「彼はまだ精神的に不安定な状態です。専門的なケアが必要です」

「ケアなら我々が最高の環境を用意する」

「それはケアではありません。実験です」


 交渉は決裂した。だが彼らは諦めなかった。数日後、彼らは法的な手続きを持って再び現れた。国家安全保障特別措置法。僕は抵抗することができなかった。


 海音が連れて行かれるその日。


 彼は初めて僕の目をまっすぐに見た。その透明な瞳の奥にほんのかすかな感情の揺らぎが見えた気がした。それは助けを求める色だったのかもしれない。


「高槻さん」


 彼は小さな声で言った。


「僕の能力について話していいことがある」


 僕は身を乗り出した。


「僕が見ているのは、この世界の『表層』の因果律だけなんだ。でも、その下には『深層』がある。僕の両親は、そこにアクセスしようとしていた」


「深層って?」


「意識の海。すべての可能性が重なり合っている場所。量子物理学では『並行世界』と呼ばれているところ。僕は時々、そこからの『声』を聞くことがある」


 彼の言葉に僕は鳥肌が立った。


「その声は何と言っているんだ?」


「『選択せよ』って。この世界の決定論的な流れを受け入れるか、それとも新しい可能性を創造するか」


 その夜、僕は決意した。僕が彼を守らなければ。大人の都合で彼の心をこれ以上傷つけさせてはならない。



 僕はその夜、施設を抜け出し、海音が移送された都内の研究施設へと向かった。幸い僕は彼の担当者として施設への一時的な立ち入り許可を得ていた。


 深夜、僕は海音の部屋に忍び込んだ。彼はベッドの上で静かに本を読んでいた。その本は『意識と現実』という哲学書だった。


「……高槻さん」


 彼は驚かなかった。

 まるで僕が来ることを知っていたかのように。


「行こう、海音くん。ここから逃げるんだ」

「……どこへ?」

「分からない。でも君をこんな場所にいさせるわけにはいかない」


 彼は静かに本を閉じた。

 そして僕に一つの問いを投げかけた。


「高槻さんは?」

「……それは君が心配だからだ。君はまだ子供で、守られるべき存在だからだ」

「それは高槻さんの主観的な感情だよね。客観的な事実として僕を保護することは国家の利益に反する。僕を自由にした場合、僕の能力が敵対勢力に利用されるリスクもある。それでもあなたは僕を連れて行くの?」


 まるで僕の行動の前提を問い直すかのような言葉だった。彼は問いに対して答えを出すのではなく、「問いの問い」を立て直していた。


「僕を助けるという行為の倫理的な根拠は何?」

「……理屈じゃないんだ」


 僕は必死に言葉を探した。


「僕はただ君に普通の子供として生きてほしい。笑ったり泣いたり怒ったり。未来が分からないからこそ感じられる、そういう当たり前の感情を取り戻してほしいんだ」


 僕のその言葉を聞いた海音の瞳がほんの少しだけ揺れた。


「……分かった。行こう」


 彼は僕の手を取った。

 その手は驚くほど小さく、そして冷たかった。


 僕と未来を知る孤独な少年の奇妙な逃避行がその夜始まった。

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